遥か遠く、そばで

遠海青

第一章 逃げろ、ユメ

夏の、午後七時。妙に空が青かった。

遥か彼方へ、深まる青のグラデーション。いつもの駅を出て振り返った私の髪を、ぬるい風が通り抜けた。

この時間の空気は好きだ。沈んだ太陽が残した柔らかな光に、よそよそしい白い建物も、窮屈な植木もようやく呼吸を始めるようだ。私は数秒それらを眺めていて、くるりと向き直って歩き始めた。

チーズみたいになめらかなタイルの車道に平行して始まる、レンガや芝でリズミカルにでこぼこする歩道が、無数に枝分かれし合流して、住宅地を網の目のように走る。街の中心部から少し離れて、緩やかな坂を登ると家だ。一人暮らしを始めて長いが、何も困ることはなく、何も変化のない家だった。

認証システムを通過して、真っ白いドアが音もなく開く。ああ、焼却されるゴミも似たような景色を見ているんだろう。私のささやかな感傷も灰になってはい、さようなら……

部屋に入った瞬間、私の穏やかな憂鬱はいくらか吹き飛ばされた。ひんやりとした模造木のフローリングの上、白い鱗に包まれたヘビが優雅に鎮座して、私を待ち構えていたのだ。

私は健気に状況を把握しようとした。この侵入者はシステムに排除されなかった。原因は不明だ。するとさらに驚くべきことが起きた。ヘビは息を吐くようにシューッと音をたて、囁いた。

「匿ってくれ」

確かにそう聞こえた。ヘビはゆらりと半身を起こし、じりじりと私に近づいた。後退りする私の目の前に来ると鱗がぞわりとうごめき、輪郭は溶けるように人間の形になった。凍りつく私をいきなり抱きしめた冷たい腕に、うっすらと鱗が浮かんでいた。

「助けて、お願いだ」

さっきよりもずっとはっきりした声が聞こえた。夢ではないかと思ったが、肌の冷たさの感覚は夢にしては生々しかった。私は完全に面食らってしびれた頭で、体温が低すぎて認識されなかったのかな、などと考えていた。

私はふとその侵入者が少年、らしきものであるにせよ、であることに思い至って、妙に我に返った。

「とりあえず、服……」


彼、と私は呼ぶことにした、は私の父の服でテーブルについた。もっとも、その服は突然の両親の宿泊に備えて置かれたきり、今まで一度も袖を通されたことはなかったのだが。

「君、どうやって入ってきたの?」

「そこの天窓が開いてた」

彼は中庭に近い方の採光部を指差した。今朝は一週間ぶりに天気が良くて、小さな窓は開けたまま出かけたのだった。それでもシステムに管理されたこの家は安全なはずだった。

「警報とか、鳴らなかった?」

「え、何もなかったけど。……まあ、ここは治安も環境もいいから、仕方ないよね」

「なに、その言い方」

「ごめん、でも本当でしょ?みんな平和ボケしちゃってさ」

彼はあーあ、と肩をすくめてみせた。

「君、本当、何なの?」

「僕は実験生物だよ。実験所から逃げてきた」

眉をひそめる私に、彼はあっけらかんと答えた。

私は彼をまじまじと見た。伸び放題の真っ白な髪。目元は窪み、肌は血の気がなく暗い色をしていた。それだけでも異様な姿だったが、肌に浮き出る凹凸がやはり鱗の名残のようだった。

