第51話

 小さく、レフの背が跳ね上がっていた。

 とたん動きを止めたのは、あれほど激しくもみ合っていた二人共が同時となる。

 やがて監督の上からゆるゆると、身を剥がしたレフがどうっ、と床へ身を投げ出した。仰向けになった胸の動きが尋常になく、目にして百々は息をのむ。

 入れ替わりと監督が、ゆっくり身を起こしていた。その顔には表情というものはまるでなく、握られた短銃の口だけが静かに煙をくゆらせている。

 フリーズ。

 床下からハートが飛び出して来たのはその時で、真正面に銃をかまえたポーズこそコンバットシューティングか、監督を指して制した。おっつけ搬入口から警備員が、警察官が駈け込んで来る。次から次へとブラック監督の背中へ飛びかかってゆけば、光景は監督が招待客であることを忘れたかのようで、その通りと拘束された手の中から短銃は毟り取られていた。

 見届けたハートがレフへ回り込んでゆく。屈み込むなり上着を、白いドレスシャツを払いのけていった。

「だから一人、飛び出すなと言ったッ」

 怒鳴る声は百々へもじゅうぶん届いていたが、何もかも、どれもこれもがうまく頭の中へ入ってこない。

「……触るなヒビく。……折れた」

 どうにか出したレフの声も、だからして聞こえてはいなかった。

 それでも手を止めずハートは最後、現れた防弾ジョッキの空いた穴へ指をかける。掴んで開かせたレフの口をのぞいたところで、ようやくせり上げていた肩を下ろしていった。

「安心しろ。肺にも損傷はない」

 口ぶりは、まったく、と言いたげだ。

「おかしいと思えばこれか。胸に二枚も仕込んでいたとはなッ。自分のことを知っていて何よりだ」

 見上げるレフの顔は今や白いを通り越して蒼く、それでも薄く笑って返すあたり相当の負けず嫌いといえよう。だからこそ付き合わされて冗談じゃない、ハートはその肩をわざと強く押しやる。

「ちょうどだ。そのままここで痛がっていろ」

 反動をつけて立ち上がれば、揺さぶられたレフはなおさら顔を歪め、ハートはブラック監督の元へと去って行った。

 かたや式典会場は忽然と姿を消したブラック監督にざわついている様子だ。当然だろう。当の監督はバックヤードの冷たい床からこうして引きずり起こされている。そんな監督には舞台挨拶で虜になった魅力も、エントランスで垣間見た凛々しさも、もう何も残されてはいなかった。魂の抜けた痴呆の人と、脱力するまま抱え上げた警官の間にぶら下がっている。

 目にすればするほどだった。作品に覚えた感動も、共に過ごしたわずかな時間さえも、百々の中から剥ぎ取られてゆくようで耐えられない。目の前でレフが撃たれたところなら、なおさら気持ちに整理などつかなくなっていた。

「どうして……」

 あの日と同じだ。誠実でいたいからこそ思いはもう止められない。

「どうしてこんなこと、しちゃうんですかぁっ」

 舞台挨拶で監督は、今も朗らかに観客たちへ手を振っていた。

「だって監督はたくさんの人が尊敬して、みんなの大好きな作品を作り出す、世界中の憧れの人なのにいっ」

 そして観客もまた、惜しみない拍手を監督へ捧げている。

 吹き飛ばして割れんばかりの声は、そのときバックヤードに響き渡っていた。

「SO WHAT! SO WHAT! SO WHAT!」

 それがどうした。

 監督だ。

 声の限りに繰り返す。

「びじねすデスネッ。ひっとサセルタメ。サセテイツカ、ジブンノエイガ、ジユウニトルタメニッ」

 両側で警官は振り回され、百々も打たれたように目を見開いていた。

「まーけてぃんぐ。りさーち。ワタシハ、ソノトオリ、スルダケ。すたんりーぶらっくノエイガ、デハ、ナイッ」

 日本語は両脇の警官たちには理解できない。わめく監督の頭を、それきり力づく床へと押さえつける。監督の礼服は乱れ、双方の荒い呼吸音だけが交錯した。

「シル……、マスヨ」

 抵抗を諦めた監督の、視線だけが床から百々へと持ち上げられる。

「ワタシガツクル、ハ、スキ……ナイデスネ」

 潰された表情の中、あざけりだけが百々を射抜いていた。

 あの日のことは、だからそのとき百々の中へと蘇ってくる。

 好きに決まっている。

 思いを走らせた。

 なぜなら裸ばかりじゃなくていい。確かに百々は思ったのだ。ヒットのための横やりを、きっと好まぬその変更を、見抜いて好まぬものだと告げたのだ。だから「さんきゅー」と手は差し出され、互いは強く握手を交わしたはずだった。

