第二部 黒猫様
「あぁ……黒猫様に……黒猫様に会えるのね……!」
「声が大きいよ、アキナ……」
黒猫様は寒さが嫌い、灼けるように暖かい砂漠を好むという彼女の言葉を信じ、半日かけて砂漠の街へ辿り着いた。踏み固められた砂の上は、なんだか歩きづらいとキユラは思った。
隣を歩くアキナは、感極まったせいか声を張り上げている。恐らく本人は気づいていないのだろうが、間違いなく喧しい。醒士だと一目でわかる西部軍の白い制服に、過激派の象徴である黒猫というワード。周囲の人がこちらに注目するのは当然で、その数多の視線が痛かった。
キリトの言うとおり黙って行きたかったが、それは無理な話だった。司令室を出てすぐのところで仁王立ちで待ち構えていたのは祥鳳アキナで、拗ねた表情のまま揺さぶられ問い詰められた。拗ねていたのは自分だけ弾かれたからか、弾かれたことに『黒猫様』を感じたからか。
理由が何だったとしても、面倒事は避けたいのでだんまりを決め込んでいたのだが……無理だった。次第に不機嫌になり、敵を仕留めるときと同じ散瞳した目で「吐くのと死ぬの、どっちがイイ?」なんて聞かれた日にはもう降参するしかない。あまりに怖くて悲鳴を上げたところで、司令室から駆けつけたキリトに保護された。アキナの様子に肩を一瞬震わせて、キリトが仕方なくアキナの同行を認めたのは、その後すぐの事だった。あの時の不機嫌さはどこへやら、今はご機嫌な様子で砂の上を歩いている。今、西部軍で一番強いのはアキナかも知れない。
「早く見つけないとね、黒猫様」
「そう! 黒猫様は艶やかな黒髪に美しい真紅の瞳という素敵なお姿をしているから、きっとすぐにわかるわ! 初代から代々受け継がれているという耳飾りと、日本刀を常に所持していると聞くわ。ああ、早くお会いしたいわ黒猫様!」
勝手に語り出すアキナには苦笑するしかなく、極力彼女を刺激しないように努めたかった。『特徴に「大きなマシンガンの所持」が抜けているよ』と心の中で訂正したが、そんなことは彼女にとっては大した問題ではないのだろう。禁忌の銃を持っていようが過激派と蔑まれていようが、黒猫様が彼女の神であることに違いないのだ。
移動に半日もかかってしまったせいで、今はもうだいぶ日が落ち、気温も下がってきた。アキナの扱いになによりも疲れてしまったと、キユラの肩は自然と落ちていく。いやいや、軍服を着てこんな情けない姿を晒すのはいけない。はっと慌てて項垂れた頭を持ち上げた視線の先には朱色が広がっていた。空を染めるその色は、周防で見るものとも、故郷の出雲で見るものともどこか違う。見慣れたものよりも赤を強く感じるそれは、ただ単純に綺麗だと思った。
その綺麗な朱色の中に、ゆらりと揺れる人影を見た。奥底の野性が疼く。強い獣の匂いを感じ取った自身が、攻撃的な『何か』に惹きつけられているのが良く解る。目分量でおよそ一八〇、長身の影が「煩い」と囁くのを聞きつけたキユラの体は、意志も関係なく動き出す。未だ惚気けるように喋るアキナを放って、影へ向かい駆けた。
※
今日はあの、厄日という奴なのだろうか。確実に敵意を持った何かがこちらに迫っているのを感じたヒエラは、意識を眠りから覚醒させた。
「あいつ、どこ行きやがったんだ……」
目覚めが悪い。その苛立ちを少しも隠さず、ゆらりと立ち上がった彼は舌打ちをした。ここは『彼』との約束の場所だから、言いつけを破りこの場を離れるわけにはいかなかった。たとえそれが緊急時であろうと、例外はない。一度でも約束を破れば、二度と会えなくなってしまう可能性がとても高かったからだ。
心底面倒くさいと思いながら一度ため息をついて、落としていた視線を上げる。その先には白があった。見慣れた柔和な白とは違う、生堅い白。それが軍服であると認知したヒエラは、やはり面倒なことになったともう一度だけ溜め息をついた。
視覚的には見慣れないが、匂いや雰囲気には覚えがあった。あれはきっと普通の人間ではない。奥底の本能がそう言っていた。微かな赤毛に、何故か見覚えのあるアーモンド形の瞳は菫色だ。警戒するでもなく威嚇するでもなく、ヒエラはただそこにいる彼を――瑞鳳キユラを見つめた。