「は、冗談でしょ……」

私はそう言ったものの、妙に納得していた。

「冗談だと思う?」

彼は私の目をちらりと見た。

「うー、ううん。……私に何かする?殺すの?」

私は今さら脅威に思い当たって訊ねた。

「やろうと思えばできるけど、それなりの理性はあるよ。君に害を与えるメリットはないし」

「じゃあ、最初のあれは何」

彼は虚を撞かれた顔をした。

「……あれを害と言われるのは、何だろう……悲しいね。ああいうのを人間の好意的な振る舞いだと理解していたけど、違ったのかな」

あまりにも不気味な喋り方で、私はなぜか笑ってしまった。

「……さすが、実験生物って感じ」

彼はそれを聞いて自嘲的に笑った。

「でしょ。君も、特権階級らしい話し方をするよね。最初の驚いた顔はよかったのに」

「……そういう嫌味を言うように育ったってことは、よくわかったよ」

「可哀想でしょ?」

「さあね。まあでも、ナポリタン。作ってあげるよ」

私はテーブルのそばのキッチンへ向かった。玉ねぎを切り、パプリカを切りながら話した。

「やった。お腹が空いてたんだ。で、ナポリタンって何?」

「食べ物」

私のそっけない返しを、彼は笑って流した。

「もうちょっと教えてよ」

「……私の好きな、食べ物」

「あら」

「何」

「ちょっと今の……よかった」

「は?」

「胸のこのへんがきゅっとしびれた」

「……初恋じゃん?」

「愛には飢えてるんだよねえ」

「そんなもの、ここにはないです」

「あーあ、ここにないなら地球は終わってるね」

「終わってるよ」


「……ナポリタン、できたよ」

「やったね」

わたしたちはナポリタンをすすった。

「おいし!」

「どーも」

「それでさあ、その……匿ってくれる?」

「まあ、いいよ」

「あっさりだね。自分も危ないとか思わないの」

「うーん……危なくなったら、それはそれで、もういいよ」

「君のそういうところ、不思議だなあ」

彼は顎をぽりぽりとかいて、再びナポリタンを頬張った。

「それよりさ、食べ終わったら散歩に行こうよ。行きたいところがあるんだけど」

私たちが家を出ると、青は東の夕闇に深まり、淡い灰色が街灯の眩しさに抗われながら辺りに下りていた。歩きながら彼が私の顔を覗き込んだ。

「僕を隠しとかなくてよかったの?」

「うちの警報システムが反応しないなら、どこへ行ったって大丈夫だよ」

私の家は美しいこの街の中でも最高の区画にあり、どこよりも優れたシステムが備えられているはずだった。

私たちは坂をずっと登って、高台へと向かった。見晴らしの良い高台の公園を、少し古びた黄色い柵が囲んでいた。

「工事中だってよ?」

「……工事してるところなんて、見たことないから」

私は立ち入り禁止の看板をひょいと越え、開けた方の柵にもたれた。彼は遠慮がちについてきた。

「見て、空」

「きれい、だね?」

「違うよ。あっち」

風が吹いた。私は、西のほう、空の青がガラスのように薄くなって、何かの線、私の説では鉄骨、が見える辺りを指した。

「空が、透けてる……」

「この青が、嘘だって証拠。私、ずっと好きだったのになあ」

この街はドーム状の天井に覆われた箱庭なのだと私は語った。自分でもなぜ会ったばかりの少年にこんな話をしているのかわからなかったが、彼は何も言わずじっと耳を傾けていた。

