第三部 螺旋


「申し訳ありませんでした」


 あまりにふてぶてしく謝罪するザンジに、東部軍提督の大和ヒサシは苦笑した。誰よりも気性が荒く、プライドも人の数倍高い彼のことだ。心からの謝罪ではないのだろう。今の彼は少し機嫌が悪いようだし、悔しさや不満の方が大部分を占めているに違いなかった。任務を果たせなかった上に傷だらけで帰ってきたあたり、黒猫と対峙して敗けたのだろう。あのザンジがそんな状態で報告に来てくれるとは、彼も成長してきているということか。ヒサシは一人感心しながら、不貞腐れるザンジに向き合った。



「まあ、端から素直に捕獲してくるとは思ってなかったけどね」


「じゃあ何で俺を行かせた? ツカサのほうが良かっただろ。きちんと任務をこなす良い子なツカサのほうが」



 俺よりはるかに従順だし扱いやすいだろ。皮肉たっぷりで嫌味な言い方をしてみたけれど、この大和ヒサシという男は眉一つ動かさない。相変わらす穏やかに微笑んだまま、『あの子では全く可能性がなかった』と言い切った。



「あの子は確かに従順で操作はしやすい。だが力がない。柔軟さがない。もし黒猫と対峙したとしても、お前のように一戦交えたり言葉を交わしたりなんてしなかっただろうね。命令をしっかり守る子だから……。その点に関しては、自由奔放なお前を評価しているんだよ。それに強いしね。力も心も」



――嫌なやつだ。本当に、この男は。どれだけツカサに慕われ、絶対の信頼を寄せられているかを知っていながら、それには決して応えない。それでツカサが傷つこうがどうなろうがどうでもいいが、傷つけるために自分を引き合いに出してくるところが気に入らなかった。そんなことをするから、あいつは俺に突っかかってくるのだ。全く、面倒なことにしやがって。そうでなくても性格の不一致で啀み合うことが多いというのに。


『目的のためなら手段を選ばない』。この考えには賛同できるが、だからといって利用されるのは嫌いだ。それを知りながら巻き込むヒサシが、ザンジは少しだけ嫌いだった。


 この男はよく穏やかに笑んでいるせいか、温厚で優しい提督だと思われがちだ。だが実際は違う。使えるものは何でも使う非情で冷たい男だ。それを知っているのはごく僅かな親衛隊員とザンジだけらしかった。



「で、西側の動きは。これで大人しく向こうに捕獲されるのを見ていました、というのなら――」


「それはねえよ」



 微笑みを絶やして冷えた表情になったヒサシを遮って、ザンジは言った。西側には捕獲されていない。ゆらりと夕闇に消えていくのをこの目で見た。それに虫襖色の女は気絶させられていたし、もう一人の座敷犬も一緒に見送ったから間違いない――そういえばあの赤毛は、昔こっそり飼っていた犬に似ていた気がする――。


 あの女も大概だったが、座敷犬も随分と可笑しな奴だった。自分と同じ任務を請け負ってきただろうに、黒猫を捕らえようとはしなかった。臆病なようだし、黒猫の雰囲気に威圧されて何もできなかっただけなのかもしれない……と思ったところで、それは違うかと思い立った。なにせ彼は、俺から黒猫を守るかのように立ちはだかったのだ。


 ヒサシは「西側も同じ考え」だと言っていたが、そもそもそこが違うのかも知れなかった。過激派と呼ばれるようになった黒猫と白鼬を保護する目的で探しているのかも知れない。徹底的に骨の髄までしゃぶり尽くし、隷属させようとしている東部軍とは違って。



「そうか。では、未だに宙に浮いたままだと」


「ああ」


「……そうか……」



 いつもの気味の悪い笑顔とは違う、不適な笑みを見せてヒサシはにやりと笑った。黒猫が発した殺意でも、白鯱の女が持っていた狂気とも違う。これは完全な闇、自分がまだ見たことのない深く深く暗い「黒」。――呑まれる。そう直感して背筋が凍った。彼のその銀色の瞳の奥でのたうつ闇を、ザンジの本能は決して見逃さなかった。



          ※



「提督様……本当に、本当に、申し訳ありませんでした!」



 御丁寧に土下座までして、キユラは心の底から謝罪した。傍にいたアキナは立ったまま彼の土下座を見下ろしていて、提督の武蔵キリトは彼の土下座を止めさせようと床に膝をついてキユラの背中を撫でている。