一方のキユラも、民家の屋上に立つヒエラを見つめていた。細く長い影が、真っ黒だったそれが、徐々に色味を帯びていく。フライトジャケットのような上衣は土色で、軍袴のような下衣は鉄色。髪は黒くて目は赤で、アキナが言っていた特徴そのままの姿だった。
日本刀を提げ、縦に百センチ余り、横、高さ共に三十センチほどの大きなケース……恐らく『禁忌』の納められたそれを持ち上げながら、気だるそうに立っている彼は間違いなく黒猫だ。揺れをやめてこちらを向いた彼を見ながら、「ああ、彼が《英雄》なのか」とぼんやり考える。その瞳の赤は血の色なのかな。もっと近くで、じっくりと見てみたい……
「黒狼、か……」
急に称号を呼ばれたことに、キユラは跳ね上がって驚いた。無意識にふらふら近寄ろうとしていた足を止めて、彼に視線を向けた。途端、寒気が背筋を撫ぜ、その感覚にぞくりと全身を粟立たせた。
何も考えていないような、好意も敵意もない虚無だった赤い瞳は、一変して睨み付けるような鋭く恐ろしい目になった。黒くてドロドロした、なんだか禍々しい何かがその奥でのたうっている。その目とは対象的に彼の声は低く優しく、そして甘い。その差さえも、キユラには堪らなく怖かった。
――ヤバい、ヤバイよこれ。俺なんかが黒猫に敵うはずない。あれ、そういえばどうして彼は、俺が黒狼だとわかったのだろう? もういろんなとこで話題になってるのかな。黒狼は今や西部軍に飼われ、情けない座敷犬に成り下がってしまったのだと……。
キユラは半泣きで卑屈になりながら、もうひとつの「黒」を感じた。目の前の黒猫よりも遥かに黒く、禍々しく、ありとあらゆる敵意を集めて凝縮させたようなものが近くにある。嫌な言い方だが、穢れていた。目の前の黒猫から向けられる敵意よりも、未知のそちらの方が数倍も恐ろしかった。逃げ足くらいしか特化したものがない俺が、このどちらとも対等になれるはずがない。黒猫の方はどうにかすれば話を聞いてくれるかもしれないが、もうひとつの方は絶対に無理だ。そうなれば……結末なんて、じっくり考えなくてもよく分かる。
ギラギラした赤い目がこちらを見てニヤリと笑い、どこかの「黒」も着実に差し迫っている感覚がある。挟み込まれて逃げ場はなく、あったとしても逃げ切る自信がない。ああ、もうダメだ。詰んだ。ごめんなさい提督様。俺には黒猫の生け捕りなんてできそうにありません。まだ狼になりきれていない座敷犬には、難しすぎる任務でした――。
屋根からひらりと飛び降りたヒエラは、キユラのすぐ目の前まで詰め寄った。視線で牽制しただけにも関わらず、こんなにも怯えるだなんて予想外だ。気性の荒いものばかりの集まりだと思ったが、案外そうでもないらしい。
「俺を、殺しに来たか?」
目の前には、半泣きになりながらふるふると震える子犬――いや、狼が一匹。それを見ると胸の奥がほわっとして、ひどく惹きつけられた。ここのところ殺伐とした、惨たらしい景色ばかり見てきたせいだろうか。同じ醒士の男に「癒やし」を感じている。何かを可愛いと思うのはいつぶりだろう。そんな気持ちを抑えつつ意地悪そうに問うと、無言で大きく首を横に振り、否定の意を示した。自分と同じくらいの年頃なのだろうが、容姿といい仕草といい、何もかもが幼い彼はやはり子犬だ。本人に伝えれば怒られるかも知れないが、とにかく。
思い切り撫で回して構ってやりたいところだが、今はそれどころではないのだろう。負の感情が速度を増してこちらへ向かっているのを、ヒエラは強く感じていた。
先ほど感じ取った殺気が、目の前の子犬のものではないことくらい分かっている。そして彼が怯えているのは、自分が向けた敵意だけでないことも……。今にも降伏、服従しそうな愛くるしい座敷犬の頭を撫で回したいという欲望も抑えて、ヒエラは迫りくる殺意を受け止めた。
※
やはり、自分の考えはおかしくなかった。冲鷹ザンジは心の底からそう思った。挨拶代わりに勢いよく投げつけたナイフが、いとも簡単に受け止められるのをこの目で見た。しかも余裕綽々で、こちらなど少しも見ていない。背を向けたままの彼の手指には、ザンジが放ったナイフが挟まっていた。――奴こそが、俺の最高の喧嘩相手だ。ザンジは、震え上がるほどに歓喜していた。
