第1話


◇◆ 1 ◆◇



 黒から急に転換した視界に映ったのは木だ。木といっても自生している木ではなく、天井に使用されている木材。


 見慣れているといえば見慣れているが、天井のつくりは全く馴染みのないものだ。ここは極東きょくとう帝國ではないのか? があがあ鳴く鳥の声を聞きながら、ただただじっと、梅村うめむらりょうは混乱した頭で見知らぬ天井と対峙する。


 半ば強引に、やにわに覚醒した亮は一切の状況を理解できないままに目を白黒させていた。仰向けに横たわったまま硬直させた体は、所々が酷く痛む。そればかりか思うように動かず、金縛りにでもあったような感覚だ。まるで全てを、拒絶しているかのように。


 気持ちの悪い浮遊感からは解放されたものの、次に待ち受けていたのは困惑だった。建物の構造も気候も雰囲気も故郷の極東帝國とは凡そ掛け離れていて、自分が見ているものが夢か現実かもよく分からない。


 知らない世界にひとり放り出されたような気分だったし、じわじわ、ひしひし感じる焦燥に恐怖を覚えている。完全な覚醒へと向かう脳が、《最終結果》として弾き出そうとしている《事実》。それが非常に絶望的なもので、亮の全身はぶわと粟立つ。


 絶望的な気分になれる不安要因は大きく二つ。ひとつは生まれ育った極東帝國の情勢によるものだ。正直、いまの極東は諸外国との友好関係が劣悪だ。十二年前の敗戦で解体されたはずの極東帝國が《瑞星ずいせい事変》をきっかけに再生・独立し、民主制の市民国家になるはずだったそれが、君主制の軍事国家として再始動したことが原因なのだと亮は聞いていた。


 多大な恩恵を受け終えた直後の裏切り、新たに君臨した独裁的な君主、唐突に開始した雪辱戦。散々援助してきた欧米諸国の反感を買うのは、当然といえば当然だと思う。弁解の余地もなく互いに牽制しあう睨み合いが七年間続いた末、極東帝国が欧米諸国に戦争を仕掛けるというかたちで世界大戦が勃発したのは、つい最近のことだった。


 そしてもうひとつの要因は、徐々に思い出しつつあるこれまでの経緯だ。軍事兵装製造技師として勤務していた亮は、派遣先である同盟国の澄華ちょうか国へと渡るために連絡船に乗っていたはずだった。戦争中だと実感できないくらいに穏やかな時間を送っていたのだけれど、事態が急変したのは極東の領海を抜けたあたり。船全体に響く強い衝撃と共に、武装した黒尽くめの男たち――多分男だったと思う、多分――が、何事か喚き散らしながら船に乗り込んできたのだ。


 総じて手にしていた銃をこちらに向けるだけならまだしも、気でも狂えたかのように乱射する奴もいて……同僚や上司たち大勢が凶弾に倒れる様を、恐怖と絶望で濁り淀んだ死体の目を、悶えながらのたうつ上半身を、爆散して四方に飛び散らかった内容物を、この目で、間近に、まじまじと、見せつけ……られて……



「……っ」



 船上でみた阿鼻叫喚の地獄絵図を思い出してしまった亮は、更に体を硬直させながらこみ上げる吐気と恐怖を感じていた。目を閉じていても凄惨な赤は容赦なく映しだされ、どう足掻いても逃れられない苦痛に気が狂いそうだ。


 俺はまだ、夢のなかにでもいるのか? そうだ、夢に決まっている。あんな簡単に大勢を殺されてたまるか……。混乱と苦痛から逃れるために思考を放棄した亮は、そう自身に強く言い聞かせた。恐怖と吐気を振り払うように硬い寝台で寝返りをうち、亮は額に張り付いた汗を拭――――



「――――っ!」



 強引に動かし、顔に引き寄せた腕に見えた銀色と、同時に聞こえた耳障りな金属音に息を呑む。本や映像作品でなら見たことがあるそれは間違いなく手錠で、両腕を二〇センチ以上は開けない仕様になっていた。拘束された両手や白いカッターシャツの袖は赤黒く汚れていて……あの惨事は決して夢などではないという現実を、情け容赦なく突きつけてくる。


 為す術のない絶望に呑まれた亮は、きつく握った手の甲を顔に押し付け打ちひしがれた。それと同時に入室してきた人物の姿は観ていない。コツ、コツと鳴る威圧的な軍靴の音を聞きながら、ただひたすらに塞ぎ込んだ。なんてことない普遍的な日常を送っていたはずだったのに、一転して何か大変なことに巻き込まれてしまった。


