第五部 英雄狩り


 時刻は午前六時。まだ十分に日の出ない朝方の砂漠はやはり肌寒いと、大和ヒサシは思った。しかしその寒さもじきに忘れる。先日の銃撃戦で僅かに肉を抉られた左腕に触れ、黒猫の姿を思い出した。


 無関心でこちらのことなど意に介さない態度も、人間離れした業も身体能力も、何もかもが気に入らない。一般市民の苦労も知らず、何をお前は飄々としているのだ。そしてその苦労など知ったことかと言わんばかりにこちらのことを気に掛けない態度を思い出せば、黒猫に対する黒い感情が沸々とわき上がる。彼の内側にあるものは、怒りや憎しみといったマイナスの感情だった。


――俺は、あの黒猫を絶対に許さない。ヒサシはそう思っていた。俺に楯突いた罪は重い。予定より早いが、ここで醒士共々嬲り殺してやる。黒猫の拠点であるという情報を受けた廃墟を見つめ、ヒサシはどす黒い笑みを浮かべた。幸か不幸か、今そこには全ての醒士が集結していると聞く。戦力的に考えれば勝ち目はないが、いちいち探す手間が省けるのは幸運だった。僅かな時間でさえ浪費したくない。今すぐにでも屠りたいと思っていた。



「忌々しい奴らが死にゆく姿……お前も見たいだろう、キリト?」



 斜め後ろに数人の護衛を連れて立っている武蔵キリトに、ヒサシは言った。無邪気な口調と邪気にあふれる言葉はあまりにミスマッチで気味が悪い。『別に見たくなんかない』と言いたいが、彼がこうなってしまった責任は自分にあるのだと思えばそれも憚られた。大げさに手を広げ、綺麗な顔で狂気を撒き散らすヒサシを見たキリトは、諫めるように眉間に皺を寄せた。


 一方のヒサシは、「仕方なく来てやった」という感じが否めないキリトに苛立ちを募らせていた。 今更怖気づいたのか? 二人で奴らを殲滅しようと約束したのは嘘だったのか? いろいろ思うところはあったけれど、もうこの際どうでもいい。あの憎い獣たちを殺せさえすればそれで十分だ。



 両提督の後方に控える兵士たちは、皆一様に小首を傾げていた。


 西と東は、長きに渡って激しく対立しているはずだ。なのに今、両軍共同の任務を実行するのだそうだ。それだけでも衝撃的かつ不可解なのに、両組織の頭同士が肩を並べて親しげに名前で呼び合っているのを目撃してしまい、謎は深まるばかりだった。護衛役に抜擢された東西精鋭の隊士たちも「醒士駆逐作戦」としか聞いていなかったが、今や同僚となった醒士たちを狩り取る理由もよく分からない。


 対立する東西での協定会議は、これまで何度も開催されてきた。しかしそのどれも腹の探りあいでもしているかのようで、いかにも敵同士、といったピリピリした雰囲気だった。けれど今は少し違って、深い交友関係にあるもの同士といった空気感だった。


 嬉々としているヒサシとは裏腹に、キリト自身はなぜこのようなことになったのかが良く分からないでいた。いま、背を向けて立っている男は明らかに復讐に狂っていた。数年前までの彼は、人より少し英雄を嫌う程度の男だったはずだ。それまでも彼を狂わせる要素は幾つかあったけれど、少し行き過ぎではないだろうかとキリトは思う。十数万もの兵を従える提督が、私怨に溺れるとは如何なものか。まあ、そう彼を諌めたところで、もう聞いてはくれないのだろうけれど。


 ヒサシが狂い始めたのは恐らく二十年ほど前――先々代の五十一代黒猫が《英雄》だった頃だろう。その頃の英雄は非常に乱暴な男だった。今の黒猫もなかなか奔放で暴力的だが、そんなの比にならないほどの悪逆非道ぶりで、多くの民衆に恐れられていたことをよく覚えている。


 この東西対立の原点は「英雄狩りの原点を巡り勃発した内戦」だったが、あまりに長期化しすぎてしまったために理由を忘れられ、挙げ句に両陣営とも疲弊してしいまい、現在は事実上停戦している。同時に一切の交流も停止し、常に緊迫した空気が充満していたけれど、武力による抗争がなくなったお陰で暫くの間は多くの血を流さずに済んでいた。それだけで十分だった。いつ鳴るかわからない銃声に怯え、逃げ惑う日々にはううんざりしていた頃だった。