ツカサなんて連れてこなくて正解だった。背後から刃物を投げつけるという無礼な態度を許さない女なので、手段を一切問わずに喧嘩したいザンジにとっては、この上なく疎ましい存在だった。呪術なんてものを使う奴が正々堂々だなんて可笑しな話だ。ザンジはそう思っている。
丸一日かけてここまで来たわけだが、土佐を選んだ根拠はない。直感というか本能というか、とにかく黒猫がここにいるという自信だけが無駄にあった。黒猫を仕留めるのは、この第五十二代黒獅子の冲鷹ザンジと決まっている。理由なんて、それだけで良かった。
ザンジは黒猫の隣に人影を見ている。小柄で細身でひょろかったが、だからといって見縊ってはいけない。白い軍服……あいつは、西の「醒士」だ――黒猫に近づこうとする人間なんて、過激派か醒士くらいのもんだ――。
「畜生、あれは俺の獲物だ……!」
一足先に接触された焦燥感と嫉妬心の両方を抱いたまま、ザンジは二人の元へ疾走した。黒狼なんかに盗られてたまるか。
※
自分には絶対に無理だ。キユラはヒエラに向けられた殺意の正体を見て戦慄した。時速百くらいあったのではないかと思うほどの速さで飛んできたのはジャックナイフで、今はヒエラの人差し指と中指の間に挟まっていた。しかも彼は、背後からそれを振り返りもせずに受け止めたのだ。……自分には、絶対に無理だ。ざっくりと背中にナイフが刺さった像と痛みを脳内に再生させて、キユラは身を竦めた。
ヒエラは捕まえたナイフを畳み、無言のままキユラに差し出した。それが受け取りを要求しているのだと気づくのに時間がかかってしまい、気付いたキユラは慌てて受け取った。なんの気もなしに目を落としたそれを見たキユラは青ざめた。黒い柄には、白い文字で『極東平和主義国 東部軍』と刻印されていた。
ざり、と砂を踏む音がして、キユラは再び肩を跳ねさせる。顔色一つ変えないヒエラの視線をたどると、そこに在ったのは長身で黒髪の青年だった。――「黒」だ。あの禍々しく、悪虐で横暴なあの「黒」の正体だと、キユラは直感で思った。
「あんた、五十三代目の黒猫だな」
先程の狼藉を詫びるでもなく、青年は慇懃無礼な態度で問うた。ヒエラは無言のまま、無感動な瞳を彼に向けている。それを肯定と受け止めたザンジは、歓喜でニタリと凶暴に笑う。そのあまりの攻撃的な雰囲気に怖気づいたのはキユラ一人で、ヒエラは眉一つ動かさなかった。
「俺は五十二代目の黒獅子だ。……なあ、俺と喧嘩しねえか。上には捕獲してこいと言われたが、それじゃあつまらねえ」
どうせそいつも同じ用件だ。ザンジはキユラを顎で差し、引き摺っていた鉄刀を肩に担ぎなおした。彼の空色と黄褐色の目がキユラを睨む。「これは俺の獲物だ」と主張せんばかりの眼光で、今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。けれど――それでは駄目だと、脳の奥で誰かが言っている。獲物として狙われた彼を置いて逃げるなんてしてはいけない。それがなんの役に立たなくても、だ。逸らしかけた目を止めて、真っ直ぐに彼を見据えた。気に入らない、というような彼の目は、更に威圧的になっていく。
「断る」
どちらかに捕獲されるのも、喧嘩をするのも、どちらも嫌だ。ヒエラはキユラの肩を掴み、下がらせながら口数少なく答えた。携えた刀を抜き、マシンガンをケースごとキユラに預けてザンジと向き合う。彼の思いどおりになってやろうという意志はないものの、徹底抗戦してやろうという意志はあるらしい。その赤い目は、闘争心でギラついていた。
一方のザンジはと言うと、一層凶暴な笑みを浮かべていた。――願いは叶った! 彼の頭の中は、その事実で一杯だった。口では「断る」だなんて言っているが、抜刀した時点でそれは成立している。ザンジの言う喧嘩とは『殺し合い』のことだ。立ちはだかる黒狼は邪魔だから、まずはそれを片付けてから黒猫にかかろうと思っていたが……その必要もなさそうだ。彼はヒエラの背後で、マシンガンケースを抱えて立ちすくんでいる。
がちん、と金属のぶつかり合う音に意識を引き戻されたキユラは、目の前で繰り広げられる荒々しい立ち回りを目の当たりにする羽目になった。ぐらりと体が揺れ、倒れそうになってしまったのは目眩がしたからか、マシンガンが重いからか。後者だと思いたかったが、前者であるとこは逃れられない事実だった。
