第4話


◇◆ 4 ◆◇



 いよいよこの日が来た。セシル・クレイモアは大型揚陸舟艇に乗り込みながら、ススペ西方の海岸を眺めて独りごちた。ビーチには景観を損ねる戦車や砲台が待ち構えており、それももうすぐ消し飛んでしまうのだと思うとセシルの心は寧ろ踊る。あれさえ重火器で対処すれば上陸を成し遂げられ、上陸さえできれば白兵戦が待ち構えている。こちらサイドでは揚陸艦の他に戦艦二隻が支援射撃の為に控えており、正直これは邪魔だったが上陸に必要ならば仕方がない。端正な顔を引き攣らすように薄ら笑むセシルの周囲には、禍々しい雰囲気が漂っていた。


 極東陣営を前にうずうずしたような彼を横目で見たレゼアは、「とうとうこの日が来たか」と憂鬱な気分になっていた。溜息をつくなんていう愚かは犯さない。些細なことにも目敏い彼に知れない筈がなく、決戦を前にした気の持ち方を糾弾されるだろうことも目に見えている。歓喜と興奮に震える彼から目線を外したレゼアは、次いで海岸の砲台と艦砲を交互に見た。


 向こうも人手不足なのか戦力差は明らかで、もうこの艦砲だけで極東陣営を制圧できるのではないかと思う。しかしそうなってしまえば、楽しみを潰された隣の男がなにをしでかすか分かったものではない。板挟みにされたレゼアは、少し気が滅入っていた。


 そんなレゼアを横目で見たセシルは、きっと彼は乗り気ではないし憂鬱なのだろうなと思った。あまり感情を表に出さない男だが、何を思っているかはなんとなくの雰囲気で分かる。僕を否定することはないが、代わりに賛同することもない。それがレゼア・ウェーバーという男だ。彼とはもう二十年以上の付き合いになる、古い友人だった。



 主従に近い交友関係は物心ついたころからすでにあった。もともと父親同士が友人で、互いに貴族の自出で身分的な差はさほどないのだけれど、精神的な格差はあるというか、親玉と子分のような間柄だったことが全てのはじまりだった。


 親の関係がそのまま子に引き継がれた、というわけではない。ただセシルは能動的、レゼアは受動的だったからそう見えたのだろうが、実質的には主従関係ではない。《付かず離れずの幼馴染》というのが、二人の間にある関係だった。



『百年戦争のポワティエ、対仏大同盟のワーテルロー、此度のノルマンディー。ブリタニア軍が勝利した要因は何だと思う?』



 前回の世界大戦の最中、軍事学校で騎士号を獲るための修学中に問うたことが何度もある。歴史探求が好きだったセシルは、欧州に続く血塗られた争いの歴史を調べてはレゼアに問いかける事が度々あった。特に興味のないレゼアは問われても困るだけなのだが、こうなってはなかなか解放してくれないので答えるしかない。



『……騎兵の強さ、か?』



 剣術の手合わせをしながら答えると、セシルは剣を振り上げて嬉しそうに語り出す。『騎兵』は彼が歴史の問いかけをしたときの模範解答だ。世界大戦に突入して以来、特に中世あたりの戦史に傾倒しはじめたきらいがある。



『ああ、僕もそう思う。それから歩兵も。苦戦もしているが、過去の戦争では多くの部隊がブリタニア騎兵団に敗れている。……少し前まではそれが主流だったのに、近年は化学兵器や航空機が横行するようになった……!』



 レゼアは剣撃を受け流して突き上げながら、興奮しはじめたセシルを冷静に見ている。



『強力な武器を用いて一掃するなんてナンセンス! 人の手によって直接勝敗を決すのが美しいというのに……そう思わないか、レゼア?』


『……』


『なのに軍の人間は、そんなものは時代遅れの愚行だという! 今こうして学んでいる剣術も! 馬術も! 騎士道も! 見て呉れだけで実戦ではまったく使われていない! 今や騎兵団は、仰々しい式典を綾なすお飾りに過ぎん! いいのかこれで? いや、いいはずがない……!』



