第六部 明暗と、終焉と
顔も声も雰囲気も、常人のそれではない。
『狂人』という言葉がぴったり当て嵌まる様子のヒサシは、全速力でこちらに接近している。相変わらず、転がる遺体や負傷者を踏みつけながらだ。こちらに接近しているのは彼だけではなかった。四方から、待機していた西部東部両軍の兵士が襲撃してくるのが見える。襲撃しに来たのではなく、乱心した提督様を案じて追ってきただけなのかもしれないが。
そんなヒサシを見たヒエラは、不快感を露わにして大きく息を吐いた。あの野郎、人をなんだと思っていやがる。そう思うのは自分自身なのか、それとも「彼」なのか「彼女」なのか。よく分からなかったがとにかく、あいつは嫌いだとヒエラは思った。
だったら撃ち落とすだけだ。抱えていたマシンガンを手早く構えて、その銃口をヒサシに向けた。銃は嫌いだ。禁止されたときは嬉しかったが、自身はそれに逆らって使い続けなければならなかった。刃物や鈍器では対応できないほど敵が多い黒猫は、トリガーひとつで簡単に殺せてしまうこれに頼らなければ、身を守ることが出来なかった。今だってできれば使いたくないが仕方がない。俺はこれ以上、あれに近づかれたくない。
「お前たちの面倒まで見るつもりはない。足手まといになる前にさっさと消えろ」
銃口をしっかりとヒサシに向け、ヒエラは唖然とする醒士たちに冷たく吐き捨てた。あの狂人を食い止めながら、彼らを護り切る自信はない。
応戦の態勢を整えるなか、また嫌なものが見えた。
その映像はとにかく赤かった。空も地面も全てが赤い。その中にひとり佇んでいるのは自分自身だ。目の前にはヒサシがいる。足元には体中に穴を開けた醒士たちが転がっていて……この穴を開けたのは彼なのか俺なのか……。
ノイズがかかっているけれど、あまりに生々しい上、エグいくらいに血腥い。まあ、それもそうか。『現在』では多くの血が流れているのだから仕方がない。その臭いに一瞬だけ意識が遠のきかけたのは、自分だけの秘密にしよう。こんな情けない事態を知られるのは、何だか癪だ。
「馬鹿言うな、誰が足手まといになんかなるかよ!」
そう言われれば黙っておけないのがザンジの性分だ。そもそも逃げるなんて選択肢は自分の中にはない。逃走を要求するヒエラの意思に反して、ザンジは臨戦態勢でヒエラと背中合わせに立った。彼の横にはすでに、鎖鎌を手にしたアキナが寄り添っている。
――その人がそんなに大切なら護ってやればいい。それができないなら一緒に死んでやれ。ザンジの脳内にふと、そんな言葉が浮かんだ。聞き覚えはないが凄く懐かしいそれはきっと『煉』が聞いた言葉なのだろう。
その大切な人に該当するのは、きっとヒエラだ。誰にも従わず、徒党も組まず、一人きりで生きていくつもりだったザンジがはじめて隷属しようと思った男だった。こいつが今、ヤバい事態に直面しているというのなら、この俺が護ってやる。絶対嫌がるだろうが、そんなの知るか。こんなところで、どこの馬の骨かもわからないような奴に殺られるなんて許さない。お前を殺すのはこの俺だ。
「そ……そうだよ! 確かに俺は役に立たないかもしれないけど、ヒエラを一人放って逃げるなんてしない!」
俺は変わるって決めたんだ。俯き、独り言のように呟いたキユラの眼光は、いつになく鋭かった……が、内心では尻込んでいた。やる気だけは十分にあるが、実力には自信がないし不足していると自覚している。何せ自分には実績がない。ビビりにビビって実戦で大した戦果を上げたことがなかったのだ。
そのためあまり戦線に立つこともなく、衛生兵として怪我人の治療にあたるか、本部で事務作業ばかりしてきた。お陰で、逃げ足以外にも書類整理とお茶汲みという特技は増えたが、ここじゃあなんの役にも立たない。
それでもキユラは、少しでも役に立ちたかった。数えきれない程の敵に対し、こちらは両手で数えられるだけしかいない。超越した身体能力を持った醒士でも、これだけの差があれば圧倒的に不利だと馬鹿な俺にだって分かる。正直に言えば怖い。だけどこれは最後のチャンスなのだと思う。今まで逃げていたけれど、最期は現代の醒士として戦い抜きたいのだ。