争い事は嫌いだ。痛いし辛いし苦しいし、いいことなんて何もない。争いも武器も軍隊もなければいいのに。入隊三年目の戦闘担当兵士が、こんなことを言うのはおかしいのかも知れないけれど。
彼らはきっと、醒士として生まれたことを嘆いたこともなければ嫌だと思ったこともないのだろう。あの「黒」の青年はすごく楽しそうにヒエラを叩き斬ろうとしているし、ヒエラも『断る』と言っていたわりには楽しそうに刀を振るっており、目が微かだが笑っていた。
――好戦的なのは、醒士の最低限の条件なのだろうか。そう思うと無性に寂しくて、羨ましくなった。
俯いてぼんやりと落ち込んでいると、肉を打つ鈍くくぐもった音がした。視線を上げてみると、鳩尾付近を押さえて地面に膝を突いたザンジが見えた。すぐに顔を上げて前を見た彼は……苦しそうに息を荒げながらも笑っていた。
ザンジは、全身の血がざわつくのを感じていた。こんな感覚は二回目だ。一度目は大和ヒサシだが、その時とは比べ物にならないほどだった。この黒猫、もともと英雄の血筋というだけあって強い。他の醒士とは毛並みが違うというわけか。その動きについていけず、全てを見透かされたかのように躱されてばかりで腹立たしい。それでも……今まで感じたことがないくらい楽しかった。「もうこのままずっと続け」と願っているが、どれだけ願っても祈っても、それは叶わないのだろう。ザンジは、こちらから視線を外して何処かへ行こうとしているヒエラを見上げている。――逃してたまるか。
日本刀の柄で突かれた鳩尾の痛みを無視して再びヒエラに突っ込んでいく。振り下ろした鉄刀は、ヒラリと難なく躱された。勢いのある空振りの音だけが残され、ザンジは悔しさに舌打ちした。
「畜生……!」
体勢を整えて再び詰め寄ろうとしたが、右足に進行方向と真逆の向きに引かれて妨げられた。いい所を邪魔されて苛立ったまま違和感のある右足を見ると、鎖分銅が絡まっている。誰だ、こんなナメた真似しやがったのは。邪魔をするなと文句を言ってやろうと鎖を辿ると、そこには鎌を持った、虫襖色の髪をした女が立っていた。
「黒猫様に傷を付けようとする貴方は誰なの……! 許さないわ……」
自分や黒猫とは全く違うタイプの狂気を持ったこの女に、不覚にもザンジは怯んでしまった。それはヒエラも同じだったようで、ぴたりと動きを止めている。全く理解不能だったが、この女の頭が可笑しいことだけはわかる。俺も大概だが、こんな変わり者がいるんだなと二人とも面食らっている。
「ア、アキナ……」
これまであにないほどにひきつったキユラの顔から、彼女が彼の知り合いで、至極面倒な女なのだろうと判断した。当の本人はというと、ザンジの足に絡めた鎖分銅はそのままにして、お慕いする黒猫様ににじり寄っている。本当はガッと飛びつきたいのだろうが、それをしないのは彼女なりの心遣いか。どちらにせよ見ず知らずの人物に好意を寄せられるのは気味が悪いことに違いはなく、遠目で見ても分かるくらいにヒエラは困惑していた。
「……おい、何だあれ」
ザンジは絡みついた鎖分銅を無理矢理解き、すぐ近くで項垂れるキユラを捕まえて問うた。律儀にヒエラのマシンガンケースを抱えた彼は力なく頭を上げ、今にも泣きそうな顔をザンジに向けた。敵対している相手なのに全く憎める気がしないのは、全身から惜しみなく溢れさせている愛嬌のせいだろう。ヒエラ同様に撫で回したくなるのをぐっと押さえ込んで、彼の回答を待った。しかしこいつは、本当によく泣く男だ。
「同じ西部軍の、祥鳳アキナ。多分なんとなく分かってると思うけど、白鯱の末裔だよ。……ちょっとっていうか、なかり? っていうか。黒猫様が好きでしょうがない人でね……黒猫絡みになるとどうも……見境なくて……」
そう言った後、キユラは大きく溜め息を吐いた。視線を上げてアキナを見た彼に倣い、ザンジも「アキナ」という虫襖色の女を見る。必死に躱そうとするも詰め寄られ、逃げ場をなくして戸惑っているヒエラを見て、ザンジはその対象が自分でなかったことに心底安心している。
それにしても、彼はアキナに相当苦労させられてきたらしい。怖がって震えていたのも忘れ、がっくりと項垂れている。同じ醒士だからと、正確や価値観の相性を無視して組まされるのはどこも同じなのだろうか。彼ら二人に自分とツカサの関係を重ね合わせ、深く同情したザンジは彼の頭をぐりぐりと撫でた。