 問うたくせに口を挟む隙を与えないほどの勢いで捲し立て、激情に任せて繰り出し続ける剣撃は乱れている。自己完結で終着点へ辿り着こうとしているセシルの剣を往なして弾き、レゼアは地に膝をついた彼を見下ろした。もうその目にレゼアは写っていなくて、完全に自分の世界に入り込んでしまったというていだ。


――こいつ、またか。レゼアは剣を鞘に収め、セシルの剣も拾い上げながら小さく息を吐いた。穏やかそうな容姿とは裏腹に気性が荒いのは元々だが、最近になって精神的に不安定になったような気がする。こうして騎士学校に通っているくせに現代の騎士の在り方を糾弾するのも今に始まったことではなく、その度に肝を冷やす。今ここに、教官や先輩がいなくて本当に良かった。


 彼の理想と大きく掛け離れた騎士像に絶望して挫折しかけ、それを乗り越えようと躍起になっているところなのだろう。何かフォローすべきか?と考えたのは一瞬で、すぐにやめた。変に声を掛けて刺激して、また何か捲し立てられては厄介だ。


 会話が不得意なレゼアと常時饒舌なセシルとでは圧倒的に分が悪く、延々と思想と理想を聞かされる羽目になってしまう。彼の思想を否定するつもりはないが理解し難く、やや危険だという印象があった。


 それでも見限れずにいるのは、彼自身の人徳によるものかクレイモアの呪いか。先祖代々、百年以上に渡るクレイモア家とウェーバー家の交友関係を不意に思い出したレゼアは苦笑し、回顧を断ち切って横に立つセシルに向き合った。



「セシル。お前の望む戦争はここにあったか?」



 セシルは驚き顔で見ていたが、何を馬鹿な、とレゼアは思う。『カメリアへ行こう、レゼア。そこの南方戦線には僕が望む白兵戦が山のようにありそうだ』――あのとき思いの丈をぶち撒けて自分の世界に入り込んでしまった彼はそう言ったのだ。衝動に従った彼に連れだされ、極東と南方で鎬を削っていた新興国カメリアへ無断で渡航したのはもう十五年も前のことだが、その理由を忘れたことは一度もない。



「ああ、こうして直接手を下せる戦とはやはりいいものだ。……ウメムラも十分育った。見ろ、あの目を。一年前までは一般職だった人間とは思えない仕上がりだ」



 セシルが振り返った先には、じっと海岸を見つめる亮がいる。その眼光は強く鋭く、同胞との討ち合いを躊躇するといった雰囲気は感じられない。もともと異常なくらいに物分りがよく、落ち込むことはあっても『これが今の仕事だ』と割りきっていたような印象がある。ここ最近になってからは寧ろ必ず討ち取るという強い決意が感じられ、セシルは嬉しく思っている。


 どんな心境の変化があったかは知らないが、彼という存在は《最強の歩兵部隊》を創りあげる上で必要不可欠な存在だ。凛々しく禍々しく、鮮烈で苛烈なカサブランカ。強制入隊に反発していた兵士たちも、彼の理念に感化されていい働きをしてくれた。


 あまり多くの人員を集められないぶん過酷な戦いになり、その殆どが死んでしまったけれど、彼らが戦ってくれたおかげで、今ここまで勝ち進んでいるのだという確信がセシルにはある。


 しかしどんなに戦果を挙げようが、その手柄は純正カメリア人で構成された本隊の手柄にされてしまう。嘗てのブリタニア軍のように陸上戦は時代遅れだと嘯いて譲らず、この南方戦線も真剣に取り組む様子が見られないくせに。外国人部隊の指揮を取る都合で指令所へ行く道中に見る、後方で綽然と構えている正規カメリア兵たちを思い出して眉間に皺を寄せたセシルは、そのまま目を閉じて苦笑した。



