第5話
ネリがやってきて、もう一ヶ月経つ。彼女も随分と友達ができたみたいで、ヨルとは打って変わって、学院の生活が楽しそうだった。
「今日は行けなさそうね……」
秋雨の割に暖かい日だった。寮の談話室にある新聞には異常気象だと書かれていたことをぼんやりと思い出す。
誰もいない教室の窓を軽く開けて、水を含んだ木々や空気の香りを嗅いだ。
「こんな日は気分が沈んでしまうわね。最近はあなたとも話す時間も取れないし」
ふと、ネリの澄んだ声が響く。最近は雨が続いていたり、掃除当番や試験や聖歌の練習で庭へ行く時間があまりないのだ。
「ネリ……アンたちと音楽室に行ったんじゃ……」
ネリは同級生とは満遍なく接している。移動教室はアンたちだし、昼食はルミたちだ。そして、晴れの日の放課後はヨルと過ごす。
「あなたこそ、音楽室に早く行かないと委員長に怒られちゃうわよ」
「そうね……一緒に行きましょう、ネリ」
ヨルは窓を閉めて、自分の机に置いてある楽譜に手を伸ばす。しかしそのヨルの手はネリが取って、ダンスに誘うかのように、くるりと引っ張る。
「ネリ?」
「遊びましょう、ヨル!!」
ネリはヨルの手を引いて、音楽室とは反対に飛び出していく。廊下を走るなんてはしたない。もうすぐ授業が始まってしまう。音楽の授業はクリスマスの聖歌の練習だ。ヨルはメゾソプラノでいつも主旋律のソプラノにつられてしまう。だからあと二ヶ月で完璧になるように練習しなきゃいけないのに。
でも、音楽の先生には叱られてばかりだし、ぐちぐちと文句を言われる。そんな様子を笑う子もいたりして。だから歌は好きなのに音楽の授業は嫌いだった。
校舎から出た頃に、授業開始のベルがなる。
ざあざあと降り頻る雨の中、ネリはそんなものお構いなしに踊り回るように走る。
二人の足は自然とクロッカスの花園に向かっていた。すっかりと木々は色づいて、庭の中でもたくさんの落ち葉が鮮やかに暖かい色を描いていた。
「びしょびしょね、ヨル」
東屋の下で、無意味な雨宿りをしながら、ネリは楽しそうに歯を見せて笑う。こんな無邪気な顔もするんだと、ヨルはぼんやりとネリを見つめた。
ネリは突然一人で雨な中に飛び出し、ヨルの方へ振り返る。
「久しぶりに、踊ってみようかしら」
音楽室からいつもより上手な聖歌が流れる。それに合わせて、ネリは体を動かした。バレエを基礎としているけど、少し違う。指先一つ一つを丁寧に伸ばし、上気した頬に濡れた髪が張り付くくらい回って、ゆっくりなのに、少し激しさのある不思議なダンスだった。
ネリのダンスを見ているうちに、雨は弱くなり薄く陽が射す。霧雨の中、不規則なスポットライトに照らされるネリは、神話の中にいるみたいだった。
一曲、踊り終わる頃には雨は随分と小雨になっていた。
「素敵だったわ、ネリ」とヨルは小さく拍手をした。
「ここに来てからなかなか好きなダンスができなかったの。久しぶりに踊れて嬉しいわ」
「これが、好きなダンス?」
「そう、前の学校の先生から教えてもらったのよ」
ネリは息を少し切らしながら、制服を脱ぎ始めた。流石の行動にヨルも驚いてしまう。
「ネリ!? 何しているの?」
「濡れてて気持ち悪いし、暑いんだもん。それにここ、誰もいないし」
白い膝丈のスリップ姿になったネリは、ローファーもタイツも脱ぎ捨てて、東屋のベンチに濡れた服を乱雑に置いた。
いつもは制服とタイツで黒く覆われていたスリップワンピースも手も足も白鳥みたいに白く、雨に濡れて煌めいている。
「やっぱりこの方が気持ちいい」
「風邪ひいちゃうわ、ネリ。こんなに寒いのに」
「濡れた服を着てた方が寒くなるわ。それに、踊っていれば暑くなるわよ」
ネリは「一緒にどう?」とでも言いたげに、ヨルに手を差し出した。白いドレスを着た天使に誘われてるみたい。
「でも、わたし……ダンスなんて……」
ヨルが濡れたスカートを握り締めて俯いているとネリはその手を取って笑う。
「任せて。ヨル」
ネリはヨルの手を引いて、軽快にステップを踏む。ヨルも引っ張られて、歪にリズムを取って回る。
メロディーのない音楽に合わせて、ネリの裸足は泥を蹴って跳ねる。ヨルの黒い革靴も三つ折りの白い靴下も泥で汚れていく。二人分の呼吸は荒く、顔に花が咲いたみたいに頬が赤くなる。
ネリはヨルの腰に手を当ててターンを決める。そのままヨルから離れて、少しふらつきながらステップを踏んで、ヨルへカーテシーする。ネリの音楽が止んだみたい。
ヨルもネリにつられて膝を曲げてお辞儀をした。
ヨルが顔を上げた時、ネリはヨルの首元に絡みついて抱きしめる。
「最高よ!! 素敵だわ!! ヨル!!」
子供みたいに飛び跳ねるネリの腰に手を当てて、ヨルも「落ち着いて」と笑う。
「こんなに楽しいダンスは久しぶりなのよ!!」
ネリはそう言いながら、ヨルから離れる。
「わたしも、こんなにダンスが楽しいなんて知らなかったわ」
悪戯っぽく笑ったネリは、ヨルの顎に手を当てて唇に一瞬、キスをした。
「相性が良いのね、あたしたち」
ヨルは自分の唇に指先を当てて、ネリの首元を見た。ネリの顔が見られないの。
「さて、どうやって先生とクラスの子たちを誤魔化しましょうね」
ネリは何でもないように、濡れた制服を着始める。ちらりとスカートが動き、細い太腿まで泥が跳ねてるのが見えた。これじゃあ、タイツは履けないだろう。
「ヨル、ひとまず寮に行きましょう。着替えなきゃ。寮母さんにバレない入り方、知ってるのよ」
雨はいつの間にか上がって、さっきまで光っていた雲の切れ間は塞がれてしまって、空はどんよりと灰色だった。
「早く」って準備の整ったネリはヨルの手を握り、歩き出す。
ヨルは、繋いでいない手で顔に触れる。ほっぺが熱いのも、心臓がバクバクするのも、ダンスをしたからだろうか。
雨の味がする唇に、まだ柔らかくて生温い感触が残っていた。
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