「わ、私も共に行かせてください、黒猫様!」
ザンジから少し出遅れて、ツカサは同行を申し出た。彼には命を救われた恩がある。そしてこの恩は、必ず返さなければならない。受けてばかりだなんて、そんな不誠実なことはしたくなかった。心身ともに未熟なことは重々承知している。大した戦力にはなれなくても、盾くらいにはなれるはずだ。ツカサは押し負けまいと、ヒエラの赤い目を凝視して離さなかった。
そんな彼らの様子を、ミズリは少し離れた所から見ていた。恐らく代々受け継がれている黒猫の性質のせいだろう、自己犠牲のもとで、強引に全てを丸く収めようという傾向が彼にはある。今回もきっとそうだ。一人で戦うことを選んだ背景には、誰かが凄惨な最期を迎える映像を見てしまったことがあるのだろう。それは彼自身か、ここにいる誰かか、或いは全員か。それはヒエラにしか分からないことだ。
ミズリは何も言わず、目を伏せた。この場合、僕はどちら側に加担すべきなのだろう。ミズリは考えあぐねていた。白鼬は醒士であって醒士ではない。彼らのように『高天原』の血は受け継いでおらず、能力も性質も、一般人のそれと大差ない。
微力ながらも生涯つき従うと誓ったヒエラの望みを叶えるべきか、それとも彼ら同様、彼を護る盾となるべきか。いつもなら彼の望みを第一に考えて行動するのだけれど、状況が状況だ――ヒエラが死ぬ未来なんて僕も嫌だ――。今回ばかりは逆らうか……と静かに視線を持ちあげたところで、赤い瞳と視線がぶつかる。『後は頼む』と訴える目を見て決意した。いつものように『解かったよ』という返事はせずに、ガンホルダーに収めた二丁の拳銃を引き抜いた。
「ミズリ、」
ヒエラは眉間に皺を寄せて、ミズリを睨んだ。だが睨んだところで動じるミズリではない。譲歩してやるつもりなんか全くなくて、この選択肢を選んだ理由も教えてやるつもりはなかった。頑固な彼のことだし、こちらの気持ちを説明したところで受け入れないのは目に見えていた。
ヒエラよ、全てがお前の意のままになると思ったら大間違いだぞ。ミズリは心中で呟き、不服そうにこちらを見る幼馴染の目を見て微笑んだ。
「ヒエラ。僕らはもう離別することはない。いいね」
柔和で温厚な女顔の幼馴染の顔は、彼がすぐに背を背けたために良く見えなかった。どうせいつものにやけ面だ……と拗ねながら思ったが、纏う雰囲気はなんだか違う。いつものような飄々とした雰囲気は感じられず、代わりに凛として勇ましかった。
お前たちが死なないよう良かれと思ってやっているのに、お前たちはそれを汲み取ってはくれないのか。少しばかり強引になったミズリの背中を見た後、ヒエラは諦めの溜め息を深く吐いた。気持ちを無下にされたのは寂しかったが、不思議と悪い気はしなかった。
「黒猫……今度こそぶっ殺してやる……!」
あのヒサシがこんな物騒な言葉を叫びながら迫ってくること自体、ツカサには衝撃的なことだった。しかしそれが翳むほど、信じがたい現実に直面している。迫り来るヒサシの手には、禁制されているはずの銃が握られていたのだ。
少し前にペン型の銃で狙撃されていたが、それでもツカサは、まだ彼を信じていた。思い出すのはやはり、拾ってくれたときの眼と手の暖かさだ。それが思い出として深く根付いていたのだが、結局は都合良く創り出された幻想だったのだと現実が言っている。恐ろしいほどぎらついた目に、なんの暖かみもない表情。そう遠くもない過去に、嫌というほど見た狩人たちのものと同じだった。――つまり、提督様もその他の狩人と同じだったのだ。ツカサは苦悶の表情で目を閉じ、深く息を吐いた。
「てめぇ大和、やっぱりそういう奴だったのかよ……!」
「もうやめてください、提督様!」
罵りながらも好戦的な声色で怒鳴るザンジだったが、反面、心底裏切られた気分になっていた。一般常識の一切を知らなかったザンジに、「銃は最大の禁忌であり、世界を滅ぼしうる悪魔の兵器である」と教えたのはこの男だ。他の人間もそう言っていたし、無知な彼はヒサシの言うことが常識なのだと信じていた。