 せっかく落ち着いていたのに。やっと平穏を手に入れたのに、それはあっという間に終わってしまった。


 平穏を嫌い戦争を好む五十一代黒猫が、龍驤キサラが、なんの罪もない一般市民を無差別に射殺して回るという事件が起きてしまったのだ。どんなに嘆いても、祈っても、呪っても、けたたましく銃は吠える。


「黒猫こそが絶対の悪」だと批難されるだけで終わればどれだけ良かっただろう。しかし現実は厳しくて、「特別」な黒猫が裁かれなかっただけでなく、彼に賛同する者たちまで発起するという悲劇が起きてしまった。


 東部をよく思っていなかった一部の西部人が、また西部をよく思っていなかった一部の東部人が、キサラに便乗して銃を乱射したのだ。そして「虐殺は向こう側がやったのだ」と嘘を吐き、糾弾しあい、両者の溝は底が見えないほど深まってゆく。


 その影響を大きく受け、領土同様に東西に分離されてしまった家族は少なくなかった。その一例がキリトとヒサシだ。彼らは、血の繋がった兄弟だった。


 両親は価値観の相違から離婚してしまったが、その後も友達としての交際を続けていて全く会えないことはなかった。兄のキリトは父に連れられ、弟のヒサシは母に連れられ大和ヒサシになった。姓が変わってしまったことで繋がりが薄くなった気がして不安だったが、月に一回は必ず会えたので寂しくはなかった。



『可哀想に、ヒサシはお兄ちゃんが大好きなのに……ごめんねヒサシ。お母さんたちが別々に暮らしてなかったら、こんな思いはさせなかったのに』



 停戦したことで今すぐ死ぬということもなくなったが、代わりに東と西は完全に分断されてしまった。分厚い壁や鋭い有刺鉄線があちこちに設置され、こうなってしまえば行き来は容易でない。境界線の警備が日に日に厳重になり、通商のために開放されていた関門も完全に封鎖されてしまった。停戦以前は民間人であればある程度は許容されていたが、今では一歩踏み込めば命の保証もない。


 このことを嘆き、怒ったのは母だった。最愛と離縁し、唯一の心の支えであった息子の望みはできる限り叶えたい。その望みとは、今や西部陣営の人間となってしまった兄と遊ぶことだ。だから母はこの規律を破り、西部領へ何度も踏み込み、死と隣り合わせの危険な逢瀬を繰り返した。


 あの悲劇的な日のことは、今でもよく覚えている。密会を終えた直後の扉越しに、母の悲鳴をキリトは聞いた。危機を察知して反射的に扉を開くと、そこには血走った目をした複数の大人たちが待ち受けていた。「その者共、諜報の恐れあり!」と叫びながら、母とヒサシに詰めよる男たちの恐ろしさたるや。傍目に見ただけでも震え上がるほど恐ろしかったのだから、囲まれている本人たちの恐怖は想像を絶するものだっただろう。


 キリトはこの光景を見た瞬間、「ア、殺される」と直感した。


 眩む頭を覚醒させるためにバチン、と思いきり頬を叩いて、浮ついた自分自身に喝を入れる。気を確り持てと己を叱責して、改めて見た光景は想像を絶する。この現世とは全く別の……浮世というか地獄というか、とにかくこの世の悪を煮詰めて凝縮させたような後ろ暗い雰囲気だった。


 なぜだ。なぜこうなってしまった。今まで何事もなかったし、今日も平常通りだった。すれ違い際にはにこやかに挨拶まで交わしたというのに、この変わり様はなんだというのだ。状況を把握するために警戒しながらぐるりと周囲を見ると、視野の目の端に見慣れた姿があった。見直さなくてもわかる。毎日のように見ているその正体は――二階の窓から、冷えた目で見下ろす父だった。


 体の芯から冷えていくのを感じながら、深い絶望を感じている。酷い虚脱感だった。信じていたものがガラガラと音を立てて崩れていく様に、キリトは大声を上げて泣きたくなった。もう、何を信じていいのかがわからない。


 一体いつまで、銃声や怒声に怯えながら暮らさなければならない? なぜ停戦したのに争いが起きる? なぜ大人たちは裏切る、なぜ命や自由を簡単に奪う何故なぜナゼ何故……。止め処なく溢れ出る疑問は、脳内を巡るだけで解決しない。自分よりも知識がある大人たちにこんな問いをぶつけたって、解なく弾き返されてしまうのがオチだ。