「雨が降るたび薄くなるんだ。雷が鳴るときはもっと。誰も信じてくれないけど」

彼は黙ってこっちを見た。見られているのに気づいて目を合わせたら、逸らされた。

「それに、最近天気予報が外れるの」

彼は横顔を向け、空を眺めていた。私は自分でも抑制のきかない言葉がせり上がってきて、そのまま吐き出して言った。

「誰も、信じたくないのかも。私の学校の友達さあ、最近ちょっとおかしくなっちゃった。……学校も見せてあげる。行こう」

駅まで誰にも会わなかった。電車に乗って、降りて、ホームを駆け抜け、学校へ向かう。そこでは私たちに振り向く人もいたかもしれない。でも私は気にしていなかった。

校舎のセキュリティは私を通し、同行者もあっさり通した。システムに平和ボケなんてものがあるのかはわからないが、彼の言ったこともうなずける気がした。

「あれ、誰かいる」

暗い廊下に一つ、明かりのついた教室があった。ドアの隙間から、緑の床に白っぽい光が伸びていた。

教室を覗くと、中の少女が気づいた。

「あっ、ユメちゃん……?久しぶり、だね」

少女の白いワンピースが、私の記憶を揺さぶった。既製品を着ればいいのに、わざわざ不器用なくせに、作っていた、縫い目の汚いワンピースだ。あれは、いつだっただろう。

「……しのぶ」

しのぶ。忘れたことはなかったのに、口から出てくるまでには時間がかかってしまった。

「その名前は嫌いなの。ジーニーって呼んでって言ったじゃない」

彼女は口をとがらせた。

「……ごめん、ジーニー」

ジーニー。そうだ、ジーニーだ。右耳に赤、左耳に紫、違うイヤホンをつけて、耳にあてがわれなかった方の先っぽが所在なげに揺れていた。

「うん、いいよ。ねえ聞いて、わたしね、最近すごく聞こえるんだ」

「何が?」

「世界の声だよ。誰かの叫びも、未来の呼ぶ声も、みんな聞こえる……音楽ももう、守ってくれなくなった」

私は目を合わせるのが怖くて下を向いた。床にはカラフルなお菓子やCDがところ狭しと散乱していた。

「……今も、聞こえてるの?」

「うん。わたしを呼んでる……」

私は彼女になんと言っていいかわからなかった。彼女を傷つけたくないと思っていいのかどうかもわからなかった。

「ユメちゃん」

彼女は歌うように呼んだ。窓にふわふわり、駆け寄ってこちらを振り返る。床は彼女の私物で足の踏み場もないのに、彼女の足取りは軽やかだ。

吹き込む風にふわふわり、カーテンが、ワンピースが、整えられていない髪が揺れる。しのぶは昔くせ毛を気にしていた。かわいいのに、とかなんとか言った気もする。

「待って、しのぶ」

私はしのぶが窓からいなくなってしまうような気がして、思わず声を出していた。彼女は振り返ってにっこり笑った。

「わたしはジーニーだよ。大丈夫、ユメちゃんの未来はまだ続くから。わたしも、まだ……今夜ここへ来てくれて、ありがとう。たぶん、もう会わないよ。そう言ってるもん」

「そんな予言、しないでよ。……またね」

「また、ね」

私はいたたまれなかった。再び見る廊下の暗さは増していた。ずっと黙っていた彼が口を開いた。

「さっき言ってた友達って、あの子?」

「……そう。昔から成績は優秀なのに、ちょっとぼーっとしてる感じの子だったんだけど」

「仲は良かったんだね」

「ゼミを……勉強会みたいなのを一緒にやってた。しのぶは将来を嘱望されてたけど、研究してるうちに心を病んであんな風になっちゃった。純粋すぎたんだよ、多分」

「心を病んで、か」

彼は一言一言を未知のもののように反芻した。

「あんまり考えない方がいいよ。本人はあの方が……幸せかもしれないでしょ」

苦しい言い訳か、本当のことか、私にもどちらともつかなかった。

「……そろそろ帰る?」

「……うん」


寝室では、ベッドに私、床に彼が座った。

「君、どうやって寝るの?」

「あ、僕は違う部屋にいようか?どこでも寝れるし、何日か寝なくても平気だし」

私は人間ではないらしい彼への生態学的な興味から尋ねたのだが、彼は違う意味でとったようだった。

「ああ、それは、いいね……。そういえばさ、名前とかあるの」

「サクナ」

「変な名前」

「第3実験場9班7番だから、サ、ク、ナ」

「うわあ……すご」

なんとも脳みその回っていない返事に、彼は目を細めて笑った。

「眠そうだね」

「……眠い」

「おやすみ」

「おやすみ」

部屋を出ていく背中を見つめるのは、なんだかこそばゆい気持ちだった。