それなのに、何の躊躇もなくマシンガンを手にしているのはヒサシ本人だという矛盾が目の前にある。嫌なやつだとはわかっていたが、こんなに腐っているとは予想外だった。早々に見限っていて良かったとザンジは思っていた。
散弾する時の嫌な音を聞きながら、キユラは呆然と立ち尽くしていた。ほぼ初めて目にする細長い鉄の箱から、鉛玉が高速で飛び出している。当たったら絶対に痛いだろうなぁ。死んでしまうかも知れない。そう思うと怖くて仕方なくて、自殺行為だと知りながらも眼を閉じて蹲った。
自ら志願して、しかも「お前を置いて逃げたくない」なんて格好つけておいてこのザマだ。俺は本当に役に立たない。ずいぶん昔に流行ったらしい「へたれ」という言葉は、きっと俺のような男のためにあるのだろう。
自分の無力さに打ちひしがれ、目を開けば死屍累々の地獄の風景。足元に転がる遺体を見れば、無数の穴が体中に開いていた。そしてそれは……十年ものあいだ毎日見ていた、西部軍の制服を着ている。
それを見て、混乱でぐちゃぐちゃになった頭の中がきんと冷えた。
俺はなんのために生きていたのだろう。軍で特別扱いされているのは、桁外れの身体能力を駆使して西部の人間を護るためではなかったのか。それなのに俺ときたら、怖いからといって事務作業ばかりをやる始末。そんなもの、誰にだってできることじゃないか。「醒士の俺」にしかできないことがあるはずなのに。
――国土の非常時に自ら犠牲となって人民を護るのが俺たちの役目だ。馬鹿みたいな身体能力はそのためにあると思え。他の奴らに疎まれようが嫌われようが……最後に皆護れれば、それで良いと思わねえか?
突然、脳内に男の声が響いた。これは幼いころから憧れてきた初代黒狼のものだと直感で思った。確かにそうだ、この身体能力は戦闘以外に役立てそうにない。もう手遅れかもしれないが、今できるだけのことはやっておこう。だって俺は、ヒエラの盾になると決めたのだ。
東部軍をまとめ上げているはずの男が、東部の住民の命を背負っているはずの男が、無差別に傷つけ命を奪っている。力のない俺には、彼を止めることはできないだろう。だったら、少しでも犠牲者を減らせるように救護に回ろう。統合した白兎の一族が残してくれた薬学と、処置の知識くらいならある。そうと決まれば、一刻も早く実行しなければ。キユラは地面についた手をぐっと握り締めて前を見据えた。目もとの涙は、拭わなかった。
滲む景色の中でも、ただ一つだけはっきり分かることがあった。あの怖くて仕方ない金属製の玉が、こちらに向かって飛んできているということだ。覚悟を決めた途端にこれか。自分の馬鹿さ加減に呆れたが、それより衝撃と痛みに備えなければ。避けも防げもしないと悟ったキユラは、身構えて目を閉じた。きっとあれは痛いはずだ。いや、即死してしまうのか? だけど俺は醒士だ、体は人より頑丈だから大丈夫だろう、多分。
しかし衝撃も痛みも死も、いつになっても訪れない。その代り、ぽたぽたと頬に生暖かいものが垂れ落ちてくるのを感じた。ほのかに鉄の匂いがするそれが血であると理解するのに、大して時間はかからなかった。視界は遮られ。誰かが目の前にいる。その誰かの口からこぼれ落ちるのも赤で、呼吸も浅く早かった。
「提督……様」
キユラに覆いかぶさるように倒れこんだのはキリトだった。力なく崩れる彼の体を受け止めながらも、キユラはほとんど呆然としていた。なんだ、なにがあった。なぜ提督様は、俺の上で倒れているのだ。俺は何をしていた。護るべきものも護らず、俺は――
「どうして……ここに……」
「東の提督を……弟の暴挙を、止めなきゃ、ならなかったんだが……、な……」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙も止めず、キユラはただ黙って聞いていた。東西の提督が兄弟だったということは、極東列島全体で考えれば衝撃の事実なのだろう。だが、キユラにはなんとなくわかっていた。彼らの匂いは、とても似ている。
そんなことより、キリトの『裏切り』の可能性に戸惑い、混乱していた。