 せっかく任務を与えてくださったのに。なんの成果も挙げられなかった。アキナはきちんと立ち向かっていったというのに、俺は怖がるばかりで何もしていないのだ。本当は土下座したって足りないくらいだ。



「良いんだよキユラ、そんなに気にしなくても。これはもともと失敗する確立の方が高かったのだから」



 そういって微笑んでくれたキリトの表情は、本当に暖かく優しかった。それとは対照的に、上から降り注ぐ視線は冷え冷えとしている。それは自分に対してではなく、この目の前のキリトに向けられていた。



「ここを纏める人間のくせして、よくもこんな分かりやすい贔屓ができるものね」


「……何を拗ねているんだ、アキナ。君の我儘だって許してやっただろう? 一体これのどこが贔屓だと、」


「贔屓だとかそんな話はどうでもいいのよ! キユラを猫かわいがりしたくなる気持ちは私だって分かるもの! 私が言いたいのは黒猫様のことだわ、何なの生け捕りにしろって! 黒猫様をなんだと思っているの、返答次第では貴方の首が飛ぶわよ」


「黒猫は醒士で、英雄側近で過激派だ。それ以外になにがある?」


「……っ!」



 そもそも贔屓の話をしはじめたのは君だろう、というキリトを、アキナはあのときザンジに向けたものと同じ目で睨んだ。鎌を手にしようとしたところを、居合わせていた数人に抑えこまれとても不服そうだ。だが堪えて貰わねばならない。彼はこの西部軍を統べる重要な人物だから、そう簡単に首を刎ねられてはたまらない。


 アキナには、黒猫捕獲命令についての話はしなかった。今回の捕獲命令は決して悪い意味ではなく、保護の意味が込められているのだとキユラは思っている。だがそれをアキナが理解してくれるか分からなかったから、今回は「生存確認のため、黒猫様に会いに行く」と言っておいたのだ。結果、今になって真実を知ったアキナが怒り狂っており、キユラの思惑通りにはならなかったのだけれど。


 自分の選択は間違っていたのだろうか。そう思い悩む間にも、未だ正座したままの自身の頭上ではアキナとキリトの口論が続いている。これは入隊以来よくあることで、すでに西部軍本部の日常の一部なので誰も特に気に留めていない。彼らの声を聞き流しながら、心に思うのは黒猫と東部の黒獅子だった。


 すごく怖かったけど、敵同士だったけど、同じ空間にいるのが当たり前のような気がした。知らないはずなのにすごく懐かしくて、彼らが醒士だともすぐに分かった。なぜ? どうして? ……いくら考えてもわからない。



『また会いたいな……』



 考えるのはやめて漠然とそう思ったキユラは、二人の口論を遠くに聞きながら一人頷く。座敷犬を脱するのは、今かもしれない。彼は決心し、力強く立ち上がった。



          ※



「何しにきやがった。笑いに来たんなら、ただじゃあ返さねえぞ」



 肌寒い夜の下総で、廃ビルの壁に凭れながらザンジは冷たく言い放った。黒い空に浮かぶ月に注視したままで、人の気配がする方は見なかった。控えめに、遠慮がちに、もしかしたらなるべく気配を消すようにして来たのかもしれないが、無駄なくらいに洗練された第六感を持つ俺にそんなものが通用するはずがない。何故か気まずそうなツカサを見て、ザンジは苛立ちが募るのを感じていた。だからお前は駄目なんだ、詰めが甘くてしゃきしゃき動かねえから、あいつに見縊られんだ馬鹿。



「できなかったみたいだね、捕獲」


「だから何だ」



 強制的に会話を切ると、ツカサは少しムッとした。文句を言いたそうな彼女も意に介さず、ザンジは月を見続けた。会話を切った理由は、ツカサに絡みたくないのが半分、考え事に集中したいのが半分だ。あまり頭が良くなく、考え事は苦手だ。それでも考えなければならないことがある。そのためには集中しなければ。だからツカサよ、あまり重要なことでないなら話しかけないでくれ。本当は、そこに気配があるだけでも邪魔なのだ。