「ヤリカタ、ワタシダケデハナイ。タクサン。ワタシタチハ、ドレイ。ダレノ

サクヒンデスカ? アナタタチダマサレテ、ダマサレテ、イルノデスッ」

 けれど本物のクリエーターなら悩み続けなければならなかったのですが。

 ふいにニヒルと水谷が笑ってみせた。

 ならば「作り手」が「創る物」とは一体何なのか。

 「受け手」が寄せる期待とは、果たして本当に「期待」だったのか。

「ウソカラ、カイホウスル。ワタシモ、ジユウニナルッ」

 過れば「バッファロー」は記憶の中でエンドロールを巻き上げてゆく。ナンセンス、と吐く観客の渋い顔は百々の前を行き過ぎていった。そのとおり「期待」を裏切る驚きなど、本当に裏切られて喜ぶ者はごくわずかでしかない。「受け手」の期待は「欲望」で、満たされこそすれ他に何も求めてやしなかった。だから作品は「受け手」に合わせて組み立てられると、誰もをこき使って金を吸い上げるだけの道具と回る。そこに作家など必要なく、期待という欲望を満たすための従順な奴隷がいればいい。

 信じちゃいけない。

 全ての喜びはあざとい企みだ。

 けれど。

 思いは残った。

 何しろ一度でもそうだと認めてしまえば「バスボム」がもたらした騒動に感動も、おかげで田所と対峙できた一部始終も、上り切れた嵐の夜の階段に、気づけたレフの殺伐ささえもだ。もてあそばれた挙句の勘違いとチリか霞にほどけてしまう。

 そんなこと、許していいはずがなかった。どれも勘違いで片付けられるほど些細なことでなく、一人では決してたどり着くことのできなかった、期待を裏切る驚きがもたらした真実だった。

 でなければ今、百々はここに立ってはいない。

「違いますっ」

 それでいいのだと思いたい。

 だから好き好きに期待を寄せる無数の「受け手」と、送り出されるたったひとつの情熱はいつだって繋がってゆけるのだ。

「監督は監督ですっ。わたしは嘘だなんて思っていませんっ」

 言葉が通じているのかどうかなど二の次だった。

「解放なんて余計なお世話ですっ」

 そのせめぎ合いにこそ、本物の魂は宿る。

「監督にはヒドイ嘘だったかもしれないけど、わたしには、わたしたちにはそれが本当だったんです。素敵な物語を、ちゃんと監督からもらったんですっ。監督だって見たはずです。でないとあんなにみんな熱心になれっこないっ。その、監督の思い通りじゃなくて残念なところもあるかもしれないけれど。でも、違ってても、みんなの本当を引き出したのはぜんぶ監督で。その全部が、全部がどれも、監督の作品なんですっ。そんなこと、やっちゃえるのはブラック監督だけなんですっ。一度にこんなにたくさんの本当を作っちゃう監督は。だから尊敬されるんですっ。だのに奴隷だなんて。勝手になっているのは。そんなヒドイこと言っちゃうのはっ……」

 やおらわなわな足は震えだしていた。

「騙されてる、なんて信じちゃってる、困ったっ、監督だけですぅっ!」

 吐き出せば肩は揺れ、押さえつけて百々はブラック監督を真正面と睨みつけた。見据えられて監督も、まるで豆鉄砲を食らった鳩と百々を見つめ固まる。

 かすかと、やがてその目が我を取り戻していった。

 百々へと確かに笑みを浮かべてたわんでゆく。

 それはかつてを取り戻してゆくかのようで、だからあの日と同じに鋭く放たれるザッツライト、を百々は心の底から待ち受けた。

 だが何も聞えてこない。

 緩んだはずの頬も瞳も、半ばで再び力を失ってゆく。

 それこそ嘘だと言ってほしくて、今こそ良く出来ましたと褒めてほしくて、探して百々はただ目を凝らした。

 見つけられぬままブラック監督は両脇の警官に体を引きずり上げられる。歩き出せば力の抜けた体はズタ袋だった。背中が搬入口へとなおさら小さくなってゆく。ベガスビッグビューイングから連れ出されていった。

