第四部 銃声
亜冷帯の夜は寒さが厳しすぎる。堆く積み重ねられた雪も、刺すような痛みを感じるほど冷え冷えとした北風も大嫌いだ。大体、氷点下ってなんだ氷点下って。俺は三十度以上の暑さが好きなんだ。下総の地に立つヒエラはぐちぐち文句を垂れながら、ザクザクと雪道を進む。こんなところ、緊急の用事でなければ来たりしない。吐く息の白さに、ヒエラは憂鬱な気分になった。
目の前に拡がる世界はひとつきりのはずだ。それなのに彼の目は、幾つもの映像を捉えている。特にはっきり見えているのは三つで、一つは氷河に覆われるだけの真っ白な世界。もう一つは暗闇の中に広がる雪原と、その奥に見える廃ビルの群。そして最後はハイテク技術で構成された都市だ。比較的温暖な気候で、たくさんの建物や人で賑わっていた。
どの映像が『現在』であり、実際に目の前にあるものなのか、言い当てられる自信はない。だが、きっと二つ目の暗闇こそが『現在』なのだろう。この痛いくらいの寒さが何よりの証拠だ。温暖な都市は大変に魅力的だったが、この極東にそんなものはない。都市といえるような場所は、数十年前に全て朽ちてしまった。
複数の映像が同時に見えるのは、物心ついた頃からだった。それが当たり前であり普通だと思っていたから、変だと思ったことは一度もない。だが大人たちが挙って「変だ」というから、まあ変なのだろうと思う程度のことだった。自分が生まれるずっと前にあったらしい出来事を事細かに話したり、近い未来に起こることを的中させたりしているうち、『この子こそが次代の黒猫』だと騒がれるようになってしまった。お陰で嫌いな大人たちに囲まれる生活になり、兄弟たちからも反感を買う羽目になった。
五人兄弟の末っ子のくせに跡取りになることが決まってしまったから、長兄からは特に嫌われていた。――末弟のくせに生意気だ。おれから地位を奪ったくせにぼんやりしていやがって。気持ち悪いんだよ、お前なんか……。彼はいつも言っていた。けれど今はもう、嫌味を言われることはない。反対を押しのけて無理やり五十二代目黒猫になった長兄は、襲名から僅か二ヶ月目で狩り獲られて亡くなってしまった。
変だという自覚はなかったが、日常生活への支障は大きく不便を感じていた。何しろ複数の映像が同時に見えるので、たった今、他人と共有している景色がどれなのかが解らないのだ。誰かに確認できればよかったが、一族の人間は「そんなこと知らなくていい」というし、兄弟とは不仲だったので教えてくれるはずもない。もういっそ、単なる予言装置になってやろうかと考えたこともある。それでも一人の人間として生き続けているのは、たった一人の『例外』のせいだ。その『例外』とは、自分と同時期に五十三代目となった白鼬の蒼龍ミズリだ。
黒猫と白鼬は二代目あたりから共同生活をしており、その関係で彼とは二十年来の幼馴染だった。気味悪がったり利用したがったりの親族たちとは違い、ミズリはヒエラを特別視しなかった。けれど聞けば教えてくれたし、音と映像に邪魔されてまっすぐに歩くこともできないときは、ヒエラの目の代わりにもなってくれる。毎度面倒をかけて申し訳ないと思っており、一生頭が上がらないなとも思っている。
ミズリがいない時は、『彼女』か『彼』が教えてくれた。彼らが誰なのかは知らない。実体はなく、ただ声と気配がするだけだ。前に「誰だ」と追求したことがあるが、有耶無耶にされて結局分からずじまいだ。彼らの気配はどこか懐かしくて、彼らの意志は自分の意志であるような気もしている。だからヒエラは、彼らを「自分の中に棲み付いたもう一人の自分」と呼ぶことにしている。本人たちも否定しないし、きっとそういうことなのだろう。
「寒……」