 遠くで野良犬が鳴く。それを合図に大人たちが母とヒサシに押し寄せ、粛清は始まった。至るところから罵声と歓声が鳴り渡り、ひしめき合う群れの中心から聞こえる悲鳴の響きには馴染みがある。それがどうにも耐えがたくて、やり過ごせなかったキリトは危険を顧みず群れに突っ込んだ。


 怖くなかった、といえば嘘になる。それでも助けずにはいられなくて、人垣に突っ込んだ腕を引っ掻き回してヒサシを探す。誰かの指先が触れた。柔くか細いそれに「これがヒサシだ」と直感したキリトは、無我夢中で引っ張り出した。当たりだ。そこに現れたのは間違いなく弟のヒサシで、既に暴力を振るわれたらしい小さな体には痛々しい痣と傷ができていた。



「逃げて……キリト、ヒサシをお願……あぁ……!」



 騒音の中から聞こえた母の声は、驚くほどにはっきりと聞こえた。弱々しく掠れた、悲鳴のような声だというのにだ。その声を基点に、合わなくなっていた焦点が合い視界がクリアになった。そこで見たものは酷く傷ついた母の姿だ。痣や傷は勿論だが、衣服は破け髪も毟られている。その無残な姿で、血走った目で、しっかりとこちらを見て手を伸ばす。


――どうしてお母さんのことは助けてくれないの。言葉とは裏腹にそう言われている気がして、キリトは目を背けたくなった。だができない。体が硬直してしまって、目を背けることすらできなかった。お母さん、お母さんとヒサシが泣き叫ぼうが暴れようが、指ひとつ動かない……


『このひとはもう駄目だ』。キリトは思った。今そこから引きずり出したところで、助かる見込みがないほどぼろぼろだった。きっとすぐに死んでしまうと分かりきっていたけれど、見捨てるのは正しいことか? と脳内の自我が訴える。どうする。どうすれば良い。泣きじゃくるヒサシを胸に抱いたまま、キリトの葛藤は絡みに絡んで縺れてしまう。今すぐに決めなければならないのに、荷が重すぎて身動きが取れない……。



「――――ッ!」



 母に向けて差しのばした手をどうすることもできないまま、キリトは声にならない悲鳴を聞いていた。手荒く扱われた母の身体が引裂かれ、弾けたのだ。強く押され、強く引かれを繰り返されるうち、耐え切れなくなったボロ雑巾のような体は抵抗できなくなったのだろう。声も挙げられないまま千切れた胴体部から臓物と血が溢れ、あたりに散乱する。


 すぐ近くにいた二人はそれをもろに浴びてしまい、幼いヒサシは精神的ショックで気絶してしまった。変に気を張っていたせいか気絶し損ねたキリトはその凄惨な光景から目を離せず、心神耗弱状態でその場にへたり込む。気持ち悪かった。血の匂いも蠢く新鮮な臓物も、母を奪った男たちも、共犯者の父も、何もかもが気持ち悪い。


 なぜだ。なぜ母は殺されなければならなかった。なにか悪いことをした? ただ家族に会いに来ただけじゃないか。なにが東部だ、何が西部だ。「大人の事情」になんてまるで興味のないキリトには、分断される意味も理由も分からない。苦しくて、気持ち悪くて、悔しくて、悲しくて。自身の中に次々と負の感情が湧くのを感じながら、もう何もかもが嫌になって思考を放棄した。


 涙で滲み不明瞭になった視界いっぱいに、誰かの手が映る。標的を変えた男たちの手だ。その瞬間に、「ヒサシを連れて逃げて」と言った母の最期の声が蘇る。生きなければ。反射的にそう思ったキリトは、その手に殺される前に払い、はじき返した。


 後は振り返らず、力なくうなだれるヒサシを抱えたまま全力で走る。背後で聞こえる怒号も、その中に交じる父からの罵声も全て無視して、ただ前だけを見て中立区域へと逃げ込んだ。



『畜生。あいつさえ、英雄さえいなければ』



 そう吐き捨てたのは目覚めたばかりのヒサシだった。その瞳の奥には膨大な憎しみが宿っており、幼く可愛かったヒサシの面影を掻き消してしまった。――英雄さえいなければ東西の分裂なんてしなかったし、家族が離散することだってなかった。あいつらさえいなければ、ずっと四人でいられたのに――。ぼろぼろと大粒の涙を流して叫びながら、キリトに取り縋って言うのだ。