 即座にそれに対応できるほどの順応性はなく、寧ろ受け入れてたまるか、認めてなるものかと、脳が《現実》を拒絶する。違う。これは現実ではない。夢の続きか、悪趣味な同僚の悪戯かに決まっている。だってそうだ、こんな、こんなことが現実にあるはずない――



「……You're unfortunate.(不運な奴め)」



 目元に押し付けていた手を強引に引き剥がされ、開けてしまった視界に映ったのは金髪碧眼の男の顔だった。失意のどん底に突き落とされた亮の虚ろな目は、焼きついていつまでも離れない地獄絵図の奥に星条旗を見た。耳慣れない言葉、見慣れない人相、敵の国旗、手錠。


――国内にいれば取り敢えずは安全だが、一歩国から出れば命の保証はない――。開戦前から散々聞かされた言葉が、弛緩しきった脳内に響き渡る。たった数秒で状況を理解してしまった亮は全てを諦め、ただ為すがままに金髪の男に従っていた。



          ※



「リョウ・ウメムラ、二十二歳。極東帝國シズオカの生まれ、現在の勤務地は帝国軍直営の兵装工場、か」



 後ろ手に縛り直された亮は、椅子に座り項垂れたまま含みのある声色を聞いていた。全てを拒絶したがって、全力で抵抗していた数分前とは打って変わって今は何をする気にもなれずにいる。何も考えず、ただぼんやりとしたまま虚ろな目で前を見た。


 その声の発信元である栗毛の優男は、威圧感のある執務机に片肘をつきにこやかに笑っている。机上に乗ったままの手元には亮が所持していた国民証明書と社員証があり、それに時折目を落としながら語りかけていた。



「勤続年数は四年……極東の制度からすると、ハイスクール卒業からか……。君、専攻は?」



 現在の担当業務も教えて貰えると嬉しいな。柔らかく目を細めたまま、男は言う。兵装工場勤務というのに興味があるようだが、欲しいのは情報だろうか、技術者だろうか。まあどちらにせよ、高卒の若手技師に大した権限はなく、更に優秀ではないので技術的な損害もさほどない。死んでしまった同僚のほうが遥かに有望だったのに。きっとこいつらは殺す相手を間違えてしまったのだろう。『馬鹿だなあ』と思いながら、亮はじっと黙っていた。発声するのも億劫だ。



「……」



 後ろ手に縛られたまま椅子の背凭れに上体を預け、足を投げ出して座る姿勢は崩さず、亮は黙秘を続けていた。別に答えても答えなくても、俺の人生がここで終わったのに変わりはない。そう思うと答える必要性を全く感じない。別にもうこの先どうなっても構わないというのが亮の本音だったが、その気持ちの中に不思議と絶望はなかった。


 昔からそうだ。困難しかない岐路に立ち、大きな決断を迫られたときの自分は、妙に腹が据わったような感覚だった。十二年前に極東が分割統治され、『ミゲル・リリオ』という名前を宛てがわれてカメリア人として生きることを強いられたときも、取り立てて騒ぎ立てた記憶が無い。まあ、ただ単に流されて生きてきたというだけのことかもしれないけれど。



「……」



 相変わらず、沈黙は続く。栗毛の優男はなにも言わず、また亮も喋る気がないので状況は一切変わらない。先程から後方で忙しく動き回っている男に小突かれたが、だからといってなんということはない。「早く答えろ」と気を利かせて促しているのだろうそれも無視して、亮は気怠げに正面を見る。


 長い前髪のせいで視界は悪かったが、その隙間から見える男の表情をみて、亮は僅かに眉をひそめた。意味がわからない。どうしてそんなに微笑まし気な顔をしているんだ――。



「君は軍直営の兵装工場に勤務していたようだけど、得意なのは造るだけかな? 扱うのは不得意か?」



 突然の問いかけに驚いて、亮は思わず目を見開いた。何故そんなことを聞くんだと思ったのは一瞬で、なんとなくの事情を把握してしまった亮は少し混乱していた。理解したからといって納得できるわけではない。考えていた結末とは大きく異なりそうな進路を受け入れるか否か。亮は目を白黒させて、静かにテンパっていた。


 あの栗毛の言うとおり、得意なのは造るだけだった。扱ったことは一度もない。そもそも戦艦や航空機に載せる大型の兵装を、いったいいつ扱うというのだ。開発に携わらない製造技師には完成品に触れる機会などなく、ただ納入されていくのを見送るだけだ。ただひとりの、国家至高の製造技師を除いては。