一刻も早く土佐に戻りたい。いっそ土佐に住み着きたい。砂漠の温度はヒエラにとって適温で、夜の寒さくらい我慢してやると思えるほど、昼間の砂漠は魅力的だった。ヒエラは生まれつき極度の寒がりだ。それはきっと『彼』か『彼女』かのどちらかが、俺に嫌がらせをしているんだ……。それ以外考えられない。
どうしてもこの寒さが気に入らず、拗ねながら道を進むが、そうしたところで気温は変わらない。虚しくなってついた溜め息は白く、再び憂鬱になってしまった。
何もこんな寒い夜に決行する必要はないと思うのだが、「今が良い」と『彼女』が駄々を捏ねる。こんなところに来た理由は、「白狐を捕まえてこい」と彼女が脳内で煩く喚いているからだ。だからこうして渋々来ている。それがなければ、こんなところなんか来るもんか。
大型の銃を扱うときの機動性重視で切り取った右袖の祟りか。さらけ出した右腕から体温を奪われていく気配を感じたヒエラは、歩く速度を上げた。この寒ささえ凌げれば何でもいい。早く本部へ辿り着かなければ。彼は猫のように、足音も立てずに暗闇へするりと消えていった。
※
「はあ……」
何だか物悲しくて寂しくて、ツカサはもう何度目かも分からない大きな溜め息を吐いた。広い演習場は、いつも誰かしら捕まえて大暴れしている誰かがいないせいで閑散としている。それが一層の物悲しさを引き立てるのだろう。だったらこんなところにいなければいいのだけど、だからといって自室に篭もれば、あれこれ考え込んでしまい憂鬱になる。どうして。どうしてザンジ一人がいなくなっただけでこんな気持になるのだろう。自分はこれほどまでに冲鷹ザンジという男に依存していたかと思うと、死にたくなるほど悔しくて恥ずかしかった。彼に恋慕しているなんて、絶対に認めたくない。
いっそ清々しいほど解りやすく、彼はこちらを疎ましく思っている。しかしそれは私も同じで、あんな慇懃で暴力的な男は大嫌いだ。しかしその大嫌いな男に不用意に近づいては、吐かれた暴言に傷つく自分がいるのも確かだった。そして極稀に頼られ、遠まわしに褒められて喜んでいる自分がいるのも確かなことだ。『嫌よ嫌よも好きのうち』という言葉に迫られては、何度完膚なきまでに叩きのめしたか解らない。貴重な初恋を、嫌いな男に捧げるなんて絶対に嫌だ。
東部軍ではたった一人の同類だったザンジが脱走兵となってから三日が経とうとしている。『提督の寵犬』が脱走したという話は衝撃的な出来事で、すでに軍内部に浸透している。しかし軍内部にこれといって何の動きもないのは、事実確認に押し寄せた隊員たちに、「ちょっと秘密のお使いに出している」とヒサシ直々に伝えたからだろうか。
彼の脱走を知るのは、ヒサシとツカサだけだ。はっきりとは言わなかったが、黒猫を追っていくつもりなのだろう。あの日帰還してからの様子の可笑しさが、そうなのだろうと予測させた。それよりも衝撃的だったのが、脱走直後に見たヒサシの目の冷たさだ。その銀色の目には、なにか良くない黒いものが蠢いていた。
――お前はそのままで良いのかよ。ここの提督は相当腹黒いぞ。お前だっていつ斬られるかわかったもんじゃない――。
三日前に聞いた、ザンジの言葉を思い出す。あの時は『絶対にそんなことない』と思っていたが、あの目を見たあとだと『本当のことかも』と思ってしまう。もう、なにが本当なのかわからない。一八五年の歴史を持つ、第五十二代白狐の称号を拝命したくせして、こんな小さな判断もつなかい自分が嫌になる。いやだ。だめ。わからない。なぜ提督様はあんな嘘をついたのか。あの目の真相は。脱走は黙認か、或いは黙殺か……。
「お前が白狐だな」
ぐるぐると考え込んでいる間に、聞き覚えのない低い声が鼓膜を震わせた。頭を抱え、丸めていた背がびくりと跳ねる。気配も足音も全く感じなかったのに……一体いつの間に入ってきたのだろう。視界に人影がないということは、背後にいるということか。