翌朝は、雨が降っていた。

「雨だ……」

「おはよう」

彼はいつから目が覚めていたのか、しゃきっとした挨拶をした。私はまだぼんやりしていた。

「……おはよう。朝ごはん作ろ」

卵を割って、フライパンでクロックマダムを作る。りんごもむいて、食卓に並べた。

「いいにおいがする……おいし!」

「どーも」

「今日はどこに行くの?」

彼はもぐもぐしながら尋ねた。

「うーん……。あ」

壁に埋め込まれた端末の画面が光っていた。

「今日はどこも行けないね……外出禁止令だって」

「え、僕のせいかな」

「どうだろ。最近多いから……いつ、その、脱走したの?」

「……1週間くらい前、かな?あんまり日付の感覚がないけど」

「じゃあ違うよ。もっと前からときどき出てる」

「雨と関係あるの?ほら、昨日言ってたでしょ」

「そこはよくわからない。晴れてても出る時は出る」

「何もわからないんだね」

「そうだね……」

「……ねえ、やっぱり僕のせいだった」

話しながら画面をいじっていたサクナが振り向いた。

「え、どうする?」

答えは決まっているような気もした。

「素直に僕を差し出したら君はどうなるの?」

「……たぶん、ろくな目にあわない」

サクナは表情を変えずに、ふーん、と一瞬考えた。

「じゃあ、どうする?僕が君とは関係なく捕まるのが一番いいだろうけどね」

「それじゃ意味ないんでしょ」

「まあね。それと、昨日の君の話だけど……」

「知ってるの?」

「全部じゃない。でも……ここのシステムは確かに揺らいでいる。君の言う『空』も、含めて」

私はため息をついた。

「……あんまり当たっててほしくなかったな、その予想」

サクナは目を伏せて、りんごを一口かじった。なんかりんごが似合うなあ、と私は的外れなことを思った。

「どうしようもないよ」

「それは、わかってるけど、さ」

「ここはもう一年と持たないかもしれない」

サクナの言い方はさっきより少し激しかった。自分でもそれがわかったのか、サクナは口をつぐんだ。

「私……私、」

「……僕は、逃げた方がいいと思うけど……」

目が合った。私は黙ってうなずいた。

「決まりだ、逃げよう」

最後の朝食を終えて、私たちは走った。

人気のない街を、雨が鈍色に滲ませる。着地して弾けた水がいちめんでまぶしく光っていた。

「ダイヤモンド……って、ぶちまけたらこんな感じかな。周りはくすんじゃって」

びしょ濡れになりながら走るのが私はなんだかおかしくて、高揚した気分だった。

「んー、なんか言ったー」

「別に!」

雨は激しくなっていた。叩きつける音の洪水が私たちの足音も、上がった呼吸も包みこんでいた。どこかで雷が鳴った。

「すごいね、この雨」

声がかき消されないように、サクナは叫ばなければいけなかった。

「今さらだけど、どこに向かってんの?」

「21番ゲート……この街を出る!……う、わ、見て、何あれ!」

前を走っていたサクナが振り返って、ぎょっとした顔になった。振り向くと、遠くの方で奇怪な鉄塔が黒々とそびえ立っていた。それは継ぎ接ぎして作ったようにあちこち折れ曲がっていて、時折先端が不気味に光った。

「知らない!けど、昨日の高台の方だ……」

「じゃあ、あれが工事ってこと?」

「昨日はなかったのに」

「何をしているんだい、お坊ちゃん、お嬢さん」

不意に声をかけられて、私たちはびくりとした。

「こんな日は、おうちでおとなしくしていなさい。青春の思い出づくりもいいけどねえ……そろそろお帰りよ」

語りかける口調は優しく、一見どこにでもいそうな男だったが、今外にいる者が普通である訳がなかった。

「おや、君は……どこの坊やかな?」

男が目を細める。サクナが囁いた。

「この人……。やばかったらそこの空き地の奥、フェンスが破れてるとこから逃げて、合図するから」

「おやおや君たち、家に帰らないのかい?ご両親が心配するだろう」

男はあからさまに様子がおかしくなってきた。

「そうだ、いいものをあげよう。これで冒険は終わりにしなさい」

男はぎこちなく笑みを浮かべ、ついにふところに手を伸ばした。

「逃げろ!」

私たちはまた走った。空き地の濡れた草が滑る。フェンスの裂け目はかなり狭かった。舗装されていない地面は雨にぬかるみ、くぐろうと下げた顔に泥が跳ねる。私が先に抜けたその瞬間、サクナはすごい力で金網を引っ張って歪ませ、裂け目を閉じてしまった。

