第4話
初等部から高等部までずっと一クラスしかない。だから、同じ学年のネリとは自ずと同じクラスになる。ヨルはネリと同じ時間を同じ空間で過ごせることを夢見ては、歯を二回磨いてしまったり、シャツを裏返しで着てしまったりと、朝の準備から落ち着かなかった。
そわそわしながら待っていると先生から説明があって、他の同級生も転校生だって浮かれて騒がしくなる。それなのに、教室のドアが開いて、ネリが長い黒髪とスカートをなびかせて入ってきた瞬間、平日の早朝の教会みたいに静まり返る。誰もが息を飲んで、ネリに見惚れていた。
ネリだけだ。ネリだけが時の止まった教室をゆっくりと動いている。時間さえもがネリのために存在しているみたいだ。
教壇の隣で、ネリはカーテシーをする。優雅に伸びた白い指先は、いつか芸術鑑賞会で見たバレエ団のプリンシパルが舞台コールに応えた時の挨拶を思い出させた。
ネリは名前と、「どうぞよろしく」と挨拶しただけで、指定された廊下側の後ろの席へと座った。薄暗かったその空間に白百合が一輪咲いたみたいに華やいだ。その瞬間、糸が切れたみたいに教室内が静かに騒めき出した。
今日一日、残念だったと言えば良いだろうか。
せっかくネリと話ができると思ったのに、お昼休みも含めて、すべての休み時間の間ネリは他の同級生に囲まれて、近づくことができない。それに加えて、廊下側の一番後ろなんて、窓際の後ろから二番目に座るヨルからは姿を見ることさえ難しいのだ。いくらネリの姿を見たいからって授業中に後ろを向けば先生に注意されて、それが続けば反省文を院長先生の部屋で書く羽目になる。運が悪ければ、朝夕の掃除を強制させられてしまう。そうなればネリのためのクロッカスのお世話もできなくなってしまう。それだけは避けなくてはならない。
この日はネリと話すタイミングを窺うばかりで、結局、挨拶はおろか、目を合わすことさえできなかった。
転校初日なのだから仕方ないと、ヨルはため息を吐いて、誰もいなくなった教室から、クロッカスの花園へと向かう。
「待ってたわ、ヨル」
東屋のベンチに座って、ネリはこちらを見ていた。やっぱり、彼女がひとりここに来るだけでいつもの庭に光が射して、絵画のように完璧な世界に見えてしまう。
「ここにいれば、あなたとお話しできると思って」
目が眩むほどの笑顔を見せて、ネリは甘えたような声でそう言った。
「ネリ……。びっくりしたわ。花は植えたばかりなのに、もう咲いたかと思った」
「くたびれちゃったわ。あんなに話しかけられるなんて初めてよ」
ネリは肩を竦めて困ったように笑う。ヨルは彼女を真っ直ぐ見てられなくて、少し俯き、彼女の足下を見る。薄手の黒いタイツを履いている。
「ネリが美しいからよ」
「転校初日だからよ。知ってる? 人は知らないこと本能的に知りたがるって」
「気の合う子はいたかしら……?」
「まだ、わからないわ。でもね、少なくともヨルとは仲良くしたいわ」
トクンと、胸が跳ねる。ヨルは上目でチラリとネリを見て、すぐに目を逸らした。ネリの言葉が嬉しくて、恥ずかしくて、ヨルの頬は熱くなり、口角はひくひくと柔らかい弧を描いた。こんな可笑しな顔見せられないと、顔を手で覆う。
「ところで、花を植えたって言うのはチューリップとム……何だったかしら?」
あまりにヨルが黙っていたからか、ネリがそう聞く。ヨルは必死に顔を戻して、顔を上げた。
「クロッカスよ。全部クロッカスにしたのよ」
「全部を!?」
「花壇の二段目を埋めるくらいの分しか無かったのだけど……でもせっかくならクロッカスの花畑にしたいと思うの。先生に相談したらくれるかしら……もしダメなら外出許可をもらえた時に買いに行こうかしら……」
「へえ……咲くのが楽しみだわ。ヨル、クロッカスはいつ咲くの?」
「春よ。二年生になる頃にはきっと」
ヨルはゆっくりと花壇の前に座ってそっとクロッカスが眠る湿った土に触れる。
「……クロッカスの花言葉は青春の喜びと切望よ。ネリ、春のようなあなたにぴったりだわ」
ネリは「まあ」と嬉しそうに声を上げて、ヨルの隣にしゃがみ込み、ヨルと同じように土をそっと撫でた。
「あたしのメシアは本当に素敵な花なのね」
ネリは、花たちに「綺麗に咲くのよ」と柔らかく子守唄みたいに言葉をかける。
「根が張るまでのひと月は、毎日水をあげるの。それからは冬の寒さを超えて、芽が出るまでは様子を見ていくわ。絶対綺麗に咲かせるわ」
「楽しみね」とネリは答えて、続ける。
「ヨルは毎日ここに?」
「ええ。晴れの日はいつも来てるわ」
ネリは宝物でも見つけた時みたいに、パッと瞳を輝かせた。
「なら、あたしも来て良いかしら? 放課後はあなたとあたしだけの時間を作りたいわ」
ヨルは温かくなる胸をキュッと押さえる。
「うん……わたしも、ネリと話したい……」
嬉しさで、どうにかなってしまいそう。ヨルの醜い世界は、彼女が降り立ったから、美しく喜びに溢れた。彼女と過ごす日々が永遠に続けばいいと、願わずにはいられなかった。
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