恐る恐る、様子を伺いながら十分に警戒しつつ背後を見た。そこにあったのは長身で黒髪の男で、特徴だけ言えばザンジと同じだ。だが実際に見ると真逆で、ザンジが動なら彼は静だった。見覚えはないがどこかノスタルジックな気持ちになる彼は、絶対に黒猫だという確信があった。自分の中の獣性が、奥底の記憶が、そう叫んでいる。
「黒猫……!」
酷く寒そうにしている紅い目が、声に反応してツカサを捕らえた。確かにこちらを見ているが、ただ「視界に入れている」だけな感じが否めない。一切の関心が見えない虚無な目に背筋が凍ったが、ここで斃れる訳にはいかない。袖に仕込んでおいた呪符とナイフを取り出して臨戦態勢に入ったが、彼の態度は変わらない。表情筋を少しも動かさない鉄仮面が、ただじっとこちらを見ている……。
「来い。来ないと死ぬぞ」
ヒエラは一方的に言い放つと、意見は一切聞かずにツカサの腕を掴んで歩き出した。
ツカサは何一つ理解できない。それもそうだ、「来ないと死ぬ」なんて急に言われて、はいそうですかと従えるほど無垢ではない。これはどういうことだ? 来なければ殺すという意味か、ここにいれば殺されてしまうということか。両方とも十分に有り得る話だ。
それにしても、急に現れて勝手にあれこれ決めるだなんて何て横暴なのだろう。黒猫といえば未来を予知できる一族だと言われているけれど、だとしてもこれはあまりに酷い。ザンジといい黒猫といい、長身で黒髪の男は身勝手だと決まっているのだろうか。
「ちょ、ちょっと! 待――」
「君からここへ来てくれるとは……思ってもいなかったよ」
文句の一つでも言ってやろうと口を開いたとき、よく慣れ親しんだ声を聞いた。しかしすぐに違和感を覚える。聞き慣れていたのはその声質だけで、色も温度も全く違う。冷たくて禍々しくて、なんだか知らない人のようだ。
さっき見た目の中の「黒」と、ザンジの言葉が脳内に反響する。黒猫の虚無な瞳に感じた以上の寒気に襲われ、全身が震えているのがよく分かる。こんな姿を見たら、きっとザンジはまた「役立たず」と怒鳴るだろう。白狐は接近戦が苦手だ。遠く離れた相手を術中に落とす戦術が主で、相手を間近に感じる機会が少なかったからかも知れない。どうも気迫と殺気を目の前にすると、脱力してなにもできなくなってしまう。
ヒエラに腕を掴まれたまま、ツカサは膝をついて崩れ落ちた。誰よりも敬愛していたはずの大和ヒサシを、直視することはできなかった。――提督様。今まで私が信じてきた貴方は、ただのつくりものでしかなかったのですか……
「ツカサ、君も僕を裏切るのかい? あの子と同じように」
ツカサは顔を俯けたまま、動くことができなかった。これまでは大好きな提督様のために何でもしてきたけれど、今はとてもそんな気分になれない。切なげな声を出しているが、本心はあの子――ザンジの裏切り行為を残念に思っていないはずだ。もし本当にそう思っていたなら、なぜザンジを追わなかったのだ。結局のところ、あれは黙認などではなく黙殺である。裏切ったザンジを軽蔑し、はじめからなかったかのように振舞っていたのだ。
お遣いなんていう嘘は、醒士を野放しにした責任から逃れるためなのだろう。一度考え出すとぼろぼろと綻びだし、隠されてきた裏側や多分に吐かれた嘘に触れるたび、ツカサの心は苦しくなっていった。私は彼に利用されるだけの駒。その事実が心を蝕む。
「お前こそ。こいつら裏切ってるくせに良くそんなことが言えるな」
――今だって、こいつを殺すためにここに来たんだろう。隠してある「それ」で。胸のあたりを指先で叩きながら、ヒエラはまるでそれを見てきたかのように言い放った。その途端、ヒサシに張り付いていた上辺だけの笑顔がスッと剥がれていく。目の前のヒエラを見る目は何より冷たく、憎々しげだった。
