失われた寿司を求めて

間辺萌子

1

 蒸し暑い六畳間の天井で、寿司がぐるぐる回っている。おそらく、昨日からである。いや? もしかしたら一昨日からか? ハッ。俺にはもう、わからんな。今日が何月何日で、今が何時何分か。わからないというよりも、この際どうでもいいのかもしれない。

 仕事を辞めたのが四月末。水道が止まったのが六月二十日。その後、俺はどうやって過ごしていたのだろうか。死ぬ前に記憶の整理をしておこうと思ったが、無職になって以降のことで、思い出せることは何もなかった──。

 目を閉じる。だけど、瞼の裏でも寿司がぐるぐる回っていた。しかしそれも、ついには止まって消えてしまった。まぐろ、いか、たまご、河童巻き。全ては暗い闇に吸われて、目の前一面が真っ黒になった。

 どのぐらい時間が経っただろう。少し明るくなったと思うと、穴に堕ちてく感覚に襲われた。仰向けの身体が落下していく。底は見えず、いつまで堕ち続けるかもわからなかった。恐怖を感じたが、俺はこの状況に身を任せることしかできなかった。

 地獄に、逝くのだな──そう悟った。罪名は夢追いってところだろうか。懲罰は終わりのない労働かい? 本当なら俺はサラリーマンになって、母親を養うべきだったのかもしれない。そしたらもっと、母は長生きできたのかもな。ケッ──。

 地獄が近づいてきたのか、何かが鳴ってる音が聞こえた。テケテケテンテントン、テケテケテンテントン。鬼が太鼓に合わせて小躍りしてると思ったが、聞いてるうちに覚えのある音だと気がついた。

 着信音だ。しかし地獄に携帯なんてあるのか? いや? 俺はまだ、生きているのか?

 重い瞼をこじ開ける。カーテンを閉め切っていたのに、部屋は厭に眩しかった。身体がひどく重怠かったが、堕ちてく感覚はなくなっていた。

 俺は顔を顰めながら、呼び出し音のほうに身体を向けて携帯を取った。誰かはわからなかった。いや、誰だろうとどうでもよかった。ともかく俺は、痺れる指で通話ボタンを探って触れ、携帯を耳に押し当てた。

「はい」と口を開く。しかし声が出なかった。出し方を忘れたのだろうか。それとも単純に口内が渇ききっているからだろうか。

「もしもし?」

 相手の声が聞こえた。若い男だ。男はこう続けた。

「新昼社の週刊ヤングキリギリス、編集の前田と申します。田所太さんの携帯電話でよろしいでしょうか」

 なに! ヤンキリ? 俺は驚き、思わず口をワッと広げた。ガサガサの唇が切れて血のにおいがした。心臓が大きく震えたのがわかった。

「あの、もしもーし? あれ、通じてないのかな?」

 新人賞に送った漫画についての連絡なのは察しがついた。それ以外に何があるってんだ。俺は一か八か、ボタンの八と一を押していた。それから〇四〇四と続けて押した。通じただろうか──「はい、もしもし」だ。

「田所さん? ええと、新人賞の二次選考通過の件でお電話したのですが」

 二次選考……通過……。二次選考! 通過! ヒャイッ!

 体は脱水を起こしているはずなのに、興奮でシッコをちびってしまった。俺は四を押したあと、シャープを長押して喜びを表した。それを三回繰り返した。

 ヨッシャア。ヨッシャアア。ヨッシャアアア! 地獄から天国に駆け上がった気分だった。

 そういえば、いつからだろう。俺は一次の選考結果さえ見ないようになっていた。四十三歳にもなると、もう怖いのだ。才能のなさを自覚するということが。だけど描かずにはいられない。描き続けたい。だから応募し続けてきた。たとえ才能がなくたって、いや、俺には才能はあるはずだ、あるのかな、ないんだろうな、怖いな、怖い──。謙遜、自己肯定、自己否定、疑心、憂鬱──。

 夢と現実、いろんな感情の中で、溺れながらに毎日描いた。人気作家になりたい。マニア受けでもいい。せめて新人賞さえ通過できれば。なぜ通らない。もういいよ。よくない。少年誌で漫画を描きたいんだ。この際、まぐれでもいい。誰か、俺を拾ってくれ。色々と考え、色々と感じてきた。本当にずっと、ずっと色々。

「田所さん、大丈夫すか?」

 前田が薄ら笑いを含んだ声で聞いた。俺は思いっきり息を吸い、腹に目一杯の力を入れた。

「ハッ! ハイヨッ!」

 ひどく嗄れていたけれど、なんとかやっと声が出た。

「ああ、聞こえた聞こえた。よかった」

 前田は続けた。

「あの、ご応募いただいた『星の滑り台』なんですけど、最終選考で先生方に読んでもらう前に打ち合わせしたいなと思いまして。それでご都合をお伺いしたいのですが……」

「ハッ! スハッ! イマッ!」

「え、今?」

 プッと前田の噴き出す息が受話部から俺の耳を劈いた。俺だって、自分の慌てっぷりが可笑しかった。だけどこれ以上は腹に力が入らず、乾いた笑いすら漏れ出なかった。

「急っすね。お待ちください」

 それから前田は近くの誰かに「今来たいらしいんすけど」と確認を取っていた。保留のメロディが鳴った。きらきら星だ。俺はこの電話を取らなかったら、本当に星になるところだった。だけどまだ死ねない。死なない。生きて漫画を描かなければいけない。そんなことを考えながら前田の戻りを待っていた。

「もしもし」「ハッ、スッ」

「時間、十七時で大丈夫ですか」「ハイッ! スッ!」

「それでは十七時に弊社の受付にいらしてください。場所は……」

「ジョブス! ッス」

「わかりました。ではお待ちしております。失礼します」

 電話が切れた後、俺は湿った煎餅布団の上で満面の笑みを浮かべていた。唇はさらにビリビリに裂けて、強い血の味を感じた。本当は貧血で薄い血だったかもわからないが、味を感じたのは久々だった。いつからメシを食っていないかも覚えていない。でもそんなことはどうでもよかった。余韻に浸かっている暇はない。ともかく急いで向かわなければ。

 俺はヤモリのように這ったまま外に出た。立ち上がろうとしたが、寝すぎと栄養失調で倒れたのだ。でもそんなもん、このチャンスに比べたらどうってことなかった。

 アパートの階段を腹這いで滑り降り、二キロ先の新昼社を目指した。人目なんて気にならなかった。途中、何人かに大丈夫かと声をかけられたけど、俺はすべてを無視して進んでいった。

 外は天気雨だった。俺は毛穴から雨を吸いながら這って歩いた。いつから洗っていないかわからない服と身体をアスファルトに擦りつけながら前に進んだ。体臭はすべて消えた。さっきちびったシッコの臭いだって消えていた。腹の皮膚が痛くなると背泳ぎの格好にひっくり返った。空は高く、透き通っていて青かった。

 新昼社に到着する頃には、俺は立ち上がってまっすぐ歩けるようになっていた。信号待ちで毟って食った謎の草がよかったのかもしれない。

 受付に到着すると、アニメTシャツの小柄なメガネが立っていた。

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