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「田所さんですね? どうも前田です。本日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
前田は俺を舐めるように見たかと思うと、
「えっと、大丈夫すか? めっちゃ濡れてますけど」
と言ってドロッとした笑顔を浮かべた。
「ああ、すみません。汗っかきで」
嘘をつくならもう少しまともな嘘をつけ。我ながらそう思ったが、前田は「そうすか」と気にするでもなく、「じゃあこっちっす」と言って俺をエレベーターまで誘導した。前田は後ろから見るとさらに華奢に見えて、まるでネズミのようだった。
三階に上がり、ヤンキリ編集部前、カフェのようなフリースペースに通された。壁中に人気漫画のポスターが貼ってあった。いつか俺の漫画もこの中に、そう思うと胸が躍った。
「ちょっとお待ちくださいね」
前田はそう言って、編集部のオフィスの中に入っていった。俺はあまりの落ち着かなさに、ハエのように両手をカサカサと擦り合わせながら前田の戻りを待っていた。
前田が消えて二、三分した頃だった。
「ドコロっち。久しぶりじゃん」
背後から声がした。俺はビクッとして振り返った。その先には赤いTシャツの痩せこけたハゲがにやけ顔で立っていた。
「あ、猫パス先生……」
咄嗟に笑顔の仮面を貼りつけたけど、引きつりまくって仕方なかった。
振り返る前にわかっていた。こんなダミ声、猫耳あんこパスタ以外にはあり得ない。ドコロっちなんて変な呼び方をしてくる奴なんてこいつしかいない。
「いやー、ドコロっちが辞めてからさ、もうドタバタよ。君ほど速い背景職人、そうそういないんだもの」
ハハハ、と笑ってみたけれど、俺は気まずくなって堪らず下を向いてしまった。
猫パスは、俺が七年アシスタントを務めた漫画家だ。四月末、俺はバックレに近い状態で辞めてしまった。辞表は辞める十四日前にという決まりを破って前日に出し、引き継ぎもしなければ机の整理だってかなり適当なままで出てきてしまった。
何かが切れてしまったのだ。だが、突然というわけではない。とっくの昔から切れっぱなしで、いつ辞めてもおかしくない状態だった。ずっと精神状態がよくなかった。それでついに、今年の春に逃げてしまった。
こいつのパワハラにはもう耐えられなかった。暴言、揶揄、暴力。中でも時々俺の胸(といってもただのオッサンの脂肪なのだが)を目を閉じながら揉みしだいてくるのが不快だった。
「全然ヌケねえ」じゃねえんだ。本人はおふざけのつもりみたいだが、俺は心底辛かったんだ。同性同士でもセクハラはセクハラだ。でも、そんな主張、俺みたいな人間がするのは烏滸がましいって思ってしまってできなかった。
猫パスはペラペラと喋り続けていた。
「来年の夏、バリチンのアニメ化決定よ。知ってた? 声優はほら、お前が好きなキョウコちゃん!」
ドヤ顔で俺の向かいにドスッと座った。それから得意げにあーだこーだとアニメ化までのサクセスロードを語り始めた。
元々、歴史漫画家だった猫パスだが、この三年で大きく方向転換し、お色気ギャグ漫画を描くようになってしまった。『バリチン』とは『バリキャリOLが異世界転生してヤリチンになった件』の略称だ。正直、すごく売れている。どうしてこんなものが売れているのかはわからない。だけど、以前と比べて何倍も、いや何十倍もコイツは売れた。
俺は戦国時代の漫画を描いてる館林航平先生のアシスタントになったはずだった。なのに、いつの間にか作家名も作風も変わってしまった。俺はそれが、ずっと嫌だった。俺が好きだったのは館林先生だ。なのにコイツはバカ向けエンターテイメントに向かって走った。言ってみればアキバオタクのマーケットに魂を売ったのだ。最悪だ。悪魔だ。
前田が編集室から戻ってきた。お盆に三つ、コーヒーを乗せている。
「じゃあ……始めますか?」
「前田ちゃん、俺、カントリーマアムも食べたい」
「了解ッス」
思わず俺は「はっ?」とでかい声を出していた。カントリーマアムに対してではない。なぜ前田と猫パスが知り合いなのか。それがわからなかった。
俺は猫パスと前田を交互に見た。そうだ、そもそもなぜ猫パスがここにいる? 新昼社に仕事なんてないはずだ。さっきは動転していて気づかなかったが、よく考えたらおかしい。
「ドコロっち、どうした?」
「どうしたも何も……」
猫パスはにやけていた。俺は混乱するしかできなかった。謎が解けない。なぜ新人賞の打ち合わせに猫パスが同席する気でいるのだ。
「どういうことですか」
俺は恐る恐る聞いた。
「ん? ああ、前田っちは俺の担当だよ。今度ヤンキリでも不定期連載を持つことになったんだよ。あれ? 知らなかった?」
「いや、そうじゃなくて。あ、今知りましたけど。ええと──いや、俺は新人賞の……」
俺が慌てているのに気づくと、猫パスはどんどんいじめっ子特有の顔つきになっていった。虫ケラでも観察するような眼つき、アホみたいな半開きの唇、俺を蔑むみたいな態度でいながら、耳をでかくして次に何を言うかに注意を払っている。そして嘲笑ってやろうとしてんだ。
俺はなるべく冷静に、落ち着いて猫パスに聞いた。
「俺、新人賞の選考が通過したって聞いてここに来たんです。前田さんと打ち合わせをする予定で。猫パス先生はなぜこの席に?」
すると案の定猫パスは、顔を真っ赤にしながら、腹を抱えて笑いだした。猫パスの気持ちの悪い笑い声がフロアにビョンビョンと反響して跳ねていた。
天国だと思って家を出てきたけれど、ここも地獄か──。嵌められちまったな──。何かが崩れていく音が、遠くのほうで鳴るのが聞こえた。猫パスの顔はもう、地獄の王にしか見えなかった。
前田がカントリーマアムを持って戻ってきた。罰が悪そうな顔をしながら猫パスの隣にゆっくりと腰掛けるが、俺の顔を見ようとはしない。
猫パスは深呼吸したあとにこう言った。
「ごめんね、嘘ついて。前田ちゃんも嫌な役させちゃったよね」
「いえ、大丈夫っす」
大丈夫っす──。Die Job Sue.