東の提督は、黒猫である龍驤ヒエラを殺そうとしている。そして西の提督はそいつと血の繋がった兄弟で、「止めなければ」と言っているが、本当は同じ志を持ったもの同士なのではないのだろうか。
そう疑ったところで頭に浮かんだのは、厳しくも優しいキリトの姿だった。彼と出会った頃のキユラは、犬の血が混ざった穢れだと不特定多数から多くの暴力を受け、身心ともにボロボロだった。親も兄弟もみんな殺され、誰にも頼れず、怯えて泣きじゃくるだけの自分に優しく声を掛けてくれたのがキリトだった。
差し出された手を取ったが最後、拘束されて殺されるのだと信じて疑わなかったキユラは、その手を取らずに払いのけたり引っ掻いたりしていたのだった。本当にどうしようもない、馬鹿な餓鬼だったと思う。彼はそれでも怒らずに笑い、抱きしめてくれた。犬の血で穢れた俺を、なんの躊躇いもなく。そんな人を疑うなんて、なんて馬鹿なことを。あるはずのないことを妄想して、この人を、悪者にしようとした――
「て、提督様……キリト君……!」
しがみついて泣きじゃくり、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すキユラにキリトは苦笑した。その姿に思い出すのは十年前の、廃墟の隅で震える幼いキユラの姿だ。あのときも、こんなふうに泣きじゃくっていたっけ。その時も、キリトは黒猫を追って奔走していた。その最中に黒狼発見の報告を受けて現場に向かったのだが、はじめて見る醒士の姿を見て驚いたものだ。言い伝えられる醒士はみな化け物だったから、もっと異形なものだと思っていた。
だが実際はどうだ。そこらにいる普通の子となんら変わりはない。そんな子が理不尽な暴力で傷だらけになり、こんなにも怯えている。血統が原因で悲惨な生活を送ってきた子を、俺は利用しようとしていたのか。目が醒めたような思いになったキリトは、キユラを引き取ることに決めた。提督という立場とヒサシとの関係を考えると養子縁組はできなかったが、彼が自分の意志を持って歩き始めるまでは、責任をもって育て上げるつもりだった。
戦わせるつもりはなかったが、アキナの実力を見てやはり役に立つと思い薦めた入隊を、あっさり受け入れられたときは正直驚いた。怖がりのキユラが、ぐずらず入隊するなど考えられなかったからだ。
一瞬の間を置いたときのぽやっとした表情は、一体何を思っていたのだろう。何も考えていなかったのか、この行為に裏切りを感じたのか、それは今でも解らない。以来キユラに嫌われていないか、彼が厭世的になっていないか心配だった。
キユラがいなくなったときは――心臓が止まったかと思うほどに心配だった。怖い思いをしていないか、寒さに震えていないか、理不尽に痛めつけられていないか……。こんなことばかりを考えているから親馬鹿だと言われ、その対象がキユラのみだから依怙贔屓だと言われるのだろう。アキナが嫌味で言った「とうとう嫌われた」という言葉は、心当たりがありすぎて胸が痛かった。その原因は紛れもない自分自身で、どう考えても自業自得なのだけれど、とにかく。
だけど、今になってようやく分かった気がする。お前は怖かったんだね。入隊を嫌がって、俺に捨てられてしまうのが。ばかだなあ。俺が可愛いお前を捨てるはずないのに。
ごめん。ごめんなキユラ。謝らなければならないのは俺の方だ。キリトはキユラを抱きしめ返し、頭を優しく撫でた。
「武蔵キリト! 貴方、なにをしているのよ……!」
呆れが混じった怒り声で駆け寄ってきたのは祥鳳アキナで、手にはべったりと血で汚れた鎖鎌を持っていた。味方であろうが自分の意に反するものは容赦なく斬れる娘だ。ここまで来るのに、多くを斬ってきたのだろう。キユラの肩に顔を埋めたまま動けず視界が狭いから、彼女がどんな顔をしているかは解らない。けれどきっと、いつもどおり冷たい目で見下ろしているのだろう。それでも愛してやまない黒猫様から離れ、こうしてここまで来てくれたのは嬉しかった。
キリトは最後の力を振り絞って起き上がり、背後を振り返った。運良くヒサシは、兄を撃った事実に戸惑い動きを止めている。いまがチャンスだ、彼を撃破できるのは今しかない。
