エスコート

呉エイジ

第1話

 夏の、とにかく暑い日だった。俺は断続的な腹の痛みを抱えながら、身動きが取れないほどの満員電車の中で揺られていた。不覚だった。これほどまでに痛むのならば、会社で済ませてくればよかった。

 まぁ会社で用を足す、とは言っても同僚の目など少なからず抵抗があるので、日頃からなるべく家でするようにはしているのだが。

 大便をした後は、やはり肛門を綺麗に水で洗い流したいではないか。大体完璧に紙で拭き取れるわけがないのだ。ミリ単位で大便が肛門に付着して残り、臭いを周囲に撒き散らし不快感を与えるのではないか。

 そんな確信に近い妄想に囚われ続け、自宅以外で用を足す気にならない生活がいつしか当たり前になっていた。

 まぁ仮に不意の腹痛に見舞われたとしても、残念ながら会社のトイレにはウォシュレットは付いていないので、俺の選択肢からは外れる。結局は帰宅まで我慢しなければならないのだが。

 しかし、そんな俺の「外で大便をしない」という禁も破らざるを得ない程の、今は激痛である。

 昨夜張り切って作ったキムチ鍋のせいだろうか。ワンルームの気楽な一人暮らしなのだから、いつも通りのコンビニ弁当で済ませればこんな目に遭わずに済んだのかもしれない。

 俺は腹痛と格闘し額に脂汗を浮かべながら、満員電車の中で必死に耐え続けていた。

 ちょっとでも気を抜けば、屁も漏れそうである。

 満員電車の中だ、音を殺して屁を漏らしたところで、すし詰めの車内、出どころを特定されることは、まずないであろう。

 だがそれは俺のプライドが許さなかった。まるで俺が大嫌いな、SNSの匿名悪口のような、出しっぱなしの無責任で卑劣極まる行為じゃないか。匿名の悪意だ。

 電車が陸橋を通過する。金属音を伴った振動が腹に響く。

『これは家まで我慢することは無理なのではないか』

 なんとか自宅まで我慢して用を足したかったが、こうやって吊革に捕まっている今でも、ちょっとした振動で暴発してしまいそうだ。

 二十五歳にもなるというのに大便をスーツに漏らすなんて、赤の他人の前だとしてもそんな失態真っ平御免だ。

 俺は尻に力を込め、心持ち内股で歩きながら電車を降り、構内にある便所へと向かった。

『なんでこのタイミングで掃除なのだ』

 男子便所には無情にも『清掃中』と書かれた看板で入り口を封鎖されていた。

 気温とは別の汗が額から流れ落ちる。

『いっそこのまま駅を出て、どこかの路地裏ででもやっちまおうか』

 ブルブルと頭を振る。そんなこと人として最低だ。

 駅から自宅まで歩いて最低十分はかかる。朦朧とする意識の中、『絶望』の二文字が極太勘亭流書体で頭の中を飛んだ。

『そ、そうだ。確か駅のすぐ外に公園があった』

 一筋の光明。ギリギリで勝機が見えた。

 俺は駅から出ると、早足で夜の公園に踏み入った。この時間だ、遊んでいる子供は一人もいない。

 目の前に見える便所はブロックで組み上げられた簡素なもので、窓というよりはそこだけブロックを抜いた、空気を取り入れる為だけの、防音以前のシロモノであった。

 出入り口は男女とも二箇所あった。

 俺が便所に踏み込んだ数秒後、反対側の入り口から三十代半ばくらいの男が『大』の方に向かって歩いてきた。インテリっぽい顔付き、胸元のポケットにはボールペンが刺さっている。サラリーマンであろうか?

 目が合った。向こうも苦しそうな表情をしている。しかし入ったのはタッチの差で俺の方が早かった。それは向こうも承知している様子であった。苦笑いしながら向こうは会釈してきた。

『助かった』

 俺も会釈を返して待ちわびた『大』の個室へ入る。そいつには悪いが、この公園のトイレには『大』は一つしかなかったのだ。

 スーツの上着をドア裏のフックに引っ掛ける。焦ってベルトを上手く外すことができない。駅からここまで歩いた際、何度か屁が漏れ、少量の水っぽいものも一緒に出たようだが、なんとか下着には付着せずに済んだようだった。

 便器は和式だった。俺はズボンを一気にずり下ろすと、神に祈るような格好で屈み込んだ。いや、俺はその時、心の底から神に感謝していたのだ。

 その時だった。激しいノックの音が公衆便所内に鳴り響いた。きっと同時に入った先程の男だろう。こっちも今入ったばかりだ。そんなに早く済むわけがないじゃないか。奴の気持ちは分かるが、今ノックをされてもどうしようもない。