 弟の恨み言を聞くキリトの心は、すっきりせずもどかしかった。


 英雄のせいで……と言ってしまえばそうなのかもしれない。ヒサシの言うとおり、あの黒猫が銃で無差別大量虐殺なんてしなければ、本格的に東西が割れることはなかったのかもしれない。けれど、直接の原因は違うんじゃないかとも思うのだ。「家族だから」という理由だけで信じて疑わなかった父に密告されたからこそ、母はあんな死に方をしてしまった。父がどんな気持ちでいたのかは、同居していたキリトにも分からない。


 家族の面会は、本当は迷惑だったのだろうか。だとしたら、どうして言ってくれなかったのだろう。考えれば考えるほど分からなくなり、血の繋がった身内の裏切りに傷ついたキリトは、この件以来すっかり疑心暗鬼になってしまった。他人に「冷たい人だ」と思われるようになったのも丁度その頃だ。別に、そう思われたって構わない。たしかに俺は、母を見殺しにした冷たい男なのだ。


「あの英雄さえいなければ」。そう思うのはキリトも同じだが、その程度はヒサシとだいぶ異なるようだ。キリトが憎んでいるのは銃の扱いと列島分断くらいのもので、捕まえて制裁を加えてやろう程度にしか思っておらず、殺してしまいたいと思ったことなど一度もなかった。


 自分たちよりもはるかに寿命が短く、ほとんどが二十代半ばで死んでしまう醒士たちは転々と代を変える。代が変われば性質も人格も異なるわけで、現に今の黒猫は、過激派と呼ばれている割には随分と温厚だった。それに、先祖の役割を引き継いでいるからといっても別に彼自身に何をされたわけでもなく恨む理由が見つからない。憎いのは龍驤ヒエラではない。先々代の龍驤キサラだ。


 ヒサシが提案したこの「計画」は、持ち込まれた当初は醒士皆殺しなどと大きな規模のものではなかったはずだ。だが内容を詰めていくうち、どんどん残忍で悪質な殺人計画になっていったのだ。


 ヒサシは「殲滅しようと約束した」ような口ぶりだが、そんな約束したことない。彼は脳内でシミュレートするうち、現実と空想の区別がつかなくなってしまったのだろう。こんな計画は受け入れられないと諫めても、要領を得ない発言を繰り返すばかりで思い直させることは終ぞできなかった。――代を変え、若い青少年ばかりになってしまった醒士らに何の怨みがあるというのか。憎いのは、先々代黒猫ただひとりのはずだろう?


 私怨で人の命を奪うなど、大組織の統率者がすることではない。第一、散々可愛がってきたキユラやアキナをこの手で殺すなんて考えられなかった。過激派の黒猫も白鼬も、東部軍にいる黒獅子や白狐だって、話が通じて利害が一致すればこちらに擁するつもりだった。こうして西部軍提督まで成り上がったのも、醒士を殲滅させるためではない。あの忌々しい銃を追放できるだけの権力を手に入れられればそれで良かった。


 キリトが弟との大きな違いに気付いたのはつい最近のことだった。大きく道を踏み外してしまった彼は哀れだったし、滑稽ですらあった。こうなってしまったのは俺の責任でもあるのだろう。あの件が父の裏切りである真実を認められなくて、有耶無耶にしてしまったせいで罪もない醒士たちを深く憎んでしまっている……。


 闇に堕ち、腹の底まで真っ黒く染まったヒサシを止めるにはどうすればいいだろう。キリトの頭の中は、ただそれだけで一杯だった。



          ※



 まだ未明の頃からあの廃墟を抜け、次の拠点になりそうなところを探し歩いていた……はずだったのだが、いつの間にか暖かい場所探しになっている。キユラはこのことに気付いていたけれど、ふらふらと日向を求めて歩くヒエラの後ろ姿を追った。


 畿内より東側は気温が低いから嫌だというヒエラの意志に従って、西海道に向けて進んでいるところだ。その合間にも拠点になりそうなところはあったのだけれど、もっと暖かいところが良いとヒエラがごねるので拠点探しは続いている。砂漠の暑さが丁度いいという彼が気に入る場所なんて、果たしてあるのだろうか。