「サクナ!」

「いいから行って!」

サクナは追ってくる男に向き直った。男は立ち止まり、サクナの言葉を聞いているようだった。何を言っているのかはわからなかったが、サクナはヘビに変わり、わずかな隙間を抜けてきた。

「……さ、行こう!一度出てしまえば大丈夫だよ、多分ね」

「は、君が特殊生物でよかったよ」

「……ねえ、さっきさ、もしかして、一瞬心配した?僕が来ないんじゃないかって思った?ねえ」

「うるさいな」

「やったね」

「喜ぶな」

フェンスの向こうには広場が続き、無機質な白い建物がそびえていた。ひどく寒々しいがらんどうのロビーから重たい回転扉を三つ通過すると、そこは外だった。通るのは拍子抜けするほど簡単だったが、扉を抜けるたび背後でロックのかかる音がした。


私たちは暗い路地に立っていた。両脇には看板が裏返しになった店や、配線が剥き出しになった家屋が、沈んだコンクリート色と毒々しいピンク、赤、青の景色を作っていた。風にあおられたまばらな雨粒がトタン屋根を叩いて、酔っ払ったようなリズムを響かせていた。

「……ここ、雨が弱くない?」

歩きながら、私は言った。

「中と外は天気が違うみたいなんだよね」

「そうなんだ……まあ、そうだよね」

「いつから気づいてたの?」

「二年前……空が作り物だって考えはじめてからそうじゃないかと思ってた。ゼミではそういう調査をしてる子たちもいたし」

「……ジーニーとか?」

「そう……でもどんどん辞めてった。危ないって気づいたんだろうね」

「危ない、ねえ」

「君みたいなのを造っちゃう方が危ない気がするけどね」

「間違いないよね」

サクナは自分で言って笑った。

「ねえ、外のことどれくらい知ってるの?」

「それなんだけどさ、全然知らないの。実験場から逃げ出して、走って走って、フェンス通って、気がついたら君の家。運命だね」

「気持ち悪」

「ひどいなあ」

「……教えてあげよっか、ここのこと」

ボロ小屋の屋根に、少女が立っていた。長い黒髪と鮮やかな青いマフラーが風になびく。奇妙な出で立ちだった。化学繊維布を何色も継いだぶかぶかの上着、タグやスタッズまみれのズボン。腰のあたりでひらひらしているのは破れたプリーツスカートだろうか。帽子で顔は見えないが、若い声だった。

「……誰?」

「さァね。みんなにはロニィって呼ばれてる。教えてあげるから、こっち来なよ。……って言うか、ここあたしの縄張りなんだよね。来てくれる?」

ロニィと名乗った少女は屋根からひらりと飛び降り、その辺に転がされた鉄骨に腰掛けて話しはじめた。白い石を使って、アスファルトの残骸の地面に絵を描いている。

「……それでここはさァ、特区と特区の間の空白地帯なわけ。あんたみたいな特区育ちのおジョーさんは知らないかもしれないけど。ここはけっこう人が多いし、ましな方。もっとひどい所もある」