 黒獅子一族の独自ルールとして、『自分よりも強い者にしか従わない』というものがある。提督のヒサシはそれに当て嵌まるかと考えたが、実際そうではなかった。多少の恩義はあるけれど、畏怖しているわけでも心酔しているわけでもない。強いて言うなら、単なる「雇い主」だ。つまり今、自分がここにいるのはただ単純に利害の一致。最大級の敬意を示せる、隷属すべき君主とはほど遠い存在だ。


 ならば君主は誰かと考えてみると、思い浮かぶのは龍驤ヒエラだった。尊敬とか心酔とか、そんな感情は全くないがあの強さは別格だった。あいつになら従ってもいいかな、と漠然とだが思うのだ――あの時の俺は、奴に完全に負けていた――。


 ということは、彼は自分より格上だということだ。黒獅子の習性に従うなら隷属するに値する存在ということになる。それなら彼についていくべきで、ここに居残る意味などないのではないか。



「……俺はここにいるべきじゃない。昨日の時点で、俺はあいつに付いていかなければならなかったんだ」



 譫言のように呟くサンジの声は聞き取れなかった。いつもと違う、しおらしささえ感じる彼の顔をツカサは覗き込む。いつもならキツく睨まれ、殺気をまき散らしながら掴みかかってくるのだが今日はそれがない。視線を落としたまま考えることだけに集中しいて、こんな大人しいザンジは新鮮すぎて困惑している。少し気味の悪い彼から離れて様子を見ることにしよう……と移動しかけたところで、先程よりも若干はっきりした声での呟きが聞こえた。



「……俺、抜けるわ。今からここを出て行く」



 彼の言葉の意味は、すぐにはわからなかった。少し考えたところでようやく理解でき、信じがたい決意に眉間に皺を寄せた。前々からこの男は理解不能だと思っていたが、今回は特に酷い。何を思って脱走などという結論を弾き出したのか。


 初めて会ったときから薄々感じていたが、自分と彼とは決して交わらない、平行線を辿る運命にあるのだろう。分かり合えることは一生ないのだろうなと思うと、ツカサは少し寂しかった。



「どういうことよ、それ! 脱走兵にでもなるつもり?」



 ツカサは声を張らないように、ザンジだけに聞こえるよう諫めた。いつもどおりの規律、規律の生真面目さからではなくて、彼女なりの気遣いによる言葉なのだということは声色から感じ取れた。だが、些細な優しさに触れたという理由で進路を変えてしまうほど俺の意志は弱くない。その気持ちは受け取らず、乱雑に跳ね返した。


 やりたいことをやりたいだけやるという自分本位の生き方は、社会を重視するこの頭の固い女に到底分からないだろう。そもそも歩み寄るつもりもなく、互いに頑固者だという自覚もあるのだから、分かり合える日なんて未来永劫こないとザンジは思っている。


 ツカサのような保守的な生き方なんてきっとつまらない。自分の出生の不遇を嘆き拒み、見縊られないよう、飼育される今の立場を必死に守るための人生になんの意味がある? そんなの、体も心も腐ってしまいそうだ。


 醒士はほぼ全ての極東人に嫌われた外れものである。二百年もの長い間、追って追われて、殺し殺されを続けてきたし、きっとこれからも続くだろう。そんな人種が一般人と同じ生活を夢見たって、今更叶うことなんかないのだ。彼らにとって俺たちなんて、人間以外の生物でしかないのだろう。俺だって、俺のことなんか人間だと思っていない。


 今よりずっと小さいころ、この手で、なんの凶器も持っていない素手で人を殺したことがあった。逃げていく人を捕まえようと思って、丁度手を伸ばした先に頭があったから掴んだのだ。軽く力を入れただけで、その頭はぐしゃりと果物のように潰れてしまった。手からぼろぼろと崩れた脳が落ちていく感覚を、今でもよく覚えている。あれが初めて「自分は人とは違う」と認識した瞬間で、初めて人を殺した瞬間だった。あれ以来、戦闘以外で人に触れたことはない。


 だが例外もあった。昨日のことだが、うっかり撫でてしまったキユラの頭は弾けなかった。かなり驚いてはいたが、痛がる様子も内容物が出そうな兆候もなかった。きっと頑丈にできているのだろう。ツカサだってそうだ、今まで何度も掴みかかったが、その体が砕けることはなかった。