 大人しくヒエラに従属するうち、嗅ぎ慣れた匂いを感じ取ったキユラはぴくりと反応する。甘さの中に感じる海の匂い……懐かしいな……と少し寂しくなったところで大変なことに気付き、歩を止め硬直した。俺にとってはいいことなのだけど、このあいだの様子から察するに他の人にとってはあまり良いことではないのかもしれない。どうしよう。キユラはひとり焦っていた。急に立ち止まったことと冷や汗を噴き出していることを不審がったのはツカサで、彼女はキユラの顔をのぞき込んだ。



「キユラさん、どうしたんです――」


「誰だ」



 ツカサが問い終わるのも待たず、ヒエラは誰も居ないはずの暗闇に問う。そうすると、整備を放棄された砂だらけの道の脇にある岩陰――元はビルという建物だったものだ――から人間が現れる。本当は、聞かなくても誰だか分かっている。この忘れたくても忘れられない独特な雰囲気は、これから奪取する予定だった女のものだ。



「私は五十二代白鯱の祥鳳アキナでございますわ、お見知りおき下さいませ、黒猫様…………!」



 問いかけられたのが嬉しかったのか、感極まった様子で名乗っている。探す手間が省けたのは嬉しいことだが、どうもこの女は苦手だとヒエラは思っていた。きっと悪いやつではないのだろうけど、できるだけ会いたくなかったと溜め息をつくヒエラとは対照的に、アキナは満面の笑みで息を荒げている。



「ア……アキナ……!」



 現れたアキナも軍服を着ていなかった。自分を探しにきてくれたのか、処罰しに来たのか、それとも自分同様、黒猫に惹かれてやってきたのか。恐らくは三番目が理由だろうが、キユラの気持ちは複雑だった。


 西部にはキリトがいる。誰よりも自分たちを気にかけ、大切にしてくれた兄や父のような存在だった。彼の束ねる組織にいれば、身の安全は確保できたはずだし、キリトを支えながら生き延びて欲しかった。どんなに厄介でも怖くても、愚図な自分にも根気よく付き合い、可愛がってくれた大切な『お姉ちゃん』なのだ。


 アキナが抜け出した理由は、黒猫半分、キユラ半分といったところだった。ようやく見つけた憧れの黒猫様にお仕えしたいという願望があったし、キユラのいない西部軍はつまらなかった。確かに西部軍は、醒士にとって安全なところだ。だがたった一人、守られながらぬくぬく生き残るのはプライドが許さなかった。


 だから、離脱を宣言してからここに来た。わざわざキリトに告げたのは、自分なりの礼儀だった。キリトは少し寂しそうな顔で「キユラを宜しく」と言っていたが、言われなくてもそうするつもりだ。それにしても……やはり黒猫様はお美しい……。



「ああ黒猫様……私はこの世に生を受けたときから、いいえ、それよりずっと前から貴方をお慕いしておりました。やはり眩しくって素敵だわ、こんなに近くにいられるなんて何て、」


「……ミズリ、代われ」



 延々と語りだしそうなアキナに、ヒエラは堪らずミズリに身代わりを要求した。失念していた。こいつ、よく喋るんだった――。眉間に皺を寄せながら引っ張られ、されるがまま前に立たされたミズリは、困り果てて苦笑いした。


 入れ替わった途端にアキナの目が冷たくなり、その光景にザンジは面白がって笑っている。それが気に入らなかったアキナはザンジをきつく睨んでおり、彼も負けじと彼女を睨んでいる。今にも開戦しそうな様子だったが、アキナの興味が逸れたと思うと、ヒエラもミズリも安堵せずにはいられなかった。



 全てを丸投げして第三者になったヒエラは、醒士たちの遣り取りを傍観していた。騒がしく、暖かく、眩しくて、そして懐かしい。あまり自信がないのだが、この六人が集まっているのが『現在』なのだろう。ミズリがいるのだからきっとそうだ。そう思うことにしたヒエラは、静かに目を閉じて大きく息を吸った。


 この騒がしさはミズリと二人で、過激派として列島を渡り歩いているうちには巡り合えなかったものだ。血腥い喧騒にはよく出会ったが、この緩やかな賑やかさには一度も触れなかった。煩いのは嫌いだが、これは嫌いではない。胸のあたりが暖かくて、全身の力を抜ける心地よさがある。安らぎなんてどうせ手に入らないのだと諦めていたが、案外そうでもないらしい。「別にあってもなくても」と思っていたが、一度知ってしまえばもう手放したくないものだ……。