ツカサがどうにか顔を上げた先には、能面のような顔をしたヒサシが立っている。淀み濁ったままの銀色の瞳のまま、ヒエラが指したあたり……軍服の胸ポケットから一本のペンを取り出した。
何の変哲もないペンに見えるが、いや違う、あれはペンなどではない。先祖たちが残した資料の中で見た覚えがある。スパイなどの隠密業務に就くものが愛用しているというそれは『禁忌』の銃だ。その先端は既にこちらに向いている。
「あ……ああ……」
ヒサシが柔らかく微笑んだあと、耳鳴りがするほどけたたましく、不気味なほどに乾いた銃声が響いた。聞きなれない破裂音は恐ろしくて仕方なかったが、それ以上に恐ろしいことが目の前で起こっている。目に映るのは、自分のすぐ横で、後ろへ仰け反り倒れゆく男だ。所持するだけで厳罰が下される最大の禁忌によって、人の命が奪われる瞬間だった。
「さよなら、ツカサ。お前は予想していたよりは役に立っていたよ。ザンジほどではなかったけれど」
撃ち終えたペン型の銃を捨てて拳銃に持ち替えたヒサシは、へたり込むツカサに銃口を向けた。その狭い穴からは、なんの命でも奪える金属の塊が飛んでくるのだそうだ。私もきっと、さっき斃れた彼のようになるのだろう。そう思うと肌は粟立ったが、不思議と心は落ち着いていた。――私は駒。唯の駒。いいように使われて、要らなくなったら捨てられる。こうなることは、もう随分前から決まっていたのだ。遅かれ早かれ、こうなる運命だったんだ――。
さよなら提督様。貴方に拾われて、私は一時でも幸せでした……。ツカサは観念して目を閉じ、終わりを待った。途端、伸びてきた腕に引き寄せられて後ろ側へ倒れ込む。本日二度目の銃声を聞いたけれど、痛みはなかった。驚いて目を見開いた先には男がいた。とうに絶命していると思っていた男だった。
「黒……猫」
あまりに衝撃的なことが起こりすぎて、頭が上手く回転しない。彼の口には銃弾が銜えられていて、頬には軽度の裂傷があった。「狙撃されればほぼ間違いなく絶命する悪魔の兵器」と伝えられた拳銃を相手にしていたのに、特に大きな負傷はない。
一発目は受け止めて、二発目は避けた。銜えていた弾丸を吐き捨て、ヒエラは頬の血を拭った。『視える』彼にとって銃弾を受け止めるなど容易いことだが、歯で受けたのは初めてのことだ。衝撃が凄まじく脳髄を痺れさすほどで、一時的にとはいえ失神してしまうという醜態を晒してしまった。できることなら二度とやりたくない。
避けることだって簡単な事だ。正しいことも間違ったことも、過去も未来も、全て『彼女』や『彼』が見せてくる。本当は両方とも手で受ければ良かったのだけれど、生憎くだらない理由で両手が塞がっていたのでそれは叶わなかった。右手はツカサの腕、左手は寒さゆえのハンドポケット。本当に、くだらない理由だ。
あまりに現実離れ、人間離れしたヒエラの行動に、ヒサシは呆然としていた。かと思えば物凄い剣幕でヒエラを睨み、再び銃口をこちらに向けている。更なる銃弾を浴びせ、射殺しようと試みようとしているのだろう。それだけの気迫と狂気が、今のヒサシにはあった。
「逃すか、黒猫……!」
「……」
けれどそれは、器用に拳銃だけを狙い発砲したヒエラによって阻止された。衝撃と強い振動に耐えきれず、彼の手から零れ落ちた拳銃は回転しながら床を這う。
「行くぞ」
憎々しげに吠えるヒサシの声を聞きながら、ヒエラはツカサを無理やり立たせて走りだす。引っ張られるままに後を追ったツカサは、一度も振り返らなかった。振り返ったところで、あの頃の優しかった提督様はもうどこにもいない。夜の下総は寒い。捨てられてしまって心も寒い。ただ掴まれた腕の一点だけが暖かくて、大声を上げて泣きたくなった。