……だったら、醒士は醒士で共存していたほうがいいのではないだろうか。そんな都合の良い思いが脳裏をよぎる。同じ立場なら差別しあう可能性だって低いし、六人全員が固まっていれば、安易に狩ってやろうなんて思うやつもいなくなるだろうし。夢も希望も無限大だ。



「お前はそのままで良いのかよ。ここの提督は相当腹黒いぞ。お前だっていつ斬られるか――」


「提督様はそんな人じゃないわ! とても慈悲深いお方よ……!」



 声をひそめていた理由も忘れて、ツカサは声を荒らげた。今度はザンジが眉間に皺を寄せたが、そんなことはどうでも良かった。


 ザンジと相反して、ツカサはヒサシに心酔していた。彼女もその他の醒士同様、戦闘部族と蔑まれながら生きてきた。ザンジが思うとおり幻術だとか呪術だとか、そういう怪しげなものを扱う家柄ゆえの差別も含まれていたが、それを救ったのがヒサシだった。


 誰も触れようとしなかった自分に手を差し伸べてくれた。声をかけてくれた。そんな些細なことでも、傷つき憔悴しきっていた彼女にはたまらなく嬉しかった。こうして弱みに付け込んだヒサシは、簡単にツカサの信頼を得ることに成功した。以来、操作しやすい手頃な駒として働かされている。


 そのことに気づかないのか気づかないフリをしているのかは分からないが、余りに大きすぎる価値観の差にザンジは膨大な虚脱感を覚えている。人の価値観はそれぞれ違う。似てはいても、全く同じ考えを持っていることだってない。自分の普通と他人の普通も違い、人と常識の数は概ね同じだと思っている。自分は自分、他所は他所。価値観の違いなんて気にしても無駄だと、特に気にしないようにしてきた人生だった。だが今回のことには目を潰れず、軽蔑せざるを得ないなと思った。あんな腹黒をつかまえて「慈悲深いお方」だなんて、よくもまあ言えたものだ。お前の目は節穴か。第六感はなにも察知しないのか。だから……お前は駄目なんだ。


 もうなにも考えたくなくなって、傍に立て掛けてあった鉄剣を手に取って立ち上がった。――面倒なことにならないうちに出て行こう。暗闇の中、雪の残る道をざくざくと進み、東部軍本部に背を向けた。ツカサは足早に立ち去ろうとするザンジの腕を掴み抗議しようとしたが、その手は掴む前に、容赦なくはたき落とされた。すべてを拒絶されたような気がして、胸が苦しくなった。



「密告でも何でもしやがれ。俺は俺が思うように生きていく」



 丁度あのとき、一昨日の朝に出て行ったときと同じように彼の背中が遠ざかる。――待って、置いて行かないで。そうして手を伸ばしたところで、ザンジが振り返ることはない。虚しく空を掴んだ手は、行き場をなくして項垂れる。同じだと思っていた。ここにいる理由も、ヒサシに対する感情も。だから、あれこれ文句を言おうが彼はずっとここにいてくれるものだと思っていたけれど……どうやらそれは違うらしい。もう、ザンジの姿は見えない。ツカサは無性に心細くなって、泣きたくなった。



          ※



 こうした連日の遠出は初めてだ。再びあの砂漠に舞い戻ったキユラは、闇夜の中の砂を前に立ち尽くしている。改めて見ると大きな砂場みたいだな、なんて呑気なことを考えていられたのは最初だけで、今は砂漠の辛さを身に沁みて感じている。



「……さっむい……!」



 砂漠は暑いところだとばかり思っていたので、少し厚手のパーカーを一枚羽織っているだけだ。昼と夜とでは、こんなにも大きな温度差があるものなのか。夜の砂漠を侮っていたと、比較的軽装なのを悔いている。あまり動き回っても仕方ないので、民家の壁を借りて大人しくしようと思う。壁に寄りかかって座り込むと、途端にとても心細くなった。


 また黒猫や黒獅子に会えるかもしれないと期待してここまで来た。根拠はない。ただ初めて会った場所がここだったからというだけだ。またここで会える可能性はかなり低かったが、それに賭けるしかないのだ。


 これで二度と会えなければ、俺はまたひとりに逆戻り。もう西部軍には戻れない。誰にもなにも言わずに出てきたから、きっと向こうでは「醒士が脱走した」と騒がれている頃だろう。引き取ってくれたキリトにも、よく構ってくれたアキナにも、恩を仇で返すような真似をしてしまったのだから、戻るなんてできないのだ。