 見送った百々目に、ブラック監督の消えた搬入口がやけに眩しく映り込む。

 滲むと目に沁み、避けて百々はうつむいた。

 靴先を必死になって睨むがそれもミラーボールときらびやかなら、いてもたってもおれずにきびすを返す。レフの傍らへ駆け込みその場に座り込んだ。前で浅い息を繰り返すレフはまったくもってらしくなく、様子に滲んでしみたそれは涙だとようやく気づく。だとして止める術などないなら、全てをぶつけて力の限りだ、百々はレフの体を揺さぶった。

「レフっ、死んじゃやだぁっ」

 ……いや、それこそ拷問だが知ったことではない。

 レフは短く呻き、様子に今にも死ぬんじゃないかと、百々はなおさら揺さぶる両手へぐいぐい、ありったけの力を込める。

「映画見に来てって言ったのにぃ。今度の新作、十八歳未満お断りなんだよぉっ。すごくエッチいんだよぉっ。絶対、見なきゃソンだってぇっ」

 だとして、そのために生死の境から蘇ったところで、どうも後が気まずくないか。というか自分を撃った相手の映画を見たがるものか。

「て、手を、離せ」

 理由はともあれ、かすかとレフも訴えた。

「死んだら見られないよぉっ。おばあちゃんに会いに行くのはまだ早すぎるよぉっ。もっと若くて、カワイイ子が泣いてんだよぉおぉ」

 聞こえず百々は声を上げ、たまりかねたレフの頭はついにそこで持ち上がる。

「勝手に殺すな。防弾ジョッキがある」

 百々の涙もそこでようやく引っ込んでいた。

「……そ、言えば、レフ。血、出てないね」

 眺めまわす、この間の気まずさよ。

 埋めてレフは頭を下ろしてゆく。

「骨が、二、三本、折れた」

「あ、れ?」

 首をかしげる百々に、お前は残念なのか、言いたかったろうレフはこう続ける。

「顔は、立てた」

「なに、なに言ってるのぉ?」

 脈絡こそつかめず、混濁するほど重篤なのか。百々はまたもや不安を覚える。

「待った」

 言われてようやく鉄扉前のことを思い出していた。あのときレフは確かに一度、身を引いたのだ。

「そんなこと知ってるよ」

「あれが、限界だ」

「もういいってば。人の気持ちはそんなに早く変わらないってタドコロも言ってたもん。何だかレフ、特に遅そうだし」

 と力説したところでレフが田所を知る由はなく、ただ痛みとは別にむっ、と眉間を詰めて返しただけだった。

 ストレッチャーと共に救急隊員がなだれ込んできたのはその時で、まるで落し物でも拾い上げるような具合にレフの体をストレッチャーへ移し替える。

「待って、あたしも行く」

 追いかけ百々は立ち上がっていた。

「残れ。英語を喋れんヤツがついていったところで何の役にも立たん」

 ハートの言いようにひたすらパクパク、空を食む。

 爆発物を隔離したストラヴィンスキーはそこで駆けつけていた。

「ストラヴィンスキー、ここを任せるぞ。ドドを預かれッ」

「はいはい、喜んで」

 指示に遠慮がなかったとして、貴公子の朗らかさはいつも通りだ。それでも追いかけようとした百々の肩へ手を添える。その場に押しとどめてみせた。

 表では救急車が、乗り込んだハートもろともストレッチャーを覆い隠してドアを閉めている。サイレンが鳴らされることはなかった。滑るように救急車もまたベガスビッグビューイングから去っていった。

 知らず式典は主役不在のまま進行中だ。スピーチのため舞台へ上がったナタリー・ポリトゥワやスタッフたちはだからして、奇妙な顔を向け合っている。ならかまうことはないだろう。爆発物をストラヴィンスキーへ預けたハナは、上がった舞台で彼女たちに代わり堂々マイクの前へ立っていた。