「食べ物とか水はどうしてるの?」

「おジョーさんらしい質問ってやつ……。まァ、分け合ってぼちぼちだよ。特区からもらったり友達からもらったりその辺から頂戴したり、その日暮らし」

「ふーん、なるほど」

「他人事?そんなんじゃ生きていけないから。ま、あたしは優しいからさァ、安全な寝床くらいは貸してあげてもいいけどさァ?」

ロニィはにっと笑った。つられて私も笑った。

「ありがとう」

「ん。一晩70円でいいよ。リョーシン的っしょ?」

「あの……非常に言いにくいのですが……お金、置いてきちゃって、ないんだけど……」

ニコニコしていたロニィは露骨に気落ちして嫌な顔になり、深々とため息をついた。

「ハァ……これだからおジョーさんは……あんた、騙されやすそうだから気をつけたほうがいいよ」

「ロニィー、いるー?」

「おー。いるぞー」

外から違う少女の声がして、ロニィが迎え入れた。今度は黒ずくめだった。高級そうな黒いコートを着て、顔の上半分は長い前髪、下半分は黒い布が覆っている。髪だけが派手な薄紫色だった。

「あれ、誰その子ら?」

「あー……一文無しの世間知らずってとこだなぁ」

「へぇ。じゃあ何で入れたの?男連れでしょ」

前髪の隙間から、咎めるような赤い目がちらちらと覗いた。ロニィがすぐさま弁解した。

「いや、こいつら、中から出てきたんだよ。緑園特区の」

黒ずくめの少女は一瞬驚いたようだったが、すぐに平静を取り戻した。

「へぇ……。で?」

「雨だし、向こうの奴なら普通は傘とかあるだろ、でもこいつらは素で歩いてたし、困ってるみたいだったからさ……」

「はぁ。どうせ金持ちだと思ったらあてが外れたって辺りでしょ。向こうの捨て駒とか、放り出された罪人だったらどうするつもりだったの?」

「あー、ごめん、ごめんって。……用事は何だった?」

少女は舌打ちして、ロニィの耳元で何事かささやいた。

「じゃあね。……あんた、くれぐれも変なことするんじゃないよ」

サクナをひと睨みして、彼女は去っていった。ロニィは苦笑いした。

「悪く思うなよ。うちでは、中から出てくる奴と男はだいたい敵なんだ」

サクナは納得したような、していないような顔でうなずいた。

「……いや、いいよ。うちって?」

「うーん、あいつに怒られちゃうから、まだこっちのことは話さないでおくよ。あんたたちの話を聞かせてもらいたい」

私たちはここまでのことを洗いざらい話した。薄まる空、サクナ……。ロニィはサクナの話になるとたびたび口を挟んだが、実際にやってみせると信じてくれたようだった。

「はーん。大体分かったけど、あんたたちこれからどうすんの?」

「まあ、行くあては……ないね」

わたしが答えると、ロニィは吹き出した。

「行くあてもないのに快適な生活を投げ出すなんて、おジョーさん、どうかしてまっせ」

「あのままあそこにいるよりはましでしょ」

「あは、真面目に返すなって……。まあしばらくは、ここにいてもいいよ」

「しばらく?」

「先のことは、わかんないもんなの」

「……だね」

ボロ小屋の隙間から射し込む光が、ロニィの顔を半分照らした。雨が上がったのだろう。ロニィはマフラーを顔に寄せて、小さなくしゃみをした。耳のピアスがふるえて、ちかっと光った。

「お昼、調達しに行くか」ロニィが言った。

「いいね」

「手伝えよ、ヘビ男も」

「はいはーい」

わたしたちは雨上がりの街へ繰り出した。

空は青かった。本物の、深い青だ。

「何ぼーっとしてんの、おジョー」

「……別に」

「あんまり空ばっか見て、ケガすんなよ」

「しないって、多分」

わたしとロニィはロニィが「倉庫」と呼ぶ建物の裏にいた。サクナはさっき、排気孔の隙間から中へ入っていった。

「行くぞ」

「うん」

鍵が外れる小さな音がして、扉が内側から細く開く。サクナだ。

「倉庫」の中は埃っぽくて、薄明かりにいくつものコンテナが並んでいる。ロニィは音もなくコンテナに近づくと、中身を物色する。ロニィの服には無数の隠しポケットがあって、それはみるみるうちに膨らんでいった。