「すみません、田所さん。新人賞の最終選考っていうのは実は嘘で、猫パス先生がかくかくしかじか」
前田は口ごもりながら、ことの経緯を説明した。もう、何も聞きたくなかった。俺は泣きそうになるのを必死に堪えるしかできなかった。いじめられっ子さながらの、弱虫じみた顔だっただろう。だけど、どうすることもできなかった。ただ俯いて時間が過ぎるのを待つ他なかった。
猫パスは、弾んだ声でこう言った。
「そんなに落ち込まないでよ。ドコロっちにはちゃんと、背景の才能があるんだよ。それに、僕の嘘のおかげで一瞬でも夢が見られたんだからいいじゃない。だいたいさ、君は漫画家になれないよ。才能ないもん。もういい歳だし諦めなって。体に毒!」
ひどいことを軽やかに言いやがる。俺はますますつらくなった。胸にナイフが突き刺さり、同時に鈍器で頭を殴られ、更には肛門に爆竹を仕掛けられたような気分だった。たまらず声を震わせ、
「俺の原稿、読んだんですか?」
と聞いていた。
「うん、クソつまらなかった。最後まで読むのが苦痛だった。なあ、前田っち」
猫パスはキャハッと高く笑った。前田は「いや、その」だのなんだの言って、結局そのあとに何も言葉を続けなかった。
俺は黙って俯いたまま、擦れて汚れたスウェットを、じっと見るしかできなかった。別に猫パスに面白いって認めてもらいたいわけではない。本当に、本当だ──。
「あの……先生。田所さん、調子悪そうなのでそろそろ本題に入ったほうが」
前田が声を顰めて言うのが聞こえた。顰めていてもこの距離じゃ聞こえるに決まっているのに。気遣いしているつもりなのか? 惨めなおっさんを傷つけないようにって? 二十も年下の若僧に、描かずに給料もらえる新人リーマンに? 同情されてるっていうのか?
そういうのがいちばん来るってことを、君みたいな人は知らないか。
猫パスは「まあまあ」と言ったあと、諭すようにしてこう続けた。
「こうやってドコロっちを釣ったのはね、戻ってきてほしいのよ。僕には君が必要なの。それに、こうまでしないと君、僕からの電話は取らないでしょ。家に行っても出てこなかったしさ」
それから猫パスはテーブルの上のカントリーマアムを拾って齧った。コーヒーもズズッと音を立てて啜った。口の中でクチャクチャとそれらを混ぜ合わせる粘った音が嫌でも聞こえた。ヌチャチャ、ニチャチャ、クチャア、ゴックン、ズズズ……。猫パスの口中音が、俺の耳の蝸牛の中をぐるぐるぐるぐる駆けずり回った。
「なんだか気まずいなあ」
猫パスはそう言って笑ったあと、ウーン、ウーンと唸った。俺はずっと黙っていた。
しばらくして猫パスは、今度は俺の作品の感想をなんだかんだと喋り始めた。聞いてないのに、求めてないのに、だいたいお前に読まれる筋合いなんか一ミリもないのに。それでも猫パスは「よく聞いておけ」といわんばかりにこう言った。
クソ、カス、自意識過剰。キャラがお前本人じゃん。誰のために描いてるの。誰もお前に興味はないよ。ということで、背景に戻ってきなよ。
俺は答えた。「嫌、です」と。息が苦しくて仕方なかった。さっきみた地獄行きの夢よりも、ずっとずっと苦しかった。
「あ、そう。じゃあお前、これから先どうやって食ってくの」
「猫パス先生には、関係のないことです」
「あっそ。寂しいね──じゃあ前田っち、最後に一言どうぞ!」
猫パスは、溜息混じりにふざけて言った。
「えっ! 無茶振りっすね。ええと、田所さん。頑張ってくださいね」
「それだけかーい! 前田っち、それ編集としてダメ。本当にダメ」
猫パスのダメ出しに、前田は大きな声で笑った。前田の顔はますますドロっと溶けていた。
俺は逃げるようにその場を去った。エレベーターを使わず階段で。
猫パスも前田も、追いかけてはこなかった。
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