5
「もしかして、田所くんじゃない?」
どのぐらい眠っていたのかはわからない。だが、声に気づいて目をさますと、女が俺の顔にスマホのライトを当て、じっと覗き込んでいた。
「どちら様ですか……」
眩しさで思わず顔を顰める。誰だ、コイツは。
「私よ、新津エリコ! 中学以来じゃない? なんでこんな場所で寝ているのよ」
「新津……? 嘘だろ! お前、本当に新津なのか!」
驚いて飛び起きると、新津は甲高い声で笑った。
「随分、その……美人になったな。しかも、若々しい……」
思わず本音が漏れ出てしまった。面影はあるが名乗らなければまったく誰だかわからなかった。艶やかな髪と肌、大きくはないが深い瞳、そして鍛えているのか全然オバサン体型じゃない。ウエストがくっきりくびれている。
「ありがとう。君は、随分太ったわね。でも目元の大きなホクロですぐにわかったわ、田所太くんだって」
気恥ずかしくなり、右目の下の泣きぼくろを軽く擦った。
新津エリコは、中学三年間同じクラスだった女だ。どちらかというと地味なやつだったが、父親が有名な外科医で成績は良く、新津も外科医を目指して医大に進んだらしいと聞いた。仲がいいというほどでもなかったが、お互いに手塚治虫が好きだということがわかってから、たまに話すくらいの間柄にはなっていた。
「大丈夫なの? そんな格好で。まるでホームレスじゃない」
オシャレでスタイル抜群、ノースリーブワンピースの新津に反して、だるだるの身体にボロボロのスウェット姿の無様な自分。中学時代は横並びでいた気でいたけれど、それは俺の思い上がりだった。思えばあの頃から圧倒的に格差があったんだよな。
「大丈夫じゃないんだよこれが。人生詰みよ」
俺はそう言ってゲラゲラと笑ってみせた。それから続けて、
「いいな新津、お前は幸せそうじゃないか。今は医者だろ? 金持ちだ」
と茶化してみせた。我ながら下品であるとは自覚してたが、自分のことを聞かれるのが怖かった。新津はニヒルな笑いを一瞬浮かべ、それから真顔に戻ったと思うと、
「幸も不幸もないし、今はもう医者じゃないわよ。お金はそうね。それなりに持っているかもしれないわ」
と言って小さく溜息を吐いた。それからスッと息を吸ったかと思うと、
「立ち話もなんだから、食事にでも行きましょうよ」
と言って、高そうなバッグから車のキーを取り出した。突然待ってくれよと思ったが、新津の凜とした立ち振る舞いに、俺はなんだか怯んでしまって、ただついていくしかできなかった。
新津が前に一歩一歩と進むたびに、ヒールの音が教会敷地内に高く響く。その音が鳴るたびに、どんどん自分が小さくなっていく気がして惨めだった。
「まあ、金が余って仕方がないっていうなら別に……」
小さな声でそう言ってみた。新津には絶対聞こえないだろう小さな声で。
教会の門のすぐ脇に、白のアウディが停まっていた。
金を持ってる女はどうしてこういう車を好むのだろうか。不思議だね。
「さあ、どうぞ。乗って」
おう、と言いながら俺は助手席に乗り込んだ。
「しかし新津。今は医者じゃないっていうと?」
フカフカのシートにベタリの靠れた。同時に新津の左手を確認する。ピンクゴールドの腕時計をしていたが、薬指に指輪はない。
「医者はもう辞めたのよ。今は国産中古車を海外に輸出しているわ。結構儲かるの。それに医者と違って情熱に駆られて苦しくなるってこともないからいいわ」
「ほう……」
何かが引っかかったが、俺はそれ以上は聞けなかった。何が引っかかったのかイマイチ自分でもよくわからなかったし、それに無職の俺が、烏滸がましく人様の仕事を根掘り葉掘りというのは、さすがにな。
新津は手慣れた様子でキーを差し込みエンジンをかけた。それからキャンディの棒みたいな細いタバコを取り出し火をつけた。俺はそんな新津を横目に、
「お前、随分変わったな。昔はその、優等生っていうか清楚なイメージだったけど」
と言いながらシートベルトを締めた。
「あら、おかしい?」
「そんなことはないけどさ。女のタバコって付き合った男の影響って聞くから」
「そんなに影響されやすい女に見える?」
「いや……」
「十四歳の頃からずっと吸ってるわよ。不良への憧れかしらね」
そう言って新津は俺にもタバコを勧めてきた。
「不良ねえ……」
俺は吸う口ではなかったが、せっかくだから一本もらった。チェリーのような甘い煙が口の中に広がった。美味しいとは思わなかったが、しばらくそれを舌の上で転がしてから、唾液と一緒に飲み込んだ。
「何が食べたい? なんでもいいわよ」
「じゃあ……寿司かな」