わたしも負けじとコンテナを漁る。あまり重い物は持つなと言われていたから、乾いたパン数個だけにした。

ロニィが目配せする。わたしたちは静かに出ていく。サクナが内側で鍵を閉めて、這い出してきた。

足音を立てないように、走る。雨に洗われた街の、それでも大してきれいでない空気が肺を充たす。吸って、吐く。吸って、吐く。

おもむろにロニィが笑いだした。最初は低く声を洩らしていたが、走りながら次第に開けっぴろげになって、最後にはげらげら笑っていた。

「楽勝だったなァ、完全犯罪だ。サクナ君、お手柄だよ」

「やっぱり盗んでるじゃん。倉庫とか言って、他人の倉庫なんでしょ」

「えぇ?いーのいーの、あれはもうさ、取りに来る奴がいないから」

「じゃあ、罪じゃないのか」

「さあね……罪だってことにしといたら、なんか償いになる気がするけど」

「弔いじゃないの?」

「うっわ!おジョー、キツすぎでしょー」

ロニィの声が響く。街には人がいない。鳥や虫の一匹すら、いない。

「じゃあなんで鍵、閉めたの?」サクナは不思議そうだった。

「礼儀ってやつよ」ロニィは真面目くさった顔で言って、にやりとした。

「ま、おかしいよな、確かに」

「おかしいよ。でもそういうの、嫌いじゃない」

「……何でだろ、僕も」

わたしたちは小屋に戻ると、乾いたパンに魚の缶詰をはさんで、夢中で食べた。

「こうしてると、ユメの家で食べたナポリタンとか、夢だったみたいだ」

「贅沢言うなよ。そういうのちゃんと考えて出てきたんじゃないの?」

「……わたしは、こっちの方がおいしい」

ぼそりとこぼしたら、サクナがにやにやしてわたしを見た。

「もしかして」

「何よ」

「別に?」

見ていたロニィが眉を寄せた。

「……おい、いちゃつくなよ?」

「は、いちゃついてないし」

「…………あっそ」

「ここにはさ、ロニィとあの子以外の人はいないの?」

「いや、いるよ。このへんはあたしたちの縄張りだけど、街の中心部まで行けば大勢いる。……行くのは、おすすめしないよ。あんたみたいな奴は、特にね」

「ふーん、そっか」

ロニィが何気なく奥の部屋に目をやった。ロニィの体にさっと緊張が走る。まずサクナが、一瞬遅れてわたしが危険を察した。

銃声が響き、ロニィが弾をかわして前に出た。サクナとわたしは飛び退いて床に倒れ込んだ。弾は空を裂いて、コンクリートの壁にめり込んで止まった。

「サクナ、おジョーは任せた!」

奥から男が出てくる。一人目、赤ジャンパー。二人目、長髪。三人目、猫背。全員が何かしら武器を手にしていた。

「はっ、なめんなよ」

無駄のない動きだった。ロニィは縦横に走りながらパンを切ったナイフを後ろ手でつかみ、体を起こす勢いで向かってきた赤ジャンパーの男を投げる。サクナがそれを押さえつけた。私は男の武器を手からむしりとった。あとから思うと恐ろしいのだが、そのときは不思議と怖くなかった。

ロニィは伸びてくる手を払いのけ、背後の長髪には鋭く蹴りを入れる。一瞬のうちに飛びすさり、脳天にナイフの柄で一撃、二人目が崩れ落ちた。

慌てた猫背の男が撃った。一発目はマフラーの端を掠めたが、二発目は無駄になった。ロニィは着実に間合いを詰め、相手が蹴り上げた足をとって叩きつけた。頭をしこたま打ったその男は泡を吹きながら甲高い声で何かわめいていた。