「キリト君っ、駄目、動いたら……動いたら死んじゃう……!」
「そうよ、この傷でなにができるというの。怪我人は黙って大人しくしていなさいよ!」
縋りつくアキナもキユラも振り切って、キリトは地面を踏みしめた。背中の穴から血が吹き出すのを感じたが、もうそんなことに構っていられない。まともに呼吸できず苦しさを感じる。それでも俺は……行かなければならない。護るべきものを護るのが、俺の役目だ。
懐に隠し持っていた銀色の拳銃を引き抜いて、引き金を引いた。狙いを定めている暇なんてない。威嚇になれば御の字だ。
運良くそれは、ヒサシの頬を掠めた。爆風の影響で血が滲んでいた右頬に、新たに赤い筋を作る。霞みはじめた目を凝らして前方を確認する。怯んでいるのか、ヒサシが動き出す様子はない。
「キリト……貴様……!」
「俺の大事なキユラに手を出した罪は重いぞ、ヒサシ……!」
怒りに引き攣る弟の顔は滑稽だった。しかしそれは自分も同じで、この変わり様もなかなかに可笑しかった。もともと人が嫌がるのを見るのが好きな歪んだ性分だったのに、今では誰かの平穏を願い、守りたいと思っている。
どれもこれもキユラの影響だ。親代わりを務め保護した七年間。入隊を薦め、上官として接した三年間。どの時間にも一切の無駄はなかった。少し干渉しすぎてしまったような気もしていたが、気にかけるたびに喜び、幸せそうに笑ってくれることがなにより嬉しかった。本当はアキナにもそうしたかったのだが、彼女は冷たい目で見下ろすばかりで、終ぞさせてくれなかった。これが照れ隠しなのではないかとポジティブな方向に勝手に変換してしまう自分は、本当に気持ちが悪いと思う。
そこまで変わってしまったのに、不快そうな顔を見て楽しいと思うとは……自分の中のサディズムはまだ死んでいなかったか。すっかり丸くなってしまったと思っていたけれど、案外そうでもないらしい。やはりキユラとアキナは特別なのだ。彼らを傷つけるのなら、たとえ実弟でも容赦はしない。大嫌いな拳銃を使ってでも制裁してやる。キリトは口から溢れる大量の血もそのままに、ヒサシを睨んだ。
再び銃口を上げ、引き金を引こうとしたのだが、なかなか思うようにいかない。大量失血で動きが鈍くなった体が反応するには予想以上の時間がかかり、撃つより前に全身が大きく揺れる。ぐらりと世界が揺れ、気付けばすぐそこに地面があった。目線から数センチ右にある地面は、じわりじわりと赤く染まってゆく。
「貴様……何故裏切った……! なぜあいつらを庇う……!」
完全に頭に血が昇りきったヒサシは、キリトに詰め寄りの傷口を思い切り踏みつけた。もうあまり気力も体力も残っていないので、喋るのも痛がるのも億劫だ。「あのときのことを忘れたのか!」なんて怒鳴るヒサシの声は、完全に聞き流していた。
ヒサシのことは、裏切ったのではない。見放したのだ。己を見失い、禁忌を用いて殺戮を繰り返す男の復讐劇になど、協力する意味も価値もない。――独りでやってろ。なぜ庇うか、だと? そんなの愚問だ、可愛いからに決まっているだろう。
「もうお前には、愛想が尽き、た……解かっているか、自分の、やっていること……お前は、あれだけ憎んだ、龍驤キサラ、と、同じこと……を、して……いる」
嘲けりの意を込めて、今ある力全てを以てヒサシを嗤ってやった。しかしその真意は、ヒサシには伝わらない。その言葉で怒りに支配されたヒサシは、キリトの背中を再び踏みつけて引き金を引いた。踏みつけられながら、キリトはぼんやりとキユラのことを考えていた。
正式に入隊したその日から、呼び方が「キリト君」から「提督様」になってしまって、そのときはなんだかちょっと寂しかったな……。その思考も、次の瞬間にぷつりと途絶えた。ヒサシが放った一撃が後頭部を抉り、武蔵キリトは絶命した。
※
今気付いた。ヒエラがいない。
そこら中に無数の遺体と怪我人はあるが、ヒエラの姿は見当たらなかった。それだけならギリギリ許せるが、問題はヒサシの姿も見当たらないということだ。――しまった、謀られた。