「随分ありきたりなものを選ぶのね。まあ、いいわ」
新津はゆっくりエンジンを踏み、車を走らせた。時刻は二十時ちょうどだった。
俺と新津は中学時代の話だったり、これまでの人生の話だったり、適当な会話と適当な相槌で移動の時間をつぶしていた。自分のことを話すことが、少しずつ怖くはなくなっていった。なんというか、別にどうでもよくなったのだ。俺と新津の会話は、盛り上がりもしなければ盛り下がりもせず、ただなんとなく、時間を潰すのにちょうどよかった。
「そういや新津。なんでお前、教会なんかにいたんだ?」
ふと、何の気なしに聞いた。すると新津は「娘のお墓参りよ」と答えた。それから続けて「裏に共同墓地があるでしょ、そこで眠っているの」と言った。タイミングが良いのか悪いのか、車は赤信号で停止した。前に停まる白のファミリーカーの車内には大きなテレビがついていて、トムとジェリーが映っていた。
「娘って。お前、ずっと独身だったんじゃないのか?」
「ええ。でも子どもはほしくてね──六歳の誕生日を迎える直前、事故で呆気なく死んでしまった。私に全然似てなくてね、やんちゃで剽軽な子だったわ」
新津はそう言って、何かを思い出したのかクスッと笑った。それから続けて、
「私はあの子に何もしてあげることができなかったの。本当に何も」
と言った。それはクシャっと笑った顔に似合わない、とても悲しい台詞だった。俺は何も言えなかった。下手な相槌を打つぐらいなら、何も答えないほうがいいと思った。
「大切な命を救えないって、とても悲しいことよ。今はこうやって笑っていられるけれど……助けられない命と関わっていくということが、心底恐ろしくなってしまった。だから外科医を続けることができなくなった。その点、今の仕事は最高よ。全然心が乱れないもの」
途中で、中三の体育祭、新津がカマキリを拾って草むらに投げていたのを思い出した。友人らに「よく触れるわね」「気持ち悪い」と言われ「踏まれたらもっと気持ち悪い」と言っていたっけな。赤ハチマキでブルマ姿のあの頃の新津も、今と変わらず瞳は深かったような気がする。
「何か、考えているの?」
「は?」
黙って固まってたからか、新津がグッと顔を近づけてきて俺の顔を不思議そうに見てきた。
「別に、何も考えてはいないさ」
「そっか」
「新津も色々、あったんだな……」
なんとか言葉を見繕って相槌を打ってみた。すると新津は、
「本気にしたの?」
と言って笑った。
「なんだよ、おい。まさか、嘘なのか?」
俺は思わずドン引きした。だって、こんな嘘って最低じゃないか。エイプリルフールに別れ話を切り出す奴よりひどい。だけど新津は、俺の引きつる顔をみて、嬉しそうに笑っていた。
それから「ごめんなさい」と言って、こう続けた。
「本当よ。私は娘を亡くしたし、医者も辞めた」
「なんだよ。紛らわしいなあ……」
「だけどそのおかげで、情熱だとか責任だとかプライドだとか、そんな苦痛の根源的概念を捨て去ることができたのよ。今は最適な精神状態よ。毎日が楽しいわ」
「情熱……責任……」
「その考えているときの顔! 田所くん、昔からよくそんな顔をしていた。信じたんだ? 面白い」
ハア! 意味がわかんねえ。俺はたまらず新津を突っぱねて舌打ちをした。だいたい、近いんだよ! 近い近い!
「なんなんだよ。さっきから本当か嘘かわかんねえよ」
俺が声を荒げると、新津はますます嬉しそうに無邪気に笑った。中学時代には見せたこともないような屈託のない、五歳児のような顔で笑っていた。
「どっちでもいいじゃない。この世なんて、本当も嘘もないんだから。それを信じるか信じないか、それだけなんだから」
「あ、そうですか。もうどうでもいいよ」
大きな溜息が出た。なんなんだ、今日は。だけど、呆れながらも、確かにそうかもしれないなと思ってしまった。神も世間も新津の話も、本当か嘘かなんてどうでもいいのかもしれないのだ。それを信じるか信じないか、あるいは一切相手にしないか──。
信号は青に変わった。前にいたファミリーカーは左折して消えた。最後に観えた映像は、猫のトムがカウボーイのように縄を振り回しているシーンだった。
気づくと舎人から松戸まで移動していた。時刻を確認すると二十二時になる頃だった。寿司はどうしたと思ったが、腹が減ってるわけでもないから別によかった。だけど車はどんどん暗い山道へと進んでいった。それが奇妙で不可解だった。車内にはストロベリー・フィールズ・フォーエバーが流れていた。
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