第4話(壷中)

 エレベーターの壁に背を押し付けながら僕は思った。

 お、お礼に何だ?

 こ、こ、これは、どういうことなのか?

 そういうことなのか?

 そういうこととは何だ!?

 いらぬ妄想が脳内を駆け巡ったかと思えば、頭の血はどんどん下に降り、鼓動が激しく音を打つ。果たして頭がぼぅっとするのは加速するエレベーターの重力作用のためだけではあるまい。

「着きました」

 空夢の声で我に返る。

「ん?」

 降りたところは最上階のレストランだった。

「もちろん予約は入れてありますのよ」

 彼女の笑みに屈託はない。

 そこはそのホテルが最も注力する所謂いわゆるメインレストランだった。

 最上階とは思えぬ天井の高さ、凝った造りのカウンター、大理石の柱には彫刻が施されている。ウェイティングルームに通されると、ふかふかの絨毯に革張りの椅子がある。壁面は全面がガラス張りで街並みが一望できた。

 世俗と切り離された有り様は正に「壷中こちゅうの天」と呼ぶに相応ふさわしい。

「なんじゃこりゃ!」

 あまりの絢爛ぶりに驚嘆が口を衝く。

「ランチには少し遅いのですが……」

 確かに事前に昼食は摂らないで来るように空夢から言われてはいたが、まさかホテルのレストランで食事とは思いも及ばない。精々せいぜい、ファストフードでのゆるいランチくらいしか想定していなかった。それが世俗の発想というものだろう。

 席に座ると当たり前だが綺麗にテーブルがセットされている。見る限りコースであるらしい。

 僕は慌てて自分の財布の中身を思い返した。

 ピン札の五千円が一枚、くたびれた千円札が三枚、あとは有象無象うぞうむぞうの小銭の一群である。どう考えても、このラグジュアリーな空間には太刀打ちできそうには無かった。

 無論、ここに誘ったのは空夢であるから払いは彼女持ちだろう。が、しかし、果たして、彼女が「財布を忘れちゃった、テヘ」とならないと、どうして言える?

 仮にそうなったら慌てず騒がず自分の財布から札を取り出すのが紳士の振る舞いというものではなかろうか?

 …などと勝手にあれこれと思い悩んでいると給仕がやってきた。

「幼い頃から、このスープが大好きなのです」

 運ばれてきたスープを見つめながら空夢が言った。

「スープ……ですか?」

 一見したところ普通のポタージュスープのようである。取り立てて、逸品と呼べる代物ではない。

 そういえば冒頭のエピソードがスープの話だった小説があったことを思い出す。あれは「斜陽」だったか。確かスープの飲み方にまつわる蘊蓄うんちくだった筈だ。

 彼女を見ると、実に綺麗な所作しょさでスプーンを口に運んでいた。あまりの見事さに見惚みとれていると、それに気付いた彼女が怪訝な顔をした。

「どうか、なされましたか?」

 僕は我に返って言った。

「あ、いえ。とても綺麗な所作でしたので」

 理由が分かった空夢は安堵したように微笑んだ。

「ふふ、子供の頃はよく母に叱られましたから」

「叱られた? テーブルマナーで?」

「ええ、そうです。でも、きっとそれは仕方なかったのでしょう」

 急に彼女の声のトーンが落ちる。

「仕方なかった?」

 幼少期からシティホテルのレストランで食事をしているような環境で過ごしたお嬢様である。マナーに厳しかったことは特におかしくないように思われた。

 しかし「仕方なかった」とは、どういうことなのだろう?

 目前もくぜんの彼女は少し寂しそうに見えた。

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