「……兵装を扱ったことは一度もない。拳銃だけなら何度か」


「拳銃はあるのか。そうか……そうか……よし、君は明日から424部隊に加わって貰おう。予測していたとはいえ、急に始まった戦争だから人手が足りなくてね」



 にこやかな表情を崩さない彼の口から出た言葉は、予測できていたとはいえなかなかに信じがたいものだった。いや、この先どうなっても構わないという気持ちに嘘はないが、ただ嬲り殺されるものだと思っていただけに気持ちの整理がつかないでいる。


 やるしかない。それしか選択肢はないし、一切の拒否権はないと解っていながら、受け入れを躊躇っている自分がいる。諦めも物分かりも良いほうだと思っていたけれど、長年敵だと言われてきた国の所有物になることには大いに抵抗があった。


 敗戦後にも所有物になったにはなったが、あのときとは状況がまるで違う。――この男は、俺にカメリア兵として極東と戦えと言っているのか。『ミゲル・リリオ』としてではなく、『梅村亮』として、故郷を、家族を、この手で殺せというのか!


 首を縦にも横にも振れない亮は椅子の上に蹲り、目をきつく閉じて歯噛みした。感じているのは無念と罪の意識。これから強いられる背徳行為のことを考えると、胸が締めあげられて苦しかった。自分にもまだ、こんな感情が残っていたのか。どんなに厳しい軍事教育を施されようが一切戦う気になれなかったから、自分に愛国心というものはないのだと思っていたのに。


 亮の内部で拒絶と受諾が拮抗している間にも、構わず事は進んでいく。背後から首元に手が回され、ひやりとした異様な冷たさを感じてゾクリと体を震わせた。ぱちんと金具が留まる音に今度こそ全てを諦め、小さく細く、息を吐き出した。



「おめでとう、リョウ。今日から君はカメリア軍人だ」



          ※



 本当に不運な男だ。つい先程受け取った新人兵士、梅村亮の後姿を見下ろしたレゼア・ウェーバーはそう思った。項垂れているせいで露わになった色白のうなじには、ステンレス製の首輪が嵌められている。本来ならばカメリア兵士となった証は認識票くらいなのだけれど、彼の場合は少し違う。支配の証を二つも首につけなければならない彼の身の上を案じて、小さく息を吐いた。


 レゼアは記憶を遡る。辿り着いたのは、極東近辺の海域で輸送船を襲撃した三日前。極東から澄華国に向けて船が出るとの情報を得て、それを沈めるための作戦を決行した日の事だった。


 それは《新規兵器開発計画》の拠点拡大・分散を阻止するための作戦であり、目的は「持ちだされた技術および技師の殲滅」。あの厄介な【高天原】の製造と改良を途絶えさせるためには必要なことで、ひとり残らず殺したのちに、船ごと沈めてしまう積りだった。



最後に残ったウメムラを、あいつが――セシル・クレイモアが見つけるまでは。



『レゼア……見ろ。カサブランカだ』



 銃撃の手を止めていたセシルに促されるままに見たのは、赤一色の地獄絵図の中に膝を折る黒髪の若い青年だった。爆死したらしい同僚の首を抱えて項垂れた彼からは絶望が滲み出ている……はずだったのに、それは一切なかった。寧ろ凛としていて、真っ直ぐに見据えた眼光は強い。


 妙に端正な顔立ちと透き通るような白さ。それに覚悟を決めたような堂々とした様が相まって、惹きつけられる不思議な雰囲気を醸し出していた。確かにカサブランカを髣髴とさせる男だ。レゼアはその程度に留まっていたのだけれど、セシルは違ったようだ。目を離せないくらいに惹かれているらしく、そのバイオレットの瞳は恍惚としていた……。


『彼は殺さず取っておこう』。思い出したその声が耳元でするような感覚になったレゼアは、回顧を中断して亮を見下ろした。指揮官自らが予定を捻じ曲げて略奪した極東製のカサブランカは、晴れて手近な424部隊へ。容姿と雰囲気のみならず、問題なく英語での会話が成立することも、彼がセシルに大いに気に入られる要因となってしまったようだ。


 思いの外高めのスペックに同期の上司は大変ご機嫌だったけれど、肝心の戦闘経験が彼にはない。一般職のお気に入りをウチの隊に加えてどうするつもりだ。そう愚痴ったところであの男の考えていることが分かるはずもなく、レゼアは小さく息を吐いて、口を開いた。