(いけない、こんなことで後ろ向きになっちゃ……)



 過ぎたことをあれこれ考えたって仕方ない。これは自分の決めた道。悔やもうが後ろめたい気持ちになろうが、このまま突き進まなければならないのだ。そうだ、他のことを考えよう。そういえば、他の醒士はどんな人たちなのだろう。数人とは接触したにはしたが、アキナ以外は僅かな時間すぎてよく知らない。知っているのは醒士であることと各々の称号だけで、年齢も出身もなにも知らない。そういえば名前も知らないな。今度あった時に聞いてみよう――



「……座敷犬?」



 覚えのある雰囲気を感じ取ると同時に、つい最近聞いたばかりの声がした。いつもなら『座敷犬』と言われると否応なしに気分が落ち込んでいるのだけれど、今回は気にならなかった。そんなことは重要ではない。声に反応して顔を上げると、すぐそこに長身で黒髪の青年がいた。



「くっ、黒獅子……!」



 予感したとおりの黒獅子で、俺の第六感は間違っていなかったとキユラは安堵した。彼も自分と同じく離脱してきたのだろう。軍服を身に着けておらず、合皮製の黒いフライトジャケットを羽織っていた。純白のマフラーと、妙に暴力的な印象を与える鉄刀には見覚えがあった。


 見知った顔――といっても一度しか会ったことはないけれど、とにかく知人に会えたことが嬉しくて、キユラは何にも構わずサンジに飛びついた。これでもう、俺はひとりきりではない。それが分かっただけで今は十分だ。改めて互いの素性を明かし、これまでの経緯を報告しあった。どうやらほぼ同じ理由で離脱してきたらしく、また無許可であることも同じだった。


 そうして近況と意見の交換はしたものの、これ以上はなにを話して良いかが分からない。もともと両方とも話し上手ではないので、互いが押し黙るのに時間はかからなかった。キユラは何か話したほうがいいのかとやきもきしたが、ザンジがそれを突き破ってくれた。


 何かを感じ取ったらしい彼が、袖に仕込んでおいたナイフを、手早く暗闇に投げつけたのだ。身近に起きた突然の行動に驚き飛び上がったのも束の間、その先で小さな悲鳴と何かが崩れ落ちる音がして、キユラはもう一度跳ね上がって驚く羽目になる。ザンジは足早に崩れ落ちる影へと歩き出し、遅れをとらないようにとキユラも急いでそれを追う。到着した現場で見たのは、地面にへたり込んだ性別不明の人間だった。


 青年のようでも少女のようでもあるような、とにかく不思議な雰囲気のその人は、呆然とこちらを見上げている。幸いにも無傷であったが――その手にはしっかりとザンジのナイフが握られていた。あの時の、黒猫のように。



「白鼬か」



 無表情なのにギラついた目をしたザンジを、キユラは隣で見ていた。それは湧き上がる感情を抑えこんでいるように見える。彼は見るもの全てに、なりふり構わずあの「黒」をぶつけているのだと思ったが、意外とそうでもないらしい。まずは話を聞いてから、ということもできるようだ、意外と。失礼かもしれないが、あのときのザンジは「誰だろうと構わず斬る」という印象しか受け取れないほどの狂気を持っていたのだ。


 押し殺して囁くような低い声を聞き取ったのか、白鼬だというその人は、ギラつくザンジとは対照的にふわりとやわらかい微笑を浮かべていた。



「君たちは……黒獅子と黒狼だね?」



 微笑と同じく柔らかい声は、思ったよりも低かった。中性的な声ではあったが、おそらく男性なのだろうと思う。キユラはそう思いながら、だらだらと冷や汗を流していた。その原因は隣のザンジだ。さっきの落ち着いた雰囲気とは一変して、あのときの「黒」を全身から溢れ出させていた。牙を向いて凶悪に笑い、目の前の白鼬を見下ろしている。


 ザンジの中では、笑みは肯定だった。それに否定の言葉も発さなかった。つまりこいつは白鼬で、白鼬と黒猫はゲマインシャフト。どちらかを見かければ、もう一方も近くにいる。つまり黒猫も……この辺りにいるということだ。あの時といい今回といい、難なく当たりくじを引くとはつくづく強運を持っているらしい。俺も、キユラも。