結局彼は一人で行ってしまい、己だけを犠牲にすると決めたのだ。こちらの目を盗んでふらりと消えるのはよくあることだが、こんなときにそれは勘弁してくれ。またお前一人が身を削り、事態を収めるのか。ヒサシをこちらに近づけないため、これ以上の犠牲者を出さないため、一人で遠くへ行ったに違いない……。
ここで、こんなところで死なせるもんか。ミズリは必死に周囲を見渡し、ヒエラを探した。
「おいミズリ、そんなソワソワしてねえでお前もこっちどうにかしろ! 俺がやったって、こいつらの傷増やすだけだぞ!」
苛ついた様子で叫ぶザンジを見て分かるように、今は怪我人の処置に追われている。最初のヒエラの一撃で大半の兵力は奪われ、その後も攻撃的なザンジとアキナによりじわじわと削られていった。そうしてみんな戦意喪失してしまって、あっという間に停戦状態だ。軽傷者から自力で起き上がることすらできない重傷者まで多くおり、西の提督である武蔵キリトの死も、今しがたアキナから聞いた。彼の最期の命令を聞き入れたために看取ることはできなかったが、もうあれでは助からないだろう。感情を押し殺したような声で、アキナはそう言っていた。
動ける者で手当に当たっているものの、負傷者のほうが圧倒的に多く手が回らない。あのビビリで泣き虫のキユラが、こんな凄惨な環境下でもてきぱきと働いてくれているのでなんとか回せているような感じだった。
キユラは戦闘ではほとんど役に立たないのに、救護になると驚くほど手際がよく丁寧だった。しかし当然ではあるが。彼は一人しかいない。人手が足りない上に、強化された身体能力のせいで馬鹿みたいに力が強い醒士たちはあまり役に立たない。そればかりか、力を制御できないザンジとアキナでは更に傷を悪化させてしまうきらいがある。
それを気にかけた彼が「消毒したいから煮沸してくれ」だとか「薬が足りない、この草を採ってきれくれ」だとかあれこれ指示を出してくれるが、どの草もおなじに見える二人はそこでも役に立てなかった。今かろうじて戦力になっているのは、非力で生真面目で慎重なツカサだけだ。
「黒猫様、どこに言ったのかしら……探しに行かなければいけないのでしょうけど……」
「それ以上言うんじゃねえよ馬鹿。そんなの誰だって同じだろうが……特にミズリは」
キリトが密かに用意していたという救援物資の運搬に徹していたザンジは、ツカサを見下ろして厳しく言い放つ。この馬鹿は、なにをいちいち皆が思っていることを口にするのか。ザンジはツカサに苛つきながら、ひたすらに物資を積み上げていく。
本当は、それが彼女の生真面目さからくるものだと知っている。同じ醒士として、数年間も共同作戦を強いられていたのだから嫌でもわかる。これによってもう何年も苛々させられてきたのだ、いまさら目鯨をたてたって仕方のないことだ。
ミズリはきっと、今すぐにでも駆け出して行きたいのだろう。付き合いの短い俺だってそうだ、今すぐとっ捕まえて、視界に入る範囲に置いておきたい。それだけの危うさが、あの龍驤ヒエラにはあるのだ。
自ら『英雄』を名乗り、身を危険に晒してまで影武者を務めてきた彼のことだから尚更だろう。初代の遺伝子がそうさせるのか、或いはヒエラ自身の人徳によるものか……それは他人であるザンジには解らないことだ。
「お前も。何心配そうな顔してんだ柄でもねえ。心配しなくても、あいつはそんな簡単に死ぬような奴じゃねえだろ」
手荒い治療をしながら心配そうに俯いているアキナに言うと、今にも泣きそうな顔でこちらを見上げてきた。この狂気じみた、表情が堅く気の強い女にもこんな顔ができるのか。ザンジは不覚にも、アキナにどきりとしてしまった。この心拍数の上昇が驚愕からくるものなのか、それとも恋心からくるものなのか。明確な原因は、喧嘩以外に深く考えてこなかったザンジは知らない。
「だってそうだろう、あいつを殺すのはこの俺だ」
その戸惑いを無理やり隠すために思わず言ったそれにいち早く反応したアキナの表情は、一気に凍りついた。それが失言だと気付いた次の瞬間、ザンジはアキナの切れの良い飛び蹴りの餌食となった。
※
「兄まで殺したのか」