でも泣いてはいけない。耐えろ、凌げ、押し殺せ。涙も絶叫も飲み込んで、大きく深呼吸した。あれこれ考えこむからネガティブになるのだという結論に至ったツカサは、あらかたの思考を停止した。
無心で走るうちにあっという間に暗闇に紛れ込み、慣れ親しんだ東部軍令部が遠ざかる。もうここに戻ることはないだろう。目の前にあるヒエラの広い背中を見ながら、まるで他人事のようにツカサは思っていた。
※
敵対する東部軍とは相反して、西部軍は早急にキユラの捜索にあたっていた。総動員しているのではないかというくらい大掛かりで、その光景は傍から見れば脱走兵の捜索というよりも、迷子になった子供を探しているようだった。
「キユラが戻ってこないとは……どういうことだ!」
「さあ。とうとう嫌われてしまったのではありませんか?」
お気に入りのキユラが戻らず終始落ち着かない様子のキリトに、アキナは素っ気なく返答した。すると彼は、この世の終わりを見たかのような絶望の表情をして、地に手をついてへたり込んでしまった。この親バカめ。日頃の仕返しのつもりで言った嫌味だったが、予想を遥かに超えるほどの効果にアキナは少し面倒くさくなった。
今は司令室の中でうろうろしているのだが、脱走が発覚したときには『俺も探しに行く』と言って聞かなかった。この極東に、本当に安全なところなんてない。『危険の多いところに提督が軽率に出歩くものじゃない、一番安全なここでおとなしくしていろ』とキリトに言ったのはアキナで、それから三時間にもわたる口論が続いた。お前はなぜそう落ち着いている、キユラのことなんてどうでもいいのか。激情して怒鳴るキリトに、アキナは心底腹が立った。――どうでもいいわけないだろう。
心配しているのはキリトだけではない。アキナも同じだった。自分たちが少し目を離した隙にいなくなってしまったのだから、後悔なんてしてもしきれない。アキナは表情があまり変わらないから、キリトは「薄情だ」と思ったのだろう。しかし残念なことに表情筋が堅いのは生まれつきだ。内心で言い返したアキナは、再びうろうろし始めたキリトは見ずに、大きく溜め息をついた。
この西部軍に入隊したのは五年前で、キユラと知り合ったのも五年前になる。彼は今年で三年目なのだけど、幼児期にキリトに拾われたたキユラは、入隊前からよく彼の傍にいた。その五年前に出会って以来、弟のように思ってきた彼のことが可愛いくないわけがない。人の心を簡単に奪ってしまえる愛嬌が彼のいいところだけれど、その分なにかと情緒不安定で、注意散漫なところがあるのも不安の種だった。その上とても怖がりで、泣き虫で、テンパると硬直して思考停止してしまうきらいがある。
「本当に……なにをしているのかしら、あの子」
甘々なのは重々承知しているが、一人で行動させるのは心許なかった。醒士であることを公表しても愛される彼だから、血統を理由に狩られるかも知れない……という心配はなかった。だが、その他の面での不安は多い。けれどだからといって過保護にしては、彼を苦しめ自尊心を傷つけてしまうだろう。もうキユラも子供ではない。きっとここではないどこかで、うまくやっているはずだ。彼が何かを決意したというのなら、それを『姉』が邪魔をする道理はない。アキナは『弟』の身の安全を祈りながら、遠い夜空を見上げた。
※
「回収完了だ」
ヒエラがツカサを連れて戻ってきたのは、二日後の夕方だった。もう二度とあんな所に行くものかと言わんばかりの口調でばっさりと任務完了を告げてすぐに、ヒエラは蝋燭の近くに蹲った。少しでも暖を取りたかったのだろうが、そんな蝋燭一本で温まれるのだろうか。ザンジはそう思ったが、本人はとても満足そうなので何も言うまい。