「ふふ、嬉しそうだね。ねえ、僕に付いて来てくれないかな? ヒエラを――黒猫を信じてみようと思うなら」


「ああ、行くよ。黒猫に会わせてくれるならな」


「俺も! 俺も行く!」



 突然発せられた狂気にも動じることもなく、彼は投げられたジャックナイフを畳んでザンジへと手渡した。暗闇の空の雲が風に流され、裂けた雲間から月明かりが差している。柔らかな光に照らされた金色混じりの茶髪に灰色の目を煌めかせる、可憐な少女のような顔立ちをした白鼬は彼らに背を向けて砂漠を歩き始めた。



 案内されたのは薄気味悪い廃墟だった。怖い、人ではない何かが出てきそうだ……いや待て、俺たちだって人とは違う何か別のものだから大丈夫か? キユラは恐怖と緊張で少し混乱しており、思考がごちゃごちゃしている。顔は強張り動きもぎこちなく、誰がどう見ても挙動不審だ。「これしきでなにビビってんだ」とザンジに無言で小突かれているのを見た少女のような青年は、キユラに向かって微笑み、優しい声で囁きかけた。



「そんなに警戒しなくても良いよ、通報したり襲ったりなんかしないから」


「通報なんかされるわけねえだろ。そいつ過激派だぞ? 自分が殺られるリスク負ってまで通報する意味も価値もねえよ」



 全く警戒する様子も遠慮する様子もなく、ずかずかと進んでいたザンジは彼を振り返って言った。本人の前で堂々と言い切る様は、無礼を通り越していっそ清々しい。昨日から思っていたが、彼のこの毅然とした態度が羨ましかった。憧れの狼に必要なのがそれなのではないかと思うのだ。



「……その通りだね。そういうわけで僕たちは隠れてなきゃいけないから、大した明かりは点けられないんだ、ごめんね?」



 部屋の四隅に蝋燭を灯し、ザンジの嫌味に動じず穏やかに言った。



「ねえ、君たちも知ってるよね。一八五年前に世界を騒がせた、僕らの初代たちのこと」



 突然切りだされた話は、醒士の初代の話だった。一八五年前に、焼け野原になったこの国を立て直したとされている初代たちの話は、きっと誰もが知っているだろうと思う。


――この極東列島の危機を救うため、自ら『人間』を捨てて『兵器』となった青少年が十人。勝利こそ叶わなかったものの、彼らが国民に与えた勇気と希望は計り知れない。その功績を称え、人々は彼らを『英雄』と呼ぶようになった――


 小さい頃に飽きるほど聞かされる話だ。尤も、実史というよりもお伽話や神話のような感覚で言い伝えられているのだけれど。何せ今の英雄は英雄ではなく、狩りとるべき害獣扱いだ。彼らが初代と同じ『英雄』ではなく醒士と呼ばれているのも、英雄と害獣を分けて考えたいという思惑があったのかも知れない。醒士とは『獣に覚醒せし一族』という意味で、迫害から逃れるために末裔たちが獣の名に擬えた称号を使用するようになってから呼ばれるようになった。


 ただひとつの例外として黒猫は『英雄』のままだが、それはその一族が与える影響力が膨大であるせいだろう。(彼らの超越した身体能力が、初代たちに施された人体改造の影響だということは今や誰も知らない事実であった)



「初代と僕らは繋がっている……って言ったらどうする?」



 ヒエラがそう言ってたんだけど、先祖返り……っていうのかな。そう付け足した彼? の表情は、暗闇に隠れてよく見えない。


 それを聞いたザンジには覚えがあった。時々見る妙な夢の中で、ザンジは『煉』と呼ばれていた。初代黒獅子の名だ。なのに妙な一体感というか既視感があって、自分が『煉』なのかザンジなのか、その境界が曖昧になることがよくあった。もしかしたら、自分はザンジであり『煉』なのかも知れない。そう思うことがあるから、繋がっているということにもすぐに納得できた。