――成程。初代がしつこいほどにこだわり、三代目が醒士再集結を心の底から望んだ理由はこれか。ヒエラはひとり、空を見上げて納得した。馬鹿らしく騒ぐ醒士たちを見ると、自然と顔が緩む……のだが、和やかにしているわけにもいかないらしい。明らかな悪意と殺意と憎しみを半径二キロ以内に感知したヒエラはやおら立ち上がった。


 誰だ俺の楽しみを邪魔するのは。そう心中で吐き捨てたが、誰が首謀者かくらいは知っている。なんせ何度も映像で見せられているのだ。もう始まってしまうのか。なんだか面倒くさいなあ。



「……ねえヒエラ、この辺に何かいるの?」



『敵』の気配を感じ取ったヒエラに、逸早く気付いたのはキユラだった。彼もヒエラに倣い、睨んだ先をじっとみている。ただ模倣しているのではなく、何かがあるのに気づいている様子だ。さすがは犬だと思ったけれど、それを言ってはいけない気がしてやめた。彼がしょんぼりする姿は好きだけど、とにかく今は。



「うぜえなぁ……」



 アキナがいる方、正確にはその近くにある瓦礫の向こう側を見透かしていたヒエラは、舌打ちしながら呟いた。本当に面倒なことになった。迫り来る軍隊に、予定していた進路も退路も断たれてしまった。


 身動きがとれなくなってしまったからこそ見た映像だったか。醒士たちの無残な死体が転がる映像を思い出し、ヒエラは眉間に皺を寄せた。戦力自体はこちらの方が上だが、こちらが六人なのに対して向こうは五千人数を超えている。数的に圧倒的に不利だったけれど、よくここまでの人数を集めたものだと感心している。それだけ世間が英雄たちの末裔を疎ましく思っているのか。いずれにせよ、両提督たちの人望の篤さが覗える。


 ヒエラが感心したのは一瞬のことで、すぐに気持ちを切り替えて前を見据える。五千人を相手にするのは骨が折れるが仕方ない。気は乗らないが、まだここで死ぬわけにはいかないのだ。


 ぎらついた殺意の理由を、理解するつもりはさらさらない。そもそも俺は、一個人の私怨をいちいち気に掛けるほど優しくもなければ繊細でもない。何せ黒猫は、二百余年分の怨念を押しつけられている。代を変えるごとに、年を重ねるほどに蓄積してゆく当て付けのような感情に、いちいち「死を持って償います」なんてしていたら黒猫の血は幾つあっても足りないのだ。


 邪魔をするものは全部撃つ。この在り方の結果が、これから起こる「英雄狩り」なのかも知れない。だとしても――みんなには申し訳ないが後悔はしていない。幾ら『彼女』が見せる凄惨な最期が真実であったとしても、それを大人しく受け入れてやるほど物分かりの良い男でもない。好きなことを好きなだけ、思うようにやってやる。これまで『英雄』として逃亡生活を余儀なくされ、意味不明な映像に縛られ、更には予言装置として酷使され、好きに動くことなんてできなかった。だから最期のときくらい……好きにさせてくれたっていいだろう?



 殺気の中に、ふいに小さな躊躇いが混在しているのを感じた。だがそれも、邪魔するものに変わりはない。まとめて吹き飛ばしてやろう。ヒエラは右太股のホルダーから、ライター大の手榴弾を取りだした。



「ちょ、ちょっとヒエラ! まずいってそれ、アキナが吹き飛ぶ!」



 安全ピンを引き抜き、今にも放り投げそうなヒエラを見たキユラは思わず声を上げた。彼の腕を抑えて制そうとしたが遅かった。すでにヒエラの手に手榴弾はなく、勢いを増して空を舞うそれは、カツン、と瓦礫の向こうに落ちていく。


 大好きな『お姉ちゃん』である彼女に死なれるのは嫌だ。寂しいし悲しい。本人は「黒猫様のお手にかけられるのなら!」なんて嬉々として言いそうだけれど、そんなこと俺が許さない。キユラは慌てて駆け出し、アキナの腕を掴み引きよせた。バランスを崩した彼女を抱きとめたところで大爆発が起こり、衝撃波を受けながらやり過ごしていた。