キリトを撃ち殺した直後のことだ。彼の背中を踏んだままのヒサシの背後に、ヒエラはゆらりと立っていた。
「黒猫っ……!」
遂に捉えた。今度こそ確実に殺してやる……! そう意気込んで振り返り、銃口を向けようとしたが、その手に銃はない。ヒサシが腕を持ち上げた瞬間、ヒエラが刀で弾き落としたからだ。
ヒエラの低く微かに甘い声には、相変わらず感情が読み取れない。だがいつもと少しだけ様子が違う。平常通りに見える虚空な紅い目の中には、珍しく軽蔑の色があった。
この男だけは何があっても好きになれない。ヒエラは直感でそう思った。
こいつが先代の黒猫をどれだけ憎んでいるかは知っている。俺も嫌いだ。先代も先々代も黒猫はあまりに横暴で残虐で、私欲のために多くの人を嬲ってきた人たちだった。これでは擁護のしようもなく、誰に憎まれても仕方がない。先々代のキサラは父親で、先代は例の長兄だから、彼らの振る舞いは近くで見てきたし見せられてきた。
キサラは自分が思うことは全て正しいと思っているらしく、「いつかお前も俺のようになれ」と言われ続けたものだ。けれどそのたび、幼いながらに「こんな男にはなるものか」と思っていた。
彼らのようになってこの男を殺すのは嫌だが、この憎しみに狂った兄殺しの男に殺されることはもっと嫌だ。ここでこいつを仕留めて、全てを終わらせよう。そうすればこの『英雄狩り』はなくなるし、追われる生活を嫌がっていた醒士たちも喜ぶはずだ。俺自身は、死んでしまうかもしれないけれど。
この首をさっさと切り取ってやろう。少々古典的ではあるがそれが一番いい気がして、ヒエラはあれから動かないヒサシの首に刀を当てた。勢いをつけて叩き斬ろうと振り上げたところで、ヒサシは突然に顔を上げる。
血でべったりと濡れた顔に、小刻みにブレる散瞳した瞳孔。何を考えているか分からないというか、なにも考えていないというか、それこそ『虚無』という言葉が合っているような気がした。中身を失くしたまま気が触れてしまったヒサシは、もう禍々しさも殺意も憎悪も伝わってこないのに悍ましかった。狂ったヒサシは、弾かれたようにぐるりと体を捻らせる。
「くっ……!」
これでは首を落とせないが、勢いをつけた腕は止まらない。ヒエラの刀は、ヒサシの背中を袈裟懸けた。それでもヒサシは行動をやめない。
「あああああああああっ!」
「……!」
ヒサシは獣のように咆哮しながら、遺体になったキリトから拳銃を奪い取った。弾かれた自分の銃がどこにあるか分からなかったから、そうしたのだ。
俺にはもう何もない。力も、武器も、人望も、仲間も、家族も。もういつから失いのかわらなないものがほとんどだ。そうなってしまったのも全て黒猫のせいだと思ってきたし、黒猫への復讐心を常に持っていないと生きていけなかった。そうしないと真っ直ぐに歩けなかった。「黒猫が絶対の悪」。本当にそれが正しいのかもわからない。キリトが真相を知っていそうだったけれど、終ぞ打ち明けてはくれなかった。そして、もう真相を聞くことはできない。ついさっき、この手で殺してしまった。
東西に分かれてしまっても、決して見捨てることなく兄でいてくれたキリトの遺体をぼんやりと見る。最後に残った心の支えだったのに、自分のバカさ加減に『愛想が尽きた』と言われて、ついカッとなって殺してしまった。やはり俺は馬鹿だ、でも、もうどうしようもない。下衆を極めた俺なんて、もうどうにでもなってしまえ。恨みなどないのに憎み通した、お前を道連れにして死んでやる――。振った刀の遠心力に体をとられ体勢を立て直しているヒエラに、ヒサシはもう一度銃口を向けた。
乾いた破裂音が五回ほど聞こえて、右腕に今までにない衝撃を感じた。その衝撃で身を翻したヒエラは、スローモーションで宙に舞う腕を見ていた。赤い筋を作りながら遠ざかっていくそれは日本刀を持っていて、間違いなく自分自身のものだとすぐに理解できた。
どこに飛ぶか誰にも想像できなかった銃弾は、ヒエラの右肘を貫いたのだ。関節が砕け肉がちぎれ、威力に押されて肘から下が吹き飛んだのだろう。自分のことなのにひどく客観的で、実感が無い。それは予想ができていたからなのか、ただ単に『現在』ではないからか。