 見る夢は、煉の人生を追って行くだけのものだ。時間の経過は極めて早く、飛行機の整備をしていたかと思えばひたすら虐げられる日々を送る。そこから逃げ出すように裏社会に入って荒くれて、その更生目的で軍隊に入れられて……兵器として改造された。ほぼ毎日戦いに出て、墜とされて、大破したまま終戦を迎え、最後の親友と共に処刑される短い人生であった。お世辞にも幸福とは言いがたい人生を繰り返し見ているだけで、何を示唆しているのか見当もつかない。唯一わかることは、兵器になった後が一番楽しかったということだけだ。


 それはキユラにもいえることで、夢の中の兵器時代が一番楽しかった。このときの彼は『涼平』と呼ばれていた。これは初代白兎の名だ。彼はムードメーカー的な存在で、初代らの仲を取り持っていたようだ。その反面、他と比べて戦果を挙げられないことに酷い劣等感を持っていた。


 憧れの黒狼の性質とは凡そかけはなれているが、その劣等感には強く共感できるせいか他人ではない気がする。俺だって醒士で共同生活をしていたなら、きっと同じように思っていただろう。他の奴らは果敢に戦えるのに、俺は逃げるしかできないのだから。


 この夢を見ると、遠い一八五年前を思い出す。経験していないのに思い出すなんて可笑しな話だが、それ以外に言い様がない感覚だった。無作為に選別されたとはいえ、これまでの誰よりもずっと強く深く結ばれていた絆に無性に焦がれる。――また十人で集まることができたら、どれだけいいだろう。



「そういえば、まだ名乗っていなかったね。僕は蒼龍瑞吏、五十三代目の白鼬だ。黒猫の名は龍驤ヒエラ。君たちは……冲鷹ザンジと神鷹キユラで間違いないね」



 振り返った彼――ミズリは、笑顔のまま名前を呼ぶ。そういえば名乗ったか? と考えて、名乗っていない事実を思い出して眉間に皺を寄せた。何もかも見透かされているようで気味が悪く、底の見えない笑顔が不気味さに拍車をかけている。しかしこれも騒ぐことではないのかも知れない。『英雄』は全てを見透かす力があるとされており、過去も現在も未来も、すべて知っているそうだ。だから名前のひとつやふたつ、知られていても不思議ではない。



「戸惑ってるみたいだね。正直、僕も詳しくは解らない。ヒエラが言ってたんだ。はっきりとは覚えていないけど、十年以上前からね」



 繋がっているから、なんとしてでも会わなきゃいけない。また集結しなきゃいけない。ヒエラは幼少期からずっと取り憑かれたかのように繰り返しつぶやいていた。その時に、同じ代の醒士たちの名前も羅列していたのだ。当時を思い出したミズリは、ひとり苦笑している。ただそれを言うだけで、肝心の理由も詳しいことも教えてくれないのだ、彼は。もしかしたら彼自信もよくわかっていないのかも知れなかった。


 ザンジはミズリの言葉に、ひたすら眉間に皺を寄せている。醒士に関わる真新しい情報は全て、『自分はよく分からないがヒエラに聞いた』と言っている。これは非常に可笑しいことだ。代々、この醒士の全情報を握るのは『英雄』のはずだ。



「待てよ、何で全部黒猫発信なんだ。現代の英雄はお前のはずだろう」



 だとしたら、現状の把握はお前が一番できてるはずだ。全てを見透かして先を読むのが英雄なんだろう? 


 ザンジは、ミズリのアーモンド形した大きな目を見て真っ直ぐに問うた。いまいち理解できていないらしいキユラは、この際気にしないことにする。


 問われたミズリは、一時的に呆然とした顔でザンジを見上げていた。――僕は、この男のことを少し侮っていたのかもしれない。あまり頭を使わない人だと思っていたが、思ったよりもずっと頭の回転が早いようで、些細なことにもよく気づく。


 過酷な環境下で培ったものか、元からの性質か。暫し沈黙して、探るように見ていたのが気に食わなかったようだ。清々しいほど不機嫌になったザンジはミズリを睨み、訝しんでいる。それを毛を逆立ててフーッと唸る猫に見立てたミズリは、微笑ましいなと思いながら笑って言った。



「今の英雄は白鼬ってことにしてあるけど、本当は黒猫のままだ。英雄はヒエラ、僕は影武者だ」



 笑われたことで更に機嫌を損ねたザンジも、心配そうにこちらを見るキユラにも目は向けなかった。彼らのことを視界に入れないように揺らめく蝋燭の火を見つめるミズリは、どこか寂しそうだった。



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