「みなさん、申し訳ありません。スタンリー・ブラック監督は体調不良のため、先に会場を後にさせていただきました。その、皆さんもご存じのとおり繊細で特別な方なので」

 肩をすくめておどけたなら、会場から緩く笑いは巻き起こる。

「その代わり預かった短いメッセージを、わたくしが皆さんへお伝えしたいと思います」

 静まり返る会場内に、その出所を疑う者は誰もいない。見回しハナも姿勢を正した。

「まず、この作品の制作に携わったすべてのスタッフとキャスト、愛する家族へ感謝を。そして私の作品を長らく待ち望んでくださった全てのファンの皆様へ感謝と敬意を表します。この賞をいただいたその後も、なにも特別なことは起きません。わたしはただ皆さんの心に残るような作品作りに、よりよい作品作りだけに励みたいと思っています。それまでの間、しばし充電期間をいただくことをお許しください。またいつか皆さんの期待に応えることのできる新たな作品でお目にかかれることを」

 かしこまっていた肩の力を抜いた。

「スタンリー・ブラック」

 添えて半歩、マイクから退く。

「以上です。サンキュー」

 会釈して返せば、割れんばかりの拍手は巻き起こっていた。それはあくまでも暖かく、穏やかなショーの幕切れだった。



 翌日。

 メイヤードの仮オフィスを訪れることなく百々は、待機の指示に従い帰国の途についていた。

 もちろん騒ぎから十二時間以上が経った今、どこかでリーダーが蜂起を促したという事実は確認されていない。準じた動きも認められず、少なくとも認識されている危機を免れたことだけは確かだった。

 アオザイ一式は支給品でホテルの部屋に置いたきりだ。誰とも別れの挨拶すらかわしていない。味気ない荷物を受付へ預け、空港まで送り届けてくれた乙部とのみ別れの挨拶を交わす。

 そうして気持ちの整理がつかぬまま巻き込まれたのは『20世紀CINEMA』のとんでもない騒ぎだろう。当然だ。「バスボム」は作品賞を取った。問い合わせや押し寄せる客は舞台挨拶なみで、復帰するや否やの毎日は壮絶を極めることとなる。

 仕切る水谷は冴えたものだった。一部始終もまた望んでいた通りの光景を作り上げてゆく。

 だが訪れた人々が満足の声をもらせばもらすほど、百々の中で戸惑いは膨れ上がっていた。その度にブラック監督の叫びは心の奥から蘇ると、複雑と絡まり百々から感動と興奮を薄れさせてゆく。

「すみません。お釣り、下さい」

 せがまれ我に返る。見れば「バスボム」のパンフレットを手にした客が、むっとした顔で立っていた。慌てて百々は小銭を拾い上げる。

「あ、すみません。お返しは三百円です。ありがとうございました」

 それら混乱から一か月後。客の去った百々の視界には在りし日のフロアがガランと広がっていた。カウンターにはいつも通りと社員の橋田が立ち、アルバイト仲間が乱れたロビーを片付けている。壁にはあの日の写真が飾られると、誰もが眩しいほどの笑みを浮かべた舞台挨拶の光景は、おどけたブラック監督のサインと共にフロアを見下ろしていた。

 誰もがあの日の監督を知らない。いや、知らなくていいのだと思う。それで夢は夢のままに。希望と勇気もそのままに守られる。

 胸に再び、百々は仕事へと戻っていった。



 抱いた思いは薄れることなく、さらに半月が経とうとしていた。しかしながらオフィスから連絡はこず、無駄に相手をさせるわけにはいかないと自重していた百々の我慢もそこでついに限界を迎える。

 それは早番上がりの日だ。百々は警察病院へ向かっていた。

 地下駐車場にワインレッドのワゴンがないことは、とうに知る事実だろう。だがあろうことかエレベータが塞がれているなどと、待っていたのは思ってもみない展開だった。

 以前からあったかのように置かれている消火栓を、信じられず百々はまさぐり続ける。おかげで立派な不審者に成り下がったとして、とがめてつまみ出そうとする者すら出て来ないのだから全ては決定的だった。