本当に猫のような男だ。薄ら幸せそうなヒエラを眺めながら、ザンジは思考を巡らせる。勇猛果敢、正義感に溢れ公明正大。尚且つ多くをまとめ上げるリーダーシップを持つという世間一般から見た英雄のイメージから、この男は完全に逸脱しているようだった。面倒くさがりで公平でもなく、完全に放任型でまとめる力があるとは思えないし、あってもしようとしないだろう。それに、勇猛果敢というよりも邪魔するものを容赦なく蹴散らしているだけなので、これにも当て嵌りそうにない。
このように全く英雄の匂いはしなかったが、救いを求める民衆からの支持は厚かった。「長兄に継承権を剥奪された可哀想な子」だという前情報と未来予知能力、閉塞的で鬱屈としたこの極東列島でも気儘な態度を取り続けている自由な生き様のせいだろう。
「また『彼女』が助けてくれたの?」
ヒエラの頬にある癒えかけの傷を見てミズリは問うた。またきっと、生死に関わる事案に巻き込まれたのだろう。けれど彼は、至近距離から狙撃されようが毒を盛られようが、いつもかすり傷程度で帰ってくるのだ。その度に言っていた。『彼女』や『彼』が助けてくれるのだと。
ミズリが問うた途端、ヒエラの表情が険しくなった。幸せそうに暖をとっていたが一変し、眉間に皺を寄せて渋い顔をしている。ヒエラの中に棲むという『彼女』や『彼』が何者なのかは知らないが、客観的にみれば姉兄のようだった――力関係は明らかに彼らのほうが上だ――。
『彼女』らはあれこれお願いしてくるらしいが、その内容が非常に面倒臭かったり危なかったり、ヒエラの不得意分野ばかりだと文句を垂れていたのも記憶に新しい。だから彼も嫌だと抗戦するのだが……その意見が通ったことは殆ど無いそうだ。この様子からすると、また『彼女』に競り負けたのだろう。ミズリはこれまでのことを思い出して、少し笑った。
「……別に助けられてなんかない」
そもそもあいつがこんな命令するから悪いんだ。妙に不機嫌に言うヒエラを見て「黒猫も拗ねるんだなあ」と親近感を覚えたキユラは、口元が緩むのを感じていた。にじり寄って隣に座ってみたが、彼が不快感を表すことも拒絶することもない。そのことに安心したキユラはへらっと笑い、ここに居座ることに決めた。
ヒエラは、今のこの状況に不満はなくほぼ満足している。こうして醒士たちを駆り立てている、一五〇年ほど前の先祖の願いがあと少しで叶おうとしているからだ。彼らの願いは、初代の血を引くもの全てを再集結させ、この英雄狩りを終わらせることだった。英雄狩りが終わるかどうかは別として、再集結まであともう少しのところまで来ている。
「……しかし面倒だ」
「何がだよ」
「鎌の女」
「……」
こちらの独り言に一々応じてくれるザンジに妙な懐かしさを感じながら答えると、彼は何やら嫌そうな顔をした。彼女に苦手意識を抱いているのは自分だけではなかったかと安心したヒエラは、再び蝋燭の火を見た。
醒士はまだ、全員揃っていない。残る一人はあの鎖鎌の女だ。回収に行くのは嫌だなあ、どうにか回避する方法はないかなあ、なんて考えてみたが、『彼女』が怒って煩いのでやめた。
「――ミズリ、そろそろ始まるぞ」
ひたすら蝋燭の火を見つめながら、ヒエラはなんの前触れもなく唐突に言う。少しの間きょとんとした様子でいたが、徐々に意味を悟ったらしいミズリの様子はみるみるうちに変わっていった。激しく動揺しているのは明白であり、瞳孔を収縮させている。
「始まるだって?! 前に聞いた時期よりもずっと早いじゃないか……!」
「別にお前が焦ったって仕方ないだろう」
慌てふためくミズリを窘めて、ヒエラは蝋燭の火を見詰めながら淡々と言う。未来なんて常に変わり続けるものだ。そう伝えたって、ミズリの混乱が解消されることはない。以前に見せて貰った《最悪の未来》を思い出して、熱烈な吐き気に襲われていた。