 砕ける瓦礫、轟く爆音の残響。それに加えて微かな呻き声と溢れかえる赤、飛び散る臓物、持ち主から離れて独り歩きを始めた手足……。この状況は地獄絵図と言っても過言ではないだろう。その後の惨劇を目の当たりにして、キユラは心苦しくなった。


 間一髪で助かった安心感はあったが、目の前の重傷者や遺体たちをみると手放しでは喜べなかった。戦争は嫌いだ。人が傷つくのはもっといやだ。なのに今、こんなにも沢山の人が傷つき死んでいる。どうして殺しあわなきゃいけないんだろう。キユラには、その答えが分からない。



「おいツカサ! いつまでぼさっとしてんだ、さっさと立てバカ!」


「っ……! なにするのよ、言われなくたって解ってるわよ!」


「解ってねえから言ってんだろうが!」



 ザンジはこの光景を見慣れているのか単に好きなのかは解らないが、これから起こる戦乱に期待してニヤリと不気味に笑っている。それに対してツカサは呆然としていて、気づいたザンジに蹴り飛ばされていた。それに憤ったツカサは、彼に怯まず文句を言う。いつも通りのけたたましい言い争いが展開され、さほど動揺していないように見えた。頼もしいことだ。擁護されてきたアキナやキユラとは相反し、東部軍で酷使されてきたこの二人にとって、こんなものは日常的なのだ。


 少し離れたところで佇むミズリは、表情をなくしていた。


 爪先から全身に抜ける、強烈な寒気を感じている。ついにあの「英雄狩り」が始まってしまった。だが、見た映像とは少し違う。前に見せて貰ったあれは――立場が逆だった。ヒエラが手榴弾を投げなければ、彼らのように惨たらしく絶命させられていたのは自分たちだったのだ。


 しかし、だからといって彼らの死を悼んで憂えている訳ではない。自分の身を案じてこの状況に安堵している自分が嫌で気落ちしていた。自己嫌悪というやつだ。自分たちを殺す相手が死んだことに喜んでしまった僕は堪らなく嫌なやつだ。この非常時に、こんなことを考えている。




「やってくれたな……黒猫……!」



 大量に転がる部下――もとい使い物にならなくなった手駒を踏みつけながら、怒り心頭のヒサシはヒエラに向かって真っ直ぐに駆けて行く。その目はカッと開かれ散瞳していて、ヒエラしか見えていないようだった。死体を踏みつけていたって、少しも気にならなかった。


 ヒサシの腕からは血が流れている。連れてきた「駒」が盾になったお陰で、自分自身は特に大きな怪我をせずに済んだが、先日のヒエラに作られた傷が開き、また新たに出来た傷から血が流れていた。その度、『英雄』に対する憎しみが溢れ出る。お前さえいなければ一家は離散せずに済んだ。母は死なずに済んだ。キリトと敵対することもなかった。全てお前のせいだ。必ず俺が屠ってやる。あのときの屈辱も、まとめて返してやる……!



「ヒサシ……!」



 ヒサシからかなり遅れて、後方をキリトが追う。その速さに距離が縮まることはない。キリトが遺体を避けて進む一方、ヒサシは構わず踏みつけて進んでいるからだ。転がる「駒」――誰よりヒサシの近くにいた、彼の盾になった側近兵を見る。ヒサシを心から慕っていた男だった。彼だけではない。この作戦に参加した東部軍人は全て、ヒサシを慕っていたのだ。


 キリトは、東部軍本拠地に行ったときのことを思い出した。敵である西部の提督を目の前にした彼らから感じ取れたのは憎しみなどではなく、ヒサシを護らなければという使命感だった。あいつもいい部下を持ったものだと感心し、側近の彼らに敬意も感じていたのに。そのヒサシが、彼らを蔑ろにしているだなんてそんな。キリトは彼に対する軽蔑と情けなさを感じ、恥じた。――弟よ、お前はそこまで落ちぶれてしまったのか……



 母が殺されたその日と同だった。怒りと憎しみに支配され、計り知れない殺意でぎらついた銀色の瞳。自分の目的のために多くを殺し、新たに多くの怨念を生み出す。ヒサシは今、自身が忌み憎んだ『英雄』と重なりつつあった。怒り狂い、それにさえ気づけなくなった唯一の肉親を哀れに思った。遺体を踏みながら駆ける彼の目には、残念なことに『復讐』の二文字しか見えていないのだ。



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