「ウメムラ」



 自分を呼ぶ声に反応して、亮は素早く顔を上げた。全てを諦めたとはいえさすがに堪えているのか、怯えたように体がびくりと震えてしまう。無様だなあ、と思っても気分を持ち直せない自分が情けない。


 項垂れていたときに頭に添えていた手を宙に浮かせたまま振り返り、金髪碧眼の青年を正面に見た。背後にぬっと立っていた彼は、ここへ来て初めて会った人間だ。あの栗毛の優男の元へ引き摺っていった張本人で、ついさっき新しい上司になった彼は、ウェーバー隊長というのだそうだ。



「……」


「……」



 まだ少し混乱が残る亮は思うように声が出せず、レゼアもレゼアで二の句を継がないので、双方向き合ったまま押し黙るという異様な雰囲気だった。警戒して伺うように見た碧い目は、無感動で、無機質じみていて、虚無で、何を考えているのかが全く分からない。だが不思議なことに、恐怖心は湧いて来なかった。



「……不運な奴だ。略奪された挙句、最前戦に配置されるとはな……」


「……!」



 独り言でも言うかのように呟かれた言葉が自分に向けられた憐れみと気付いた亮は、じっとレゼアを凝視した。彼が何を言っているのか、亮には分からなかった。


――略奪? なんのことだ。俺はただ、運良くあの惨事を切り抜けただけなんだろう? 意味がわからず混乱して、途切れ途切れに問う。するとレゼアの眉間の皺は一層深くなり、憐れみの色まで一気に増した。


 略奪なんてあるはずがない。それが亮の思うところだった。まあ少しは使いみちもあるかもしれないが、下っ端の製造技師になにができるわけでもないし大した特技もない。男の自分が慰み者になれるとも思えない――思いたくもない――し、戦隊に配置されたにも関わらず戦闘経験もない。だからこそのあの目なのだろうか。経験もないくせに戦線に立たされる俺の、絶望的な未来を憐れんでいるのか彼は……。



「運良くひとりだけ助かるわけないだろう。仮に生存者がいたとしても、見つけ次第殺す。そういう任務だった」



 大陸にあの技術を上陸させるわけにはいかなかった。そう続けて、煙草に火をつけながら歩き、亮の背後から正面へと回りこむ。しゃがんで目線を合わせた後にひとつ大きく息を吐いて、驚き顔を崩せずにいる亮に切り出した。



「お前は偶然助かったんじゃない。意図的に掻っ攫われて籠絡された。ここの指揮官の、セシル・クレイモアの謀略によって」



 分隊長風情が明かしていい情報かは分からなかったが、そんなこと知るか。今はもう俺の部下なのだから、好きなように教育する。そう決め込んだレゼアは一抹の躊躇を打ち捨てて事実を吐く。本当は謀略なんかではなくて、気まぐれな私情だったのだろう。だがそれだけは、告げずに伏せておこうと思った。人生を棒に振るような出来事が、ある男の私欲によるものだなんて知った彼はどう思うだろう。



《可憐で凛々しいカサブランカ。彼は殺さず取っておこう》。



耳の奥で再生された、セシルの甘ったるい音声が気味悪い。それを刮ぎ落すように耳元を擦ったレゼアは、戸惑って揺れている亮の鳶色の目を見て続ける。



「あいつのお気に入りだろうが俺は容赦しねえ。戦闘は実戦で覚えろ。本気で人手が足りねえんだ。特にここは、毎日のようにごっそり人が死んでる激戦区だからな。明日はここを……カメリア領地と極東領地の境界線を攻め込む。覚悟しておけ」



 目を白黒させて状況を飲み込めずにいる亮に地図を突きだして、一方的に明日の予定を押し付ける。追及の余地を与えないようにと矢継ぎ早に紡いだ言葉に、「配慮」を考えるだけの余裕はない。


 まるで脅しだと思ったが、気を遣ってやろうと言う気は全くなくて、ただこの瞬間が何事も無く通りすぎてくれることを願う。早く終われと急いて、首の銀色を指先で突いたところで――辛うじて気丈さを残していた《カサブランカ》の目が一気に陰るのを見た。


 首輪に刻まれた諸悪の根源を、かちん、と爪で弾く音にびくりと体を跳ねさせる彼の様子はあまりに痛々しい。しかし、だからといって今後の身の上を伝えないわけにもいかないのだ。小さく息を吐いたレゼアは、もういちど首輪を爪で弾いて覚悟を決めた。



「424部隊は、外国人を寄せ集めた最前戦専門歩兵部隊。生存確率が最も低い……所謂《奴隷部隊》だ」


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