「もう少し付き合ってもらうぞ、レゼア。最強の歩兵部隊を創って、今日こそ白兵戦の重要さを知らしめる」


「ああ。死ぬまで付き合ってやるさ」



 互いの顔は見ず、正面に見える海岸の戦線を見据えて不敵に笑む。きっとこれが、最初で最後のチャンスだ。揚陸船艇に乗り込む前に見せられた作戦書類の文面を思い出した二人は、ぎぎぎ、と首を回し始めた砲台の音を聞きながら、間もなく到来する上陸の時間を静かに待つ。


 レゼア自身は別に戦術に対する拘りはないが、もうここまで来たなら徹底的に付き合うつもりだ。目的を共有したことに少年時代を思い出したレゼアは、少しだけ寂しくなった。



          ※



 セシルの合図で進攻をはじめた歩兵隊に混じり、亮も続いて上陸する。戦車や榴弾砲といった重火器を使用せずに戦線に立つのは半年ぶりだ。日本刀と予備の拳銃のみを持って敵に向かうのは心もとないが、不安を感じる一方で闘争心は徐々に湧き上がる。艦砲射撃によって地形が変わり、そこに破損した死体が転がっていようが恐怖や憐れみは一切なかった。死んだ極東兵に興味はなくて、路傍の石と同じ感覚だ。我ながら倫理に反した感性だな、と苦笑できるだけの冷静さは持ち合わせているぶん妙な気分だった。


 怖気づいている後ろの新人たちを気にしつつ、自分と同じように転がる死傷者をものともせず進む前方の背中を見る。無骨で長身な背中は見慣れたものだが、この華奢な背中は見慣れない。指揮官がこんな最前戦の先頭にいていいのかと思うが、誰も何も言わないからいいのだろう。いつもの小奇麗な詰襟姿ではなく、自分たちと同じ作業着なのも見慣れず別人を見ているようだ。しかしヘルメットから覗く栗毛は間違いなくセシルであり、妙な錯覚を感じていた。


 まあそれはそれとして、亮はセシルを「不思議な人だ」と思っている。それなりに飄々とした野心家というのが彼に対する印象で、その本心が見えたことは一度もない。自分を妙に気に入っているらしいがその理由も分からないし、なぜ一人だけ生かされたのかも分からない。


 昨日、レゼアが『最強の歩兵隊を創るため』と言っていたが、当時の俺はただの製造技師だ。戦闘に特化したプロフェッショナルたちが集まるはずのそこに、未経験の素人を加える行為が理解できずにもやもやさせられたものだ。


 分からないままでいることが気持ち悪くて、以前に理由を直接問うたことがあったけれど、表現が小難しいうえに饒舌すぎてよくわからなかった。ただ単に自分の英語力が足りないだけなのだろうが、出処の分からない好意をぶつけられるのはあまり心地よいものではなく、それ以来聞いていない。


 隊長にはそれが見えるのだろうか。交わす言葉は少ないが通じあっているような二人の関係は特別なようで、上司と部下の枠を超えているような感覚があった。他人を探るのは苦手なので、深く追求はしていないけれど。


 死屍累々の海岸を抜けて市街地へ踏み込む道中、ごう、と重く空気を切り裂く音がして、亮は震える空を見上げる。近くの滑走路から戦闘機でも出たかと思ったが違う。航空機特有のエンジン音もプロペラ音もないそれは間違いなく――



「新型兵器……!」



 振動音に歩を止めたセシルは、苦虫を噛み潰したような顔で憎々しげに吠える。



「424部隊、総員突撃! 決着を付けるぞ! ……あんなものに邪魔されてなるものか……!」



 セシルの鬼気迫る号令を受け、大きな影を海上に見送った亮は視線を正面に戻す。そのときに見た彼の視線は新型に向いており、穏やかなはずのその目は嫌悪感一色に塗り潰されていた。


 そうか、やはり彼もあれが嫌いだったか。初めて見つけた共通点に、これで迷いなく共闘できるという安心感と心強さを覚えていたが、その一方で絶望的な気分にもなっていた。


――あんなやつらの戦闘に巻き込まれて、万が一にも生き延びる可能性は果たしてあるのか? 頭上を滑空していった新型兵器の威圧感と不気味さを思い出して怖気づいたが、それも強引に断ち切って、セシルとレゼアの後に続く。



「弱気になってる暇はない……俺は、極東軍を壊滅させる……!」



 亮は柄を握りしめて空を睨み、緩やかな坂道を駆け上がった。



          ※



 いつもより空気が張り詰めている気がするのは、戦闘の規模のせいか私の気の弱さのせいか。結局割り切れぬままに決戦の日を迎えてしまったシャオメイは、先陣を切って進むレゼアの後を追いながら迷い続けていた。いつも近くにあるレゼアの背中も、いつもより近くにあるはずの亮やセシルの背中も随分と遠くに感じる。彼女の中に戦意もなにもなく、ただただ侘びしかった。



(駄目……もっとしっかりしないと……)



 シャオメイは柔軟性と小柄さを活かして極東軍の銃撃を躱しながら剣撃を繰り返し、どうにか自分自身を奮い立たせようとした。それでも気分は上がらないし迷いも消えない。


 迷い始めたきっかけは、いま話題の新型兵器だ。ついさっき見たばかりのそれに恐れ慄いたのは紛れも無い事実だが、それ以前に、シャオメイは新型兵器の存在自体を受け入れられずにいた。



(燕兄ちゃんも、あんな風に……?)



 散漫な気分のまま見上げた空には、ぶつかり合う三つの影がある。いままで大型の戦闘機だと思っていたそれが新型兵器なのだと知ったのはほんの数分前で、その本体が生身の人間だなんて俄には信じがたい。今も脳内でひたすらに否定しているのだけれど、セシルが『新型だ』と断言していたし、関係者らしいウメムラも肯定していた。



「あんなのもう……人間じゃないじゃない……!」



 ほとんど泣きながら、向かう敵を半ば自棄になって切り倒して吠える。せっかく所在がわかった義兄が、空の上にいる化け物たちと同じ部類になるのだとあの紙片が言っていた。微かに抱いていた『青年になった義兄に会える日が来るのではないか』という希望を、粉微塵に砕かれた気分だ。


 そういえばウメムラは、あの紙を見たあと「なにもないよ」と言っておきながら怖い顔で笑っていた。あれは何故だ? あの中に大事な人がいたのだろうか。彼も極東人なのだし、それも十分に――いや待て、あれは自信を持って作った新型兵器の成功を喜んでいたのかもしれない。そもそも彼は開発関係者だし、それ以前に極東人だ。祖国の勝利を願い、歓喜したって可怪しくはないだろう。未だに帰郷を夢見ている私のように。


 だとしたら、ウメムラは敵? そんなの嫌だ。シャオメイは状況も忘れて亮を探していた。違うよね、敵なんかじゃないよね。逸早くそれを確認したくて、剣撃の手を止めて視線を泳がす。目の前にある戦いに集中すべきだということは解っている。けれど混乱と失望が絡みに絡んだ脳は制御が効かず、次々考えてしまって散漫だった。それが死活問題に発展すると、気付けない程度には。



「ぅあ……ッ」



 もう一度《新型兵器》を確認しようと空を見上げたところで、背中に強い衝撃と激しい痛みが巡る。背後からの衝撃に押されて膝をつき、身体を捻って振り返ったところでもう三撃。全身に灼けるような激痛を感じながら、仰け反るように後頭部から地に落ちた。


 死ぬほど痛くて苦しいのに、声は出ないし指一本動かない。身体の自由を奪われて強制的に見せつけられたのは空の青で、濁りも淀みもないそこは、嫌味なほどに清々しかった。赤く塗られた地上とは真逆だなと人事のように思いながら、シャオメイは「どうしてこうなってしまったんだろう」とぼんやり考えていた。


 一年前までは、高等学校に通いながら畑の手伝いをする、ごく普通の女の子だったはずだ。世界情勢の雲行きが怪しくなってきはじめた頃ではあったけれど、まさか自分が戦場に立つことになるとは考えたこともなかった。


 今年に成人を迎えるから、それまでに義兄を探し出して成人をお祝いしてもらって、三年前に出来なかった彼のお祝いもしようと決めていたのに。そんな些細な幸福も許されず、殺伐とした世界に身を置いている。


 実家の畑を潰しにきた澄華政府軍に反発したのがまずかったのか。武装して強引に整地を推し進めてきた国家機関を相手に、鍬一本を手にして立ち向かったあの日を悔いてももう遅い。振り下ろした鍬の刃が、澄華兵の肩口に突き刺さる感触を思い出したシャオメイは、「自業自得か」と胸中でのみ呟いた。


 この運命は不幸ではない。必然的に受けなければならなかった断罪だ。その直後に連れ去られて今に至るのだから、きっとそうに違いない。



 それでも、せめてあのときの闘争心を今まで維持できていればもっとマシな結末を迎えていたのかもしれないとシャオメイは思う。この一年の間、傷つきはすれど死ななかったのは強運のせいでも実力があったからでもない。ただレゼアやウメムラの影に隠れ、難を逃れていただけだった。


 セシルやレゼアが抱いた野心を理解しきれず、ウメムラのように使命を全うできもしなかった私が、数ヶ月後輩であるウメムラのような印付きになれなかったのも当然の話だ。


 駆け寄った極東兵がこちらを覗き込み、何か言っているようだが分からない。極東語は不得意だし、聴力も格段に落ちている。けたたましいはずの爆音も絶叫もあまり聞こえず、さっきまでばくばくと煩かった自分の心音も、すっかりと鳴りを潜めていた。


 徐々に徐々に、喧騒は静寂へと変わる。


 痛みも和らぎ全身が弛緩していく感覚に、シャオメイは自身の終わりを予感していた。ウメムラは無事か? セシルやレゼアは? ――いや、確固たる信念を持ち続けた彼らならきっと平気だろう。見せられ続ける空に新型兵器が横切るのを目で追ったシャオメイは、漠然とした安堵に小さく息を吐いた。穴の開いた肺から空気が漏れだすのを感じたが、死への恐怖は不思議とない。


 脱力して支えを失いつつある頭部が傾き、視線の端に地面が映る。その先に見えた自分の腕は傷だらけで、大きな赤い水溜りに浸されている。その水溜りが、自分の傷口から溢れ出た血だと気付くのに大した時間はかからなかった。


 成程、どうりで気怠いわけだ……。そういえば、自傷行為を繰り返していた義兄もこんな腕をしていたっけ。お揃いになったなあ……と傷だらけの腕を見たのを最後に、シャオメイの意識は永遠に途絶えた。



          ※



――カメリア歩兵団の百合夜叉には気をつけろ――。極東歩兵団の合言葉となりつつあるそれを思い出した新兵のはた畝傍うねびは、恐怖に震えて縮こまっている。


 注意すべきなのは《金色の狼》と《百合夜叉》で、特に後者には警戒せよと伝えられている。目も髪も肌も自分たちと同じ色で、その正体は裏切り者の極東人だとも誘拐された極東人だとも言われていた。おそらく同胞と思われる男相手に躊躇なく戦えるか? という問題も懸念されたが、一番の問題はそこではない。彼がその通名の如く残忍で冷徹で、情け容赦ないと言われている事のほうが、畝傍にとっては問題だった。


――詰んだ。そんなのもう出会ったが最期、生きて本土になんて帰れるはずがない。先輩たちの遺体を横目に見た下っ端新兵の畝傍は、配置されていた重機関銃のハンドルを握りしめた。



 同じ分隊の隊員は全滅してしまって、いま定位置についているのは自分一人だ。これが初陣になるためにどうしていいかが分からない。照準器を覗いて引金を引き続けて、カチャカチャと引金だけが動く音を絶望的な気持ちで聞いていた。保弾板から弾丸がなくなっているのだから無駄な行為だと解っている。それでも、万が一にもない一縷の望みを捨てきれず狂ったように引金を引いていた。



「……っ!」



 ザッ、ザッと地を蹴る足音が近づいてくる。反射的に身を強張らせて壕の影に潜み、瓦礫の隙間から盗み見た。見えた黒髪に生き残った味方かと安堵したのも束の間、彼が纏う軍服を見て息を呑む。