キユラが驚いて跳ね上がったのと、アキナが散瞳した冷たい目を向けて振り返ったのはほぼ同時だった。その目は真っ直ぐに、ザンジを見ている。
そういえば、あいつに完全に敵とみなされているんだったな……。それはヒエラを殺そうとしたからか、キユラに気安く触ったからか。でもまあ、そんなのはどうでもいいことだ。気に入らないのはこちらも同じ。邪魔をする奴は誰だって蹴散らしてやる。
「貴方、黒猫様に害のある男のようね。私が貴方を片付けて差し上げるわ」
「ハッ! 馬鹿言うんじゃねぇよ。片付けられんのはお前のほうだ。俺の邪魔をする奴は誰だろうが許さねぇ!」
手に持っていた鎌を引き、地面に放置されていた鎖分銅を綺麗に手中に戻したアキナの目は、何だか真っ黒くて正気ではなさそうだった。――黒猫絡みになると、どうも見境なくて――。キユラがあのとき、溜め息を吐いていた理由が良く分かった。だがそれもどうでもいいことだ。まずは、目の前の女を仕留める。ザンジは鉄剣を握り直し、アキナと向き合った。
「面倒くせぇ……」
ヒエラは小さく呟いたあと、今にも鎖分銅を振り回しそうなアキナの背後に素早く詰寄り、刀の柄尻で力強く首の根元を叩きつけた。「ぅぐっ」と呻いていて意識を手放し、ぐらりと崩れ地に伏せるのを、ヒエラは無感動に見下ろしていた。
キユラは声にならない悲鳴を上げ、ザンジは突然のことに唖然としている。その結果しんとした静寂が生まれ、なんだか気まずい雰囲気になってしまった。――選択を誤ってしまったのだろうか。そう思うと申し訳なくもあったが、同時に少し嬉しかった。望んでいないとはいえ未来まで見えてしまうこの体質では、この先に何が起こるのか簡単に分かってしまう。だから、想定から外れた進路に突入すると、何が起こるか分からなくてソワソワするのだ。
なにかごちゃごちゃ喚いているザンジの声を聞き流し、収束しない事態も放置して空を見る。ひとりだけほわほわした気持ちで見た、沈みかけた夕日は燃えるように赤い。その中に、ずっと待っていた『彼』の姿を見た。何か困ったような、また諫めるような表情でこちらを見ていた。――そもそもこうなったのは誰のせいだと思ってんだ、お前が俺を待たせたからだろう……。すぐにでも愚痴ってやろうと「すぐに行く」と視線で伝えたヒエラは、刀を鞘に収めて踵を返す。
「おい待てよ、まだ終わってねぇだろ……!」
不満そうに言うザンジを放っておけず、立ち止まって振り返る。「まだ終わっていない」。そう思うのはこちらも同じで、まだ決着のついていない面白い勝負をそのままにしておくのは口惜しい。それに……彼らがいると、少しだけ暖かい気がする。理由はわからないけれど。とにかく安心するような、そんな気持ちになれる気がしているのだ。
「何も言うな。次に会うことがあって暇だったら続きをやろう」
絶対だぞとがなるザンジに、今度は振り返らなかった。「……それって気が向いたらってこと?」と独りごちるキユラからマシンガンを受け取ろうとしたとき、不意に顔を上げた彼と目があった。
がっちりと目が合ったまま、キユラは動けずにいた。怖いとか辛いとかそんなのではなくて、ただただテンパッていた。こんなときはどうすればいい。何か話したほうがいいのかな? 慌てふためいたまま赤い目を凝視していると、彼は困ったような目をしてしまった。
「じゃ、じゃあ……またね!」
アキナや数少ない友人へそうするように、ぎこちないながらにへらっと笑ってつい言ってしまった一言だった。――とんでもないことをやらかしてしまったかもしれない。黒猫様相手に……馬鹿か俺は。
だが今更悔やんだって後の祭りだ。過ぎたことを改訂することなんて、どうあがいてもできないのだ。思わずああ言ってしまったのは、ヒエラの目が、少し寂しそうだったからかも知れない。これも自分の勝手な思い込みなのかも知れないけれど。
ヒエラはふわりと微笑み、すぐに視線を逸らした。その称号の通りの身のこなしでひらりと猫のように夕闇の中に消えていったきり、彼の気配は感じなくなった。
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