 百々をたずねて『20世紀CINEMA』へとある人物が訪れたのは、その事実に唖然としていた矢先のことだ。

「身分証と端末の回収、お預かりしました登録時の個人データ消去の立ち合いをお願に参りました」

 銀行員ではなかろうか。髪は真っ黒で濃紺のスーツを着た、間違いなく日本人の男が臆面もなく言う。

 支配人に開けてもらった控え室内、百々はテーブルを挟んで向かい合うと、そんな男へ嫌味でもなんでもなくこう口を開いていた。

「あたしは、クビですか」

 身分証とイヤホンの巻きついた端末を、そうしてつい、と男へ差し出す。手に取った男は身分証を脇へ寄せ、グルリ眺めた端末からイヤホンだけをほどいていった。

「こちらは、個人の所有物にあたりますので」

 なるほど確かにそれはレフからもらったものだ。何か大事な証拠のような気がして百々は両手で受け取る。前で男はカバンの中から数枚のディスクを取り出すと、こうも続けて百々へ言った。

「申し訳ありませんが解雇理由はこちらの都合としかお伝えできません」

 それは妙に納得できる回答で、あそこはそんな場所だろう。そして張りつくレフすら静養中なら、自分はこのまま切り離されるに違いないと拳を握った。

「こちらが個人データのマスターです。粉砕後のサイン」

 なら、どうしても確かめておきたいことはあった。

「あの。レフは、レフ・アーベンは、もう元気ですか。それだけでも教えてほしいんですけれど」

 作業の手を止めた男の顔は、とにかく素っ頓狂だ。挙句、こう言う。

「レフ・アーベンは、わたしですが」

 まさかと百々はソファの上で跳ね上がっていた。

「ち、違います。あたしが言っているのはうすらデカくてロシア人で、笑わないのに笑うと怖くて、タイミングも間違ってて、野っぱらで火を消す、マダムキラーの、チェブ見て泣く、乾布摩擦が日課のレフですっ」

 その形容詞がよほどおかしかったに違いない。向かいで男は小さく吹き出す。

「申し訳ありません」

 これも伝えられないことなのか。百々は眉を下げていた。だが作業を再開させた男の説明はこうだ。

「この名前は便宜上のものです。ですので今はわたしがレフ・アーベンです。交代したという事は、おそらく別の配属になったか退職されたものと思われます。それ以上は私のわかりかねるところです」

 あなた、思いっきり日本人なんですけれど。つっこめない。つっこめないほど肩から力は抜けていた。そんなことなど欠片も知らず、なら他のみんなも偽名だったのか、思いは過り、ひどい、そう呟く力も沸いてこなくなる。

 男はそうして取り出した携帯用のシュレッダーへ電源を入れると、派手な音を立ててディスクもろとも身分証を粉砕した。破棄したことを証明する書類へ百々にサインを求め、最後に作った覚えのない通帳を渡す。給与と言うが、そこに刻まれた数字は慰謝料のようでもあり、手切れ金のようでもあり、そして口止め料のようにも思えてならなかった。

 金額など問題ではない。突き返せば受け取れないと断られて、百々はその日のゴミと一緒にバックヤードのゴミ捨て場へ捨てている。悔しいような、さみしいような、それはひどくみじめな気持ちだった。気づけば流れていた涙を、拭って更衣室へ飛び込む。



 帰り道は今日もまた田所と一緒だ。田所は妙にここのところ疲れてないか、と百々へ問うていた。その通りだ。相変わらずよく人の顔を見ていると思う。どうしていいか分からず、せっかく押し込めた涙がまた溢れそうになっていた。

 なら、だから用意したんだと笑ってみせる田所はマジシャンだ。ジーンズのポケットからあのビッグアンプル、それもプレオープンチケットを抜き出してみせる。

「おじさんが急にウチの仕事、手伝ってくれって言ったろ」

 百々は鼻をすすり上げ、うん、とうなずき返していた。

「あれ、おじさんの会社がビッグアンプルのメンテ、参入することになって急に忙しくなったからだって」

「うそ」

「それ、先に言ってくれって言うんだよな。ま、で、これはその戦利品」

 得意げとアヒル口を尖らせる。眺めて百々はガレージ前、自販機の明かりに照らされポカンと口を開いていた。

「まだひと月以上先だし、プレだから周りの店も開いてないけど、おま、どうする。行く?」

 聞く田所は、無理強いしない。だから単純に興味は沸いて行ってみたいと思っていた。

「けど」

 光景は舞い戻る。

「本当は、そう思わされてるだけで解放しなきゃ、みんな騙されてるだけなