第3話

 「昔、おばあちゃんのお家に犬がいたの」


 ネリの顔から笑みが消える。形の良い眉が少し歪む。


 「大きい犬だったわ。あたしも小さかったからかもしれないけど、背中に乗れちゃうんじゃないかしらって思うくらいなの。種類はきっと雑種よ」


 どれくらい大きいのだろう。ヨルは実家で飼っている小型のテリア犬を思い出す。プライドが高くて、神経質な子で扱いにくいが、長期休みで帰省すると必ずそヨルに甘えてくれる。父の趣味で飼い始めた割に、ヨルも可愛がっていた。


 きっと、ネリは犬が嫌いなんだ。そうじゃなきゃ、もう少し笑顔で話すはずだ。


 「その犬に、一度噛まれたことがあったの」


 「そんな大きな犬に? 大事じゃないの……」


 「そうよ。犬に倒されて、とっさに顔を庇ったわ。そしたら、耳を噛まれたの」


 そう言って、ネリは髪の上から左耳に手を当てる。今まさに噛まれたように顔をしかめるが、その歪んだ顔さえ美しい。


 「血も出たわ。頭もクラクラして、あたし死んじゃうのかしらってそう思ったの……」


 ネリはようやくクスリと笑う。「耳からの出血なんて知れた量だけどね。当時は本当にそう思ったのよ」って。


 「ママやパパが助けてくれたわ。おばあちゃんも顔を真っ青にしてて、血を流したあたしなんかよりもずっと青かったのよ。結局、パパがお医者様だから手当てしてもらったわ。何針か縫ったのよ、それで……痕が残ったわ」


 ネリは手を膝に乗せ、俯く。髪が顔にかかり表情は見えないが、悲しみというよりは怒りや悔しさの感情が痛いほど伝わってきた。

 顔に残らなかったのが不幸中の幸いよね……なんて完璧なネリにだからこそ言えない。


 「その後……その年の秋の頭。今くらい……もう少し早かったかしら。その頃にね、おばあちゃんが庭にクロッカスを植えようとしてたの。それを、犬は食べてしまったみたいよ」


 ドキンと心臓が跳ねる。じわりじわりと嫌な予感がそこから広がっていく。

 球根は毒であることが多いのだ。


 「その犬、それから数日で死んでしまったわ」


 ネリは目を細めて、笑う。


 「あたしに、傷をつけた犬をクロッカスは殺してくれたの」


 傾いたネリの顔に柔らかく陽が射す。


 「だから、クロッカスはあたしの救世主なのよ」


 ヨルはただ、言葉を失った。

 犬を殺したクロッカスを救世主だと言うネリ。人じゃないとは言え、生き物が死んだことを笑うネリが人であれば異常だ。


 「ヨル、あなたは、この話をどう思う?」


 ネリは三日月みたいに口を歪めて、聞く。

 異常だ。ネリは狂っている。身内が飼っている犬が死んだのに、こんな感覚を普通の人間が持てるはずない。それなのに、わたしはネリに嫌悪感なんて持てないのだ。


 「あなたは、美しいわ。ネリ」


 ネリは笑顔を張り付けたまま、目を丸くする。そうだ、これは全く回答になっていない。そんなんだから、ネリも返答に困ってしまう。

 それでも、ネリはなんでもないように目を細める。


 「突然、どうしたの?」


 「……ごめんなさい。あなたがあまりにも美しいから、つい……」


 ヨルは顔が熱くなって、土で汚れた右手で頬を覆う。


 「でも、だからわかったわ。ネリ、あなたは選ばれた人なのね」


 ネリは、そっとヨルの右手を取って、「やっぱり、汚れたわ」って真っ白な手でヨルの顔についた土を拭う。少しつねるみたいに乱暴なのだけど、マシュマロみたいに柔らかな手は温かい。


 「ネリ、汚れちゃうわ」


 ヨルは焦って顔を背けようとしたのだけど、ネリがしっかりと頬に触れて、それを阻止するのだ。なす術なく、大人しくネリにそうしていてもらうのも、なんだか恐れ多くて居た堪れない。


 「可愛い顔が台無しよ。それより、選ばれた人って?」


 ネリは綺麗になったと笑う。

 ヨルは唇を噛んで、俯いた。

 

 「あら、怒ってしまったの?」


 「その……なんだか、照れてしまったのかしら……あなたみたいな人に触れられて……」


 「気にしすぎよ、ヨル。それより早く教えて頂戴。選ばれた人ってなに?」


 ネリは目をぱっちり開いて、好奇心旺盛の子供みたいに前屈みにヨルの顔を覗き込む。


 「ネリは……神様に愛されたのね。あなたを傷つけることはきっと死に値する大罪なんだわ。だから……犬には可哀想だけど、報いを受けたんだわ」


 「そんなこと言う人、初めて。みんな、この話をするとあたしのこと避けるのよ」


 「わたしも、あなたみたいな人とは初めて出会った……」


 「あなたのこと気に入ったわ、ヨル。これから、よろしくね」

 

 ネリは、「それじゃ」と庭を出て行く。ひらひらと振る手が花弁みたいだった。ヨルは彼女の姿が見えなくなるまで、目が離せなかった。

 その後、日が落ちてしまう前にと、ヨルは急いで温室へ向かった。そして、チューリップもムスカリも全部放り出して、そこにあるだけ全てのクロッカスを花壇とネリが言った鉢植え一つに植えた。


 手も靴も顔までもが土でどろどろに汚れ、薄明の空の下でヨルは息を吐く。胸の高鳴りが抑えられないのだ。


 春になったら、ここは、ネリのための庭になるのだから。

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