「はははは……! 右腕がなけりゃあ何も出来ないだろ……!」
残った五発全てを放ち、それでも未だ引き金を引き続けて笑うヒサシのことなど気にもならなかった。落ちる右腕を目で追いながら、今自分がどこにいるのかを考える。
吹き飛ばされた右腕に痛みがないのは、興奮状態で痛覚が鈍くなっているから? 妙にリアルなのに感情移入できないのは、いつものように映像を見ているから? いつもどうして確認していたっけ――あぁそうか、いつもはミズリが教えてくれているんだった……。それを思い出したヒエラは考えるのをやめて、直面している事態を乗り切る方法を探していた。
この時間軸が何であろうが、今はとにかく前へ進まなければ。腕を一本なくしてしまったが、それでは立ち止まる理由になり得ない。まだ左腕がある、両足がある、目がある。帰りを待ってくれている、「仲間」がいる。
残念だったな、大和ヒサシ。俺は左利きなんだ――そんなどうでもいいことを考えながら、やはり早めにけりをつけなければと思っていた。愛想を尽かされず待っていてくれるうちに帰らないと、漸く見つけた居場所をなくしてしまう。ここは寒くて嫌だ、早く暖かいところへ帰りたい。
深く息を吸って、ヒエラはヒサシを振り返った。透き通った赤い目が、真っ直ぐに彼を射る。
腕をなくしてもなお、精彩を欠かないのは予想外だったのだろう。ヒサシは銃口を向けたまま、焦り困惑した様子でヒエラを見ていた。――やるなら今だ。今なら行ける。あの狂った馬鹿を黙らせるには、今しかない。ヒエラは地面に転がった自分のマシンガンを拾い上げて、散漫なヒサシの体にぶち当てた。強打されヒサシと共に、重さと衝撃、重力に耐え切れず、左手からマシンガンが飛ぶ。やはりこの大きさのものは、片手では扱いづらい。
吹き飛んで転がり、マシンガンの下敷きになっていたヒサシに詰め寄った。もう逃がすまいと、ヒエラはさっき袈裟懸けたばかりの背を膝で踏んで押さえつける。もう彼が逃げることはないと解っていたが、うっかり動かれて切り損ねてはまずい。右腕がしっかり握っていた刀を奪い取り、ヒサシの首を狙って振り上げた。
「……残念だったな、俺は左利きなんだ」
思わず口をついて出た言葉に、ヒエラは絶望していた。この局面で、俺はなんてどうでもいいことを言っているのだ。無言で叩き切るのは躊躇われたから、何か言おうと考えたのがそもそもの間違いだった。そうだ、俺は口下手だったのだ……。でも、どうせならもっと格好つけたかった。
そんなヒエラの後悔になど目もくれず、ヒサシはぐったりとして動かなかった。違う違う違う、俺は一人でなんかじゃなくて、こいつを道連れに冥土へ行くつもりだったのに。首を切ったあとで彼も後を追って……なんてことはしてくれないか。何もかもが上手くいかないなあ。あの時からずっとそうだ。
最下位の三等兵曹から最上位の提督に成り上がったまでは順調だった。これまで通りに殺伐としていたら誰の協力も得られないと思って、柔軟な優男だって演じてみせた。だがその鍍金もすぐに剥がれてしまった。本当は知っているのだ、自分が大勢を纏められる器ではないことくらい……。
こんな筈ではなかったと悔やむ一方、やっと終われるという安堵感があった。もう自由なのだと、気を張る必要もないのだと思うと心は晴れやかだった。斬首の前にこんな気持ちになるなんて、可笑しな話だ。
その気持ちを読み取ってしまったヒエラは、複雑な気持ちになった。だけど、早急に実行しなければならない。「彼の安寧のために」刀を振るうのは荷が重いが、これが黒猫として、彼にしてやらなければならない最低限の償いなのだろう。
片手ではどうも狙いを定めづらいが、ぐっと刀身に力を込める。せめて一太刀で終わらせてやろう。これは俺からの慈悲だ、有難く受け取れ。
「これで……終わりだ」
復讐でしか自分を見出せなくなった狂人へ、「終焉」を贈ろう。哀れみと、軽蔑の意を込めて――。
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