できるかどうかは不安だったが、あらゆる手段を使って、ヒエラが観ている世界を覗き見たことがあった。複数の映像を一度に脳へ流し込むだけでも大変な苦労だったが、その中でも一際エグかったのは、見せた醒士たちの終焉だった。ある人物らによって醒士が全滅させられ、それだけでなく無関係なはずの一般市民たちまで大量に死なせてしまう嫌な映像だった。
物心ついた頃から勝手に写る映像だったから、過激な暴力も、惨たらしい罵詈雑言も、無数の無残な姿の死体も、ヒエラにとっては慣れたものだ。だから別になんてことないと思っていたのだけれど、慣れないミズリにとっては完全なトラウマになってしまったようだ。
座り込んで俯き、手で顔を覆ったままのミズリが顔を上げる気配はない。なにが何なのか分からず、キユラは不安そうに、項垂れたミズリを覗きこんでいる。状況を理解できていないのはザンジもツカサも同じで、ミズリの悲観的な様子に当惑していた。どう切り出していいか分からず、気まずい沈黙が続いている。
――面倒なことになった。ヒエラは溜め息をつく。会話というものが苦手であるため、通訳役が使いものにならなくなると大変に困る。億劫だとかそんなのじゃなくて、なにを話せばいいのかがわからないのだ。
ヒエラは「今」が「どれ」なのかが分からない。ミズリはそのことを分かってくれているし察しがいいから、彼なくして会話は成立しない。ただの未来予知装置でいた幼少期は、それはそれで楽だった。ただ見えていることを垂れ流していれば、大人たちが拾って勝手に分別してくれる。だが今は違う。分別しながら話さなければならず、これがどうにもストレスだった。
「黒猫様、どうか教えてください。一体、これから何が始まるというのですか」
意を決して沈黙を破ったのはツカサだった。わざわざヒエラの前に正座し、姿勢を正して真っ直ぐに問う。その背後でこちらを見下ろすザンジの目も、隣にいるキユラの目も、説明を要求していた。
「……」
一体なにから話せばいいのだろう。ヒエラは考えあぐねていた。今一番大きく映し出されている抗争の像が、近いうちに起こる『英雄狩り』なのだろう。この内容をそのまま伝えれば良いのだろうが、そのための言葉がどうにも思い浮かばない。それにこの像が、本当に現代の英雄狩りであると断定できる材料も自信もなかった。
そうして頭の中がぐちゃぐちゃになると同時に、面倒くさくなって話す気が失せた。蝋燭の前で縮こまって眉間に皺を寄せていたが、それが拗ねているように見えたようだ。「何拗ねてやがんだ馬鹿、さっさと喋れ!」なんて物凄い剣幕でザンジに怒鳴られた。それに間髪入れずに反応したのはツカサで、「黒猫様に無礼な!」とザンジに掴みかかっている。
(煩いな……どう喋ろうか、いま考えてんだ……)
これもまた口にせず、心中のみで呟いた。思うだけで喋った気分になってしまうのは、もう癖になってしまってなかなか抜けない。ザンジの怒声に怯えて飛び込んできたキユラをわしゃわしゃと撫で回しながら、『彼女』に助けを求めてみた。しかし『彼女』もこれが一番の苦手分野だと、間髪入れずに断られてしまった。誰のせいで口下手になったと思っている。ふつふつと湧き上がる怒りを抑え、ヒエラは静かに口を開いた。
「気にするな。ただこれから、英雄狩りが始まるだけだ」
一斉に動作を止め、こちらを見る彼らの目は敢えて見なかった。英雄狩りの詳細説明は、もういっそしないことにする。言葉で教える必要はない。これから嫌でも、その目で見なければならないのだ――。
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