4

 教会に足を運んだ。幼稚園の頃、昼飯前に毎日園児はここに礼拝に来るのが決まりだった。あの頃はもっと離れた場所にあったと思っていたけど、大人になった今となると、案外すぐの場所だった。

 広い庭園にパンジーやラベンダー、それから名前も知らない花が夕暮れの風に気持ちよさそうにそよいでいる。俺なんかが近づいちまったら枯れてしまうんじゃねえかと思うほど、小さく儚い可憐な小花の絨毯も向こうに見えた。そこからさらに進んでいくと、マリア像にたどり着いた。

「マリア様よお……」

 厳かで、美しかった。ハァ──。たまらず溜息が漏れた。二回、三回、四回と、何度と溜息を吐き出した。俺はまた、泣きそうになっていた。

 なんでだろうな。なんなんだろうな──俺はコイツに向かって「ママ!」と泣きついてしまいたかった。意味、わかんねえ。でも、本当だった。だけど泣いちゃいけない。そう思った。だって俺は大人だから。だって俺はコイツの子供のイエス様なんかじゃねえんだから。コイツは俺のママじゃないし、腹が立って仕方がないけど、俺はいい歳こいた大人だった。

 高ぶる神経を抑え込み、声を震わせながら俺は続きの言葉を探した。泣かないように、泣いてなんかしまわぬように。時々、舌や頬の内側をギッと噛みつけ、痛みで自分を誤魔化すように。

「聞いてくれよ。俺、さっき部屋で死ぬところだったんだ。だけどよ、死ぬ寸前で悪魔の電話がかかってきて、俺は生き返っちまったんだ。とっとと死んでしまえばいいものを、絶望が致死量に達していなかったみたいだ。死ぬって案外難しいね、ハッハッハッ……」

 笑ってみたけど、息が詰まって苦しかった。でもそれ以上に、喋るのを止めるのが怖かった。苦しくても黙っちまうのが恐ろしかった。それからしばらく、あーでもないこーでもないと中身のない話をマリアにぶつけた。そうしているうちに、悲しみがじわじわと怒りに変わっていくのに気がついた。コントロールしようとしても、それよりも大きな力で怒りが身体中に満ち満ちに溢れ、汗も喋りも止まらなかった。

 大人なのにだせえよな。本当だったら懺悔しに来るような場所なのに、俺はこいつに当り散らしたくて仕方なかった。誰かにわかってほしかったのか? でもどうせ、誰もわかってなんてくれないだろ。どうせ俺の今の有り様、他人に言わせりゃ自己責任さ。誰も助けてなんてくれないね。助けてほしいってわけじゃないのさ。そんなことは望んじゃいない。本当だ。俺は何も望んでない。

 怒りや憎悪、痛みや恨み、ありとあらゆる負の濁流に飲み込まれ、まるで天地混沌の中にいるような──自分がどこにいるのかわからないような、誰かに頭を押さえつけられ溺没しているみたいな感覚の中に入った。

 俺は拳で自分の太ももを何度も叩きつけながら、マリア像を睨みつけた。痛みは不思議に感じなかった。ただ叩いてなければ気が済まなかった。

「おいマリア。アンタの息子の神の野郎は、俺みたいなのに興味はねえさなあ。救いの手なんて差し伸べねえさなあ。俺みたいなキモいデブのオッサンは、救ったところで利益がねえさなあ。案外神様も政治を為さいますこと!」

 なに言ってんだ、俺。そう思った。息は変わらず苦しかった。だけど、それでも喋りを止めるなんて怖くて怖くてできなかった。

「神は俺みたいなモンを助けたりはしねえでやんす。だってこれまで、キリストが俺に何をくれた? あんなに毎日礼拝に通っていたのに、父親は俺が幼稚園に入ってすぐ、交通事故で死んじまった。母親は、ソッコー酒と男に溺れちまった。あの頃の俺は幼くて弱い存在だったはずだけど、だからといって神は俺を救ってはくれなかった。毎日お祈りに来ていたけれど無駄だった。お前の息子は誰を助ける? 誰なら助ける?」

 プエッ! マリア像に向かって痰を吐いた。粘ったそれは、マリアにひっつくことなく俺の足元に落っこちた。

「ファッキン! だいたい神ってなんなんだ!」

 俺は叫びながら地団駄を踏んでいた。苦しいけれど暴れないほうがきっともっと苦しかった。通りすがりの人が俺を見る? 通報される? ハン。そんなこと、どうでもいいね! どうせ俺は化け物なんだ!

 俺はドスドスと地団駄を踏み続けた。それは段々不恰好な踊りになった。ドンドコドン! なんなんだ! 神って一体なんなんだ! オラッ! オラッ! なんなんだ! テケテケドンドン、ツンドコドン!

 苦しい、苦しい、苦しい。だけど踊りを止めたらもっと苦しい。

 バリチン! シネ! なんなんだよ、神様ってやつはよ! 俺だって! 俺だって! 俺にだって才能はある! 俺だって特別な人間なんだ! おい神! 俺を認めろ! 俺を認めろっつってんの!

 狂っているのはわかっていた。だけど止めることはできなかった。

 どれほど踊り続けたかはわからない。気がつくと俺は仰向けに倒れていた。どうやら意識を失ったらしかった。後頭部の痛みに気づくと、なぜだか俺はにやけてしまった。

 もうすぐ夜だった。夜が俺を押し潰そうと迫ってきているように見えた。でも別によかった。なんなら潰してくれとさえ思った。

 寝そべったままマリアを見る。目が合った。

「こっち、見るなよな」

 そう言ってみたが、マリアは目をそらさなかった。俺を否定するでもなく、だからと言って肯定しているようでもなく。ただじっと見てきていた。

「なあマリア。神ってもしかして、世間じゃないのか?」

 マリアは何も答えなかった。その代わりか、どっかのカラスが俺を笑うみたいにしてカァ、カァと二回鳴いた。辺りはますます暗くなった。俺ももう、何かを考えられる状態なんかじゃなくなっていた。

 いっそここで、死んじまえたらいいのにな。だけど自殺する勇気も気力も根性もねえや。やだね。もうやだ。眠る──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る