第2話

 温室の倉庫には、昨日掘り起こした、秋咲のグラジオスの他に、先生が言った通りのスイセンやシラー、チューリップにラナンキュラス、フリージア、アネモネ、クロッカス……たくさんある。きっと卒業まで毎シーズン植えたとしても、全ての種類の開花を見ることはできない。

 図鑑で見た限り、スイセンやシラーの他にアネモネやチューリップも育てやすそうだ。それならムスカリと合わせれば可愛くなるのではないだろうか。

 見た目が可愛ければ、多少は育てるのも楽しくなるのだろう。


 ヨルは籠にチューリップとムスカリの球根を入れて、庭へと向かった。

 前回と同じ、花壇に植えよう。庭の入り口から見て、右に東屋がある。その反対側に一番大きな花壇があるのだ。煉瓦造りで、二段になっている丸い花壇。その二段目に。


 飛び石を踏み超えて生垣の中へと入る。

 庭の鮮やかな緑に秋の西陽が射していて、これは絵画のように、映画のワンシーンのように息を呑むほどに美しい景色だった。


 なぜかしら。いつも落ち着くお庭ではあるものの、こんなに、目を細めてしまうほど眩いものではない。


 それがなぜかはすぐにわかった。


 白い東屋のベンチに座り、少女が眠っていた。

 ヨルはそっと近づいて、彼女を覗き込む。寝ている女性をじっと見るなんて失礼極まりない。そんなこと承知の上だけど、それほどに彼女は美しかった。


 新月の夜の闇を溶かした濡れ羽の髪は真っ直ぐと長く、深く射す陽の光に透けて輝いていた。黒髪よりも少しくすんだ濃紺の制服のスカートは長く、彼女の濡れた真珠のような白い手を際立たせていた。


 こんな子、見たことない。


 絵画から飛び出してきたみたいに、こんなにも完璧な子が存在するなんて、まして、そんな子が目の前にいるなんて、夢でも見ているのだろうか。現に、セルシーナ学院に在籍して十年になるのに、見た覚えがないのだ。クラスは一つしかないのだから先輩だろうか。だけど、こんな美しい先輩がいたとしたらすぐに噂になるだろうし、高等部の先輩なら春の始業式の聖歌隊の中にいたはずだ。なら、その時に見つけてないなんておかしい。


 ヨルは随分と長い時間彼女に見惚れていた。


 彼女の長い睫毛がぴくりと動いて、桜桃のような血色のいい薄い唇が呼吸と共に僅かに開く。

 いばら姫や白雪姫の童話を思い出す。王子たちもきっとこんな風に眠る姫を前に胸が高鳴っただろうか。男性と女性だとまた感覚は違うのかしら。

 彼女の睫毛がゆっくりと開く。深海の奥底の瞳がヨルを捉える。この前、図鑑で見たブルーホールを思い出して、心臓が跳ねる。


 「あら……」


 想像以上に柔らかく透き通る声をしていた。この声でアリアを歌えたらどんなに気持ちがいいだろうか。聞く人はきっと天使が歌っているって間違えてしまうのではないだろうか。


 「眠っちゃったみたい……」


 彼女は両手で口を押さえて欠伸をした。いつもなら人前で欠伸なんて恥ずかしいことだと思うのに、どうしてだろう、それがとても可愛らしく見えたのだ。


 「ねえ、あなたは何をしているの?」


 ヨルは、彼女がヨル自身を認識して話しかけているということが全く信じられなくて、瞬きもできないまま、じっと彼女を見つめていた。


 「黙ってちゃ、わかんないわ」


 彼女が首を傾げてヨルを見上げる。その時、急に夢から覚めたみたいに、ぴくりと体が震えた。


 「あ……あの……わたし……」


 「ふふ、ようやく喋った」と彼女は微笑む。白い肌に少し桃色が差し、絵画からようやく人になったように見えた。


 「それは、なあに? クロッカス?」


 「えっと……これは、チューリップとムスカリ。花壇に植えようと思って……」


 ヨルはあんなに見惚れていたくせに、急に恥ずかしくなって、籠を両手で抱えて視線を落とす。檜皮色のチューリップやムスカリの赤ちゃんがコロリと寝返りを打った。


 「ムスカリ?」


 「青い花です。小さくて三角屋根みたいな花……」


 「知らないわ」


 「見たことはあると思いますよ」


 「ねえ、クロッカスは植えられてる?」


 彼女は瞳を輝かせて何も植えられていない庭を見渡した。


 「クロッカス? どうして?」


 「好きなの。クロッカスはあたしの恩人だから」


 いたずらっぽく彼女は笑う。「知りたい?」って。ヨルがおずおずとうなずくと彼女肩を竦めて微笑んだ。


 「あの、鉢植えで良いわ。あれにクロッカスを植えてくれるって約束したら」


 「そのくらいなら」


 「じゃあ教えてあげる」


 彼女はゆっくり、子猫がキスをするみたいに瞬きをして得意げに言う。そして、座ってと言わんばかりに自分の隣のスペースを白魚のような手で叩く。

 ヨルは籠を膝に乗せて座った。心臓がとくとくと鳴り響く。


 「ネリ」


 彼女は黒髪を垂らしてヨルの顔を覗き込み、左手を差し出した。


 「あたしは、ネリよ。高等部の一年に編入になったの。あなたは」


 「ヨル……です……。わたしも高等部の一年……」


 ヨルがネリの滑らかな手にそっと触れると、ネリはキュッと握ってくれた。

 天使とも女神とも形容できない美しい少女、ネリとの出会いだった。

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