そのとき、小屋の外から少女の声がした。

「ロニィ、必要か?」

「あー……ごめん、頼むよ」

水色の髪の小柄な少女が、とことこと入ってきた。動作はかわいらしいが、異様な迫力を放っている。顔半分と細い手足は包帯でくるまれ、少年のような半ズボンとベストにきちんとネクタイを締めて、なぜか中華風の羽織とアクセサリーを身に付けていた。

彼女は薄いライム色の目で男たちを冷たく一瞥すると、ため息をついた。

「ああもう……来るだろうとは伝えたはずだけど。イラは間に合わなかったのかい?」

「いや、聞いたよ。だから出掛けてたんだけど、部屋で待ち構えてやがった」

「まったく、暇な連中だね」

少女は繰り返しため息をつきながら、慣れた手つきで男たちを縛り上げた。一人を無造作に揺り起こす。

「おい」

男がうめく。

「シカだ。抵抗するな」

少女がシカという名を出すと、男はぴたりともがくのをやめた。

「無駄な小競り合いはしない、そういう話だったはずだ。事を構えたくはないだろう、さっさと帰ってくれないか」

シカが低い声で何事か伝え、男たちはしぶしぶ去っていった。

ロニィがやれやれと首を振ってみせた。

「ああいう奴ら、たまにいるんだ」

「いい迷惑だよ。ところで、君たちは見ない顔だけど」

「今朝、緑園特区から出てきたんだ」

そうか、とシカはうなずいた。さっきの張りつめた雰囲気の代わりに、老人のように静かな威厳が漂っていた。

「あれ、驚かないの?」

「いや、驚いたよ」

「そういうの顔に出ないなー、つまらん」

ロニィがふて腐れた。シカは笑った。

「その方がいいんだよ。君たちも中の人間にしてはなかなか、肝が据わってるんじゃないか?」

「だよな。でもこいつは人間じゃないらしいぞ」

「え、そうなのか?」

「うん、僕はね……」

サクナとわたしは事の顛末を手短に話した。シカは相変わらず落ち着いていた。

「驚いたよ。ロニィ、ヒルダに報告してもいいかな」

「あー、いいけど」ロニィの返事は少し歯切れが悪かった。

「ヒルダって誰なの?」わたしが聞いた。

「……私達のリーダー、みたいなものかな。ロニィはしばらく本部から離れているけど、それでも幹部だからね」

「そんな肩書き、大して嬉しくないんだけどね。あたしはやたら喧嘩に強いから、たまにお呼びがかかるってだけ」

「自分で言うことじゃない」

「へへ……まあね。シカは今回みたいに調停が必要なとき呼ぶんだ。元々マフィアの親玉の一人娘でさ、今でも頭が上がらない男どもがいーっぱいいるわけ。で、調停役にはぴったり」

「まったく、人の過去をベラベラ喋るな。……で、ロニィ、ここにはいつまでいるつもりだ?」

「あちゃー、忘れてくれなかったか」

「話をそらしても無駄だ、馬鹿」

「うーん……けっこう住み心地良かったんだけどなァ」

「そろそろ本部が動くそうだ。それまでには戻ってほしい」

ロニィは一瞬目を上げて、またうつむき、ほーい、とどこか上の空で返事をした。シカがとことこ立ち去ると、ロニィはしばらく考えるといって奥の部屋へ消えた。

わたしとサクナは暇になって、床に座っていた。

「ユメ、大丈夫?」サクナが突然聞いてきた。

「え、何が」

「あら、大丈夫そうだね。結構図太い」

「何言ってんのかよくわからないけど、失礼なこと考えてる?」

「いや、誉めてる」

「あっそう、どうも」

夏の、多分午後。外はまだ明るかったが、西からの光はもう黄みを帯びて小屋に入っていた。サクナがするりとヘビに戻り、白い鱗が暖かい色に光る。サクナがにょーんと伸びた。

「げ、何それ」

「……のびをしてる」

「……何それ」

私は笑って、自分ものびをした。今までで一番、柔らかく伸びた気がした。

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