3
新昼社を出て、俺は生まれ育った舎人の町まで移動していた。帰巣本能なのだろうか、ほぼ無意識にたどり着いていた。パスモにいくら残っていたかもわからずに電車に乗って改札を出ていた。無賃乗車にならなくてよかったと、振り返って胸を撫で下ろす。しばらく歩いて俺は聖ルチア幼稚園の正門前に立った。
空はカワセミみたいな朱と碧の混じった色に変わっていた。園庭に子供はいなかったが、中に数人、おもちゃで遊ぶ子どもが見えた。
ああ、懐かしいな──冷えた気持ちが少しずつ温かくなっていくのを感じた。子供の頃はいつもボーッとしていると言われていたが、だからといって幼稚園が嫌いだとか、友達がいないというわけではなかった。これといっていい思い出があるわけではないが、きっとここは俺の好きな場所だった。
園庭のど真ん中に立つ楓の木が、まだあることが嬉しかった。あの頃と変わらず力強い幹、空を覆い尽くすほどに生い茂る青葉。俺はよく、あの木の下に立っていた。
「どうしてみんなと遊ばないの」なんて、そんなことをよく先生に聞かれたけれど、遊ぶことより、あの木の下で周りを見たり、考え事をするほうが俺はずっと好きだった。
園はコの字の形をしていた。俺の頃は木造だったが今はコンクリートの造りになっている。だが、間取りは今も変わっていないようだった。
園長室が向かって左に見えている。俺は目を凝らして園長室を覗き見た。雨の日の自由時間、俺はよく、あそこで園長が飼ってるウサギの話を聞いていた。園長はこっそり俺だけに「ウサギのフンは栄養があるので僕は朝に食べています」と教えてくれた。本当か嘘かはわからない。あまり笑わない大人しかったあの頃の俺を、どうにか笑わせようとしてくれたのかもしれない。実際、俺は笑ったのだろうか。覚えていないが、あの話はとても印象に残っている。
当時の園長先生は、もう亡くなっているだろう。俺の頃で既に結構なじいさんだったから。そう思うと、なんだか少し寂しかった。
ふと、中に人がいるのに気づいた。おばさん? いや、ばあさんだった。机で何か事務処理でもしているようだが、あまりよくは見えなかった。
しばらく見ていると、ばあさんは立ち上がり窓を開けた。俺の様子に気づき、こっちに向かって、
「保護者の方ですか!」
と怒り口調で声を荒げた。
「いや! 違います……あれ?」
咄嗟に答えたが、いや、答えているうちに気づいたが、あれは俺が年長の頃の担任のユキコ先生に違いなかった。俺の頃の園長の娘。歳を取って白髪になり、少しふっくらしたようだが確かにそうだ。無口で無表情な俺を、身体が弱く母子家庭だった俺のことを、よく気にかけてくれる優しいユキコ先生。
覚えてくれているだろうか。そんな淡い思いを胸に、俺は門扉の柵に掴みかかった。「ユキコ先生!」と思わず自分でも驚くほど大きな声が出た。だがそれより遥かに大きな声で、
「お引き取りください! いい加減、警察を呼びますよ!」
ものすごい剣幕でユキコ先生が怒鳴り散らした。その迫力に、俺はたまらず怯んでしまい、少しの間立ち尽くしてしまった。かと思うと、オロオロと逃げ出してしまっていた。こんなデカい図体で、怯えたミーアキャットみたいに。縮こまりながらスタタタタッと駆け足になって──。
「園長先生、どうしたの?」
去り際、居残り保育の園児の声が教室から聞こえた。
「おばけがいたのよ! こわかったわ」
「ウソ! こわい!」「どんなおばけだったの?」「いるわけない!」
矢継ぎ早に園児たちが反応していた。ハンッ、俺は化け物か──そっか、化け物か──。
寂しさは加速した。回転性のめまいがした。だけどここにはいられなかった。ともかく俺は幼稚園から離れざるを得なかった。
四十年弱の月日を経て、ユキコ先生は変わっちまった。優しかったユキコ先生はもういない。あの頃のユキコ先生はもはや幻なのだ。自分で作り上げた幻想だ。記憶なんていうものは、実際あてになんかならない──そう、自分に言い聞かせようとした。でも、そういうことじゃないだろ。それがわかっちまって虚しかった。
そうなのだ。そういうことではないのだ。俺が、子どもじゃなくなったのだ。つまりはそういうことなのだ。あの頃持っていた弱さや幼さといった権力を、俺は失ってしまったのだ。強くないのに、弱いままでは生きられない。弱さを武器にする才能さえない。四十三歳、無職のメタボ。悲しい哀れな化け物に、俺はメタモルフォーゼしちまったんだ。
悲しいね。
さよなら、ユキコ先生──。
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