6
新津が車を止めたのは、山奥の古いペンションだった。
「お待たせ、着いたわよ」
辺りに人気はなく、外灯さえ見当たらなかった。だが、月と星は驚くほどに綺麗だった。こんなに煌めく夜空を見たのはいつ振りだろうか。俺はしらばく星を眺めた。眺めながらこんな場所で寿司ってまさか、新津の女体盛でも食えというのだろうか、などと思ったりした。あるいは「私はマグロ。好きにさばいてちょうだい」とか。ハン、まさかな。そう言いつつ、新津の裸を想像してしまった。だが、下半身は悲しきかな無反応だった。
「中に入って」
新津に促されるままペンションに向かった。車から扉までの足元は新津が後ろからライトで照らしてくれた。
「鍵は開いているわよ」「ハン、無用心だな」
二枚扉の右を引き、俺はゆっくり中に入った。センサーだろうか。オレンジ色の照明がつき、それから天井のファンがゆっくりと回り始めた。梅雨だからか、それとも古いからか、土かカビか、それと鉄が混じったような臭いがした。
「ごめんなさいね」「いいよ、この時期は仕方がない」
「騙して連れてきちゃって」「は? 騙す?」
会話は噛み合ってはいなかった。何がだよと思った瞬間、後頭部に硬い何かが押し当てられた。
「なんだよ、いてえな」
「お願い、振り向かないで。仕事をさせてもらうわ」
「は? 仕事ってなんだよ。中古車販売か? 俺は中古車じゃねえよ……は? チュウコシャ販売?」
おい、待て。チュウコシャ販売ってなんだ?
ようやく、俺は気づいた。捌かれるのは、新津でもマグロでもなければ、俺か。
地獄に逝くのだな──。ここで殺されて、内臓掘られて海外に売られてしまうのだな。
「新津。一つ聞いていいか?」「なに?」
俺は殺され、新津は殺す。それが確定したっていうのに、案外二人は冷静だった。俺はゆっくり両手を挙げた。命乞いをしたかったわけではなかった。でも不思議と自然に両手が上がった。
俺はゆっくり口を開いた。最後に、少し会話をしたかった。
「俺は昔見たんだよ。新津が、校庭にいたカマキリを踏まれないように助けていたのを。そんな優しい新津ちゃんが、どうしてこんな悪みたいなことに手を染めたんだ?」
新津は少し悩んで、こう言った。
「覚えていないけれど、きっとカマキリは悪じゃないから助けたんだと思うわ。ただ、それだけの理由だと思う」
「悪じゃないものが困っていたら助ける? だけど俺は殺す? なるほど、俺は悪か」
新津が唾を飲む音が聞こえた。ペンションの空気は湿っていたけど適度に冷たくて、死に場所としては案外悪くない気がした。
「田所くんは悪ではないわ。でも、あなたの苦しみは悪だから殺して楽にしてあげたい。もう取り除くことも出来なそうだもの。諦めて、他の人に命を譲って。あなたここ最近、よく幼稚園と教会の周りをウロウロしていたでしょう。死にたくて仕方がないって顔をしながら……」
ここ最近? 俺は今日、かなり久々に幼稚園と教会を訪れたはずだと思ったが。でも仕事を辞めてからこれまでの間、どうやって過ごしてきたのかは覚えていなかった。だから、新津の言う通りなのかもしれない。
「もう一つ、いいか?」「仕方がないわね。最後よ」
「殺人は、悪だろ?」「ええ、そうね」
「じゃあ、新津は悪じゃないか」「そうよ。私は悪。でも、悪になることができたから、こうやって生きていけるの」
こうやって、生きていける? 俺は死ぬのに、新津は生きる?
「新津、ごめん俺やっぱり死にたくない!」「……サヨナラ」「嘘だろ! おい! 待ってくれよ!」「無理」「ギャン!」
*
目を覚ますと、寿司がぐるぐる回っていた。まぐろ、いか、たまご、河童巻き──と思ったけれど、それらはよく見たら惑星だった。まぐろだと思っていたら燃える太陽で、いかだと思っていたものは水星だった。
ふと、後ろを振り返った。そこでは地球が回っていた。
俺は金星になっていた。なぜかはわからない。だが、立ち位置的に金星以外ありえなかった。
どういうことだろう。俺はしばらく宇宙を眺めた。美しかった。嘘とか本当とかどうでもよくて、これがただ一つの真実なのだな、そう悟った。きっと俺はあのとき死んだ。でも、そんなことはちっぽけなことだと今なら思えた。
しばらくすると、後ろから声が聞こえた。
「随分ヒマそうね、アプロディーテ。そんなに退屈なら二十億人ぐらいそっちで面倒みてちょうだいな。あ、イテテッ!」
俺は驚き固まった。地球だ。地球がしゃべっている。
「もう本当に最悪。人間同士で殺し合ってバカみたい。こっちの身にもなってほしいわ! 痛いっつうの! あーもう!」
地球は顔を顰めていた。どうやらどこかの国が戦争をしているらしかった。
「大丈夫か?」
「慣れっこだから平気よ。でもね、きっといつかは限界がきちゃうでしょうね。そうならないように、私に優しくしてちょうだいよ、アプロディーテ」
優しく──。
「うん」
俺は小さく頷いた。それを見て、地球は優しく微笑んだ。
そうだよな。そうかもしれないな。
「ねえ、地球ちゃん」「何よ、その呼び方」
そうだ。俺は優しいものになりたかった。きっと、ずっとそうだった。
「今度、俺の漫画を読んでよ」「俺? 漫画? どうしたのよ、アプロディーテ」
きっと、これでいいんだと思う。そしてこれからは優しい漫画を描いていこう、そう思った。この特別ではない、特別な場所なんてない宇宙の中でな。《了》
失われた寿司を求めて 間辺萌子 @mabemoyashi
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