 俺は無視をすることにした。

「便所に入ったの同時でしたよね、ほぼ同時でしたよね」

 外で男が叫んでいる。

「このドアの前でやれ、ってことですか? それとも小便器でやれ、ってことですか?」

 訳の分からない悲痛な叫びだが返事のしようがない。俺は無視をし続けた。

「すいません、本当にすいません」

 声が上の方から聞こえる。俺は自分の目を疑った。

 なんと先程の男がドアの上に飛び乗って、ドアと天井の隙間から身を乗り出し、こちらを見下ろしているではないか。ここの公衆便所のセキュリティは皆無に等しかった。

「ア、アンタ何やってるんだ、今すぐ降りろ。の、覗きは犯罪だぞ!」

 俺は情けない体制のまま必死になって抗議した。

「こっちも限界なんですよ、一緒にしましょう。貴方ならわかるでしょう? ねっ、後生ですから一緒にしましょう、ねっ?」

「何を言ってるんだ、アンタ」

 そう言っている間に、男はドアに足を引っ掛けると、そのまま乗り越えて便所内に侵入してきた。

「何してるんだ、アンタ、馬鹿じゃないのか? い、今すぐ出て行ってくれ」

 そんな俺の言葉に耳を貸す様子など全くなく、男のジーパンをずり下ろす音だけが狭い個室の背後で聞こえる。

「もうちょっとだけ前にズレてくれませんかお願いします頼みます」

 相手の生のケツが、俺のケツに密着する。そうして金隠しに押し付けられるまで前に押しやられた。

 それが引き金となり、二人同時の黒いスプリンクラー。

「やめろーっ!」

「すいませんっ、すいませんっ」

 密着した二つの尻から勢いよく放出される大便。個室で鳴り響く排便音のサラウンド。

「こうするしかなかったんです。こうするしかなかったんです」

我慢に我慢を重ねた俺の腹は、既に己の意思で制御などできるはずもなかった。

 こちらが低音で長くくどい音を響かせると、相手は反対にプッ、プッ、とカウンター気味で小気味よく高音を重ね合わせてくる。

 俺はこんな悪夢のような状況で奴との共同作業に慣れ合いたくはなく、必死になって屁を我慢すると、奴は間に合って安心したのか、渋いテナーサックスの音色を心地よく奏で始めた。そうして向こうの腹の中のガスが丁度全部出切った瞬間、今度は俺の意思を無視して、食い気味に滑り込む俺のソプラノサックスが、スタッカートな三連符を叩き込んでしまった。

 こんな狂った即興ジャズなど、俺は奏でたくはなかった。泣きそうだった。

 押せば引き、引けば押す、そんな老夫婦の熟練餅つき作業のような、二つのケツから繰り出される見事なハーモニー。

 汗ばんだ尻は、ピチュッピチュッと嫌な音を立てながら相手の尻と付かず離れずを繰り返していた。

 嵐の後の静けさ。それからのことは実はあまりよく覚えてはいない。トイレの水は向こうが流してくれていたのか、和式便器は何事も無かったかのように入った時のままピカピカである。恐ろしいほどの静寂の中、気がつけば俺は服を着て、音の無い便所内の隅に座り込んで放心してしまっていた。



「それが何年前の話ですか?」

「約三年前になります」

「で、その一件がトラウマとなって、勃起不全に陥り、女性と満足な性交渉ができなくなった、と」

「そうです。こういった心の傷は癒えるものでしょうか? 先生」

 俺は思い切って街の心療内科の門をくぐってみたのだ。あの事件のお陰で、この数年、寝ている時にもフラッシュバックが起こり睡眠障害を引き起こして悩まされ続けている。万策尽きての事だった。