「ゆ……《百合夜叉》……」



 極東の薄群青とは違う枯色の作業着、首には銀色の拘束具。あれが例の。立ちのぼる黒煙を背景に立つ《百合夜叉》の姿に、心臓を鷲掴まれたような思いで生きた心地がしない。それでも、畝傍は目を逸らせないでいる。


 その均整の取れた顔立ちや姿勢、黒い双眸の凛々しさ。全身を煤と血で汚しているにもかかわらずその全てが気高く美しく、視線を吸い寄せられるようだった。成る程、それで《百合》か。彼と大輪の百合を重ねあわせて納得したところで、こちらの気配を察知したらしい《百合夜叉》の目が、ぐりんとこちらを向く。



「……!」



 声にならない叫びを上げて、畝傍はただ逃げることに専念した。一瞬の感動も一気にかき消されるほどの禍々しさを発しながら追いかける《百合夜叉》には、もう恐怖しか感じない。怒鳴りも呻きもせず無言なのが恐怖心を一層煽り、その足音が着々と近づいているのを、半ばテンパッて聞いていた。


 足場の悪い街道を必死に駆けていた畝傍だったが、艦砲射撃によってできた窪みに足を取られて失速する。ガクン、と膝が落ちた直後に首根っこを強く引かれて天を仰がされた。目を白黒させているうち、迫る切っ先を視界いっぱいに捉える。その背景にある《百合夜叉》はやはり美しくて、悔しくも見惚れながら、無抵抗の秦畝傍はその白刃を受けた。



          ※



どんなに殺傷能力の高い銃も、弾が切れればただの鉄筒。人間を蜂の巣状にもできるはずだったそれは、もはや何の脅威でもない。役立たずになった重機関銃を放って北へと逃走する極東兵を執拗に追う亮は、セシルの言っていた意味が漸くわかったような気になっていた。


 以前からずっと歩兵の、とくに白兵戦の意味について雄弁に語っていた理由はこれか。強力な武器に生身の人間が敵うはずないと高を括っていたが、実際その状況にならなければわからないものだ。そう冷静に考えながら、半泣き状態の極東兵を追い続けた。


 戦場で鍛え上げられた脚力をもってあっという間に距離を詰め、地面の凹凸に足を取られて失速したのを機に首根っこを引っ掴んだ。ごろんとあっけなく転がった兵士の顔は思いの外幼かったが、だからといって情けをかけるつもりは全く無い。俺は、極東軍を壊滅させるのだ……。惚けているかのような目をじっと見ながら、振りかざした切っ先を首に深く突き刺した。



 ごぼごぼと血を吐いて、苦しそうに藻掻いた後に絶命する様を見届けた亮は、妙な違和感を覚えて空を見上げた。二機あったはずの極東機のうち一機の姿が見当たらなかったが、違和の原因はそこではない。空の雰囲気が悪くなったような気がするというか、激しさを増したというか。上陸当初よりも格段に速度も威力も上がっており、本当にもう、その本体が人間だと思えなかった。



――開発室は、峯風さんはいったい何を……?



 自分に与えられた情報よりも遥かに人間離れしてしまっているそれを見た亮は、およそ一年ぶりの絶望を感じていた。しかし、嘆いたところで化物になった彼らは元には戻らないだろう。企画書を見る限りではそうだった。



「……俺はこの地上で、出来るだけのことをする」



 空ばかり見ていたって、俺はそこに行けないのだから意味が無い。亮は地を見下して目を閉じ、一息ついて強引に気持ちを切り替えた。さあ次の相手はどれだ。ぐるりと周囲を見渡したが、そこは既に死屍累々の地獄絵図で生前者が見当たらない。


 このまま極東本拠地に攻め込むか……とそのまま北へ歩を進めようとしたところで、小高い丘の上に人影を見た。ヘルメットを取った栗毛には覚えがある。亮は北上を中断し、悲壮感漂う背中へ向けて東方へと駆けた。



 

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