「それは、その公園での出来事がキッカケとなり、それが大きな心の傷となったから、性行為に支障が出た、と貴方はそう考えているのですね?」

「いや、当たり前でしょうそんな事。そんなわかり切った質問をするよりも、こういう施設は手早く健全な方へエスコートしてくれる、そんな場所なんじゃないのですか?」

 俺は語気も荒く医者に食らいついた。診察室は狭く、床から壁紙から白で統一されている。

「健全、健全ですか。健全って一体なんでしょうね?」

 医者は何を考えているのか、勿体ぶった話し方で、俺の神経を逆撫でる。

「あんな異常なホモ野郎に尻を密着されて、おかしくならない方がおかしい、ってことですよ先生」

「おおっと、ホモが異常って、今の時代、公の場で不必要にそんなことを口走らない方がいいですよ」

 落ち着き払った医者の態度に段々と腹が立ってきた。

「なんだか先生の診療スタイルに合わなかったようですね。無駄金だったかな」

 俺は苛立ちのあまり、大人気ない嫌味を口走った。

「人間は忘れる生き物です。自分の心が無意識のうちに心を修復するのです」

「……。」

「例えば貴方は現実世界でクラスのガキ大将にいじめられているとします」

「ええ」

「ふとした瞬間に、貴方の頭の中では貴方がスーパーマンになり、そのいじめっ子をボコボコにしたり、ひどい殺し方をしたりします。執拗に何回も何回も」

「……。」

「そうして現実世界の悲惨さと心のバランスを保っていくのです。クラスが変わり卒業すれば、貴方の悔しさは妄想で何重にも押し込められ、いつしか心の奥底に押しやられ、擬似的な一部記憶喪失的なところまでもっていきます」

「その例は、私に当て嵌めれば、一体どういうことになるのでしょうか?」

「貴方が公園の公衆便所で経験したことを、貴方の無意識が覆い隠そうとする。それは貴方の中の『一般的な知識としての常識』が、その衝撃的な出来事と自分の知識とを照らし合わせ、異常だ、間違っている、と思い込ませて」

「ち、ちょっと待ってくださいな先生。思い込ませるって何です?」

「ですから、酷い経験をして勃起不全になったのではなく、自分では気付かなかった心の扉が開いた、とでも申しましょうか」

「言ってる意味がよくわからないのですが」

 俺は貧乏ゆすりが止まらなかった。動悸が上がる。

「気付いた、のでしょうね。同性と肌を合わせることの快感に」

「馬鹿な」

 俺は椅子から立ち上がって叫んでいた。

「気付いてしまったから女性と満足な性交渉が出来なくなったのでしょう。貴方が求めているものと違うから身体が反応しない」

「適当なこと言ってんじゃねぇよ」

 俺は涙まじりに絶叫していた。何に対してここまで恐れているのか、本当は俺自身、その原因を知っているとでもいうのか? 医者の言う一般的な倫理観とのせめぎ合いが、心の中で渦巻いているとでもいうのか?

「貴方は覚えているはずなのです。それを知識としての倫理観が邪魔をして結果苦しい思いをしているだけなのです。あの日、貴方は相手の顔を見ましたね、しっかりと覚えているはずです」

「覚えていません。全く何も。どんな顔をしていたのかさえ浮かんできません」

「身長はどれくらいでした?」

「覚えていません」

「体格は? 太っていた? 痩せていた?」

「ですから覚えていないんです」

「どんな服装をしていましたか?」

「記憶にないんです」

 その俺の言葉を聞き、医者は椅子から立ち上がった。

「私は一日も忘れたことがなかったのに……」

「やめろ……」

「でも貴方は自分の無意識でここにたどり着いた」

「言うな……」

「あの日、私は仕事の帰りで胸元にボールペンを刺していたのですよ。会社の備品をね。ここの名前『橘クリニック』の文字が太いゴシックでフックに印字されていましたからね」

「嘘だーっ!」

 両目から涙が溢れ出ていた。俺は本当は胸元のボールペンの文字をしっかりと覚えていたのか? それを倫理観が邪魔をして忘れたように思い込まされていたのか?

 街をフラフラと彷徨いながら、適当に看板を見つけて心の救済のために入ったと思っていたのに、俺の深層心理は、この病院名を長年探し求め、心底欲していたというのか?

「あの日以来、僕も自分の性癖に気付いてしまいましてね。いつかこんな日がくるんじゃないか、と思って洋式だった病院の便所を、わざわざ和式に改装したんですよ」

「……。」

「今は和式便器は、生産中止らしいですね。患者さんには和式に改装したこと、評判悪いんですよ、ははは」

 俺はクラクラとした頭で蜃気楼の中を彷徨うように、ぼんやりと医者の方を眺めていた。心の外側の角質が、ポロポロと剥がれ落ちていくような、そんな感覚に包まれていた。

「今度は君が、ボクを後ろから押してみるかい?」

 俺はイエスかノーかを口にするよりも前、あの人の差し出した優しげな誘いの手に、自分の手をしっかりと重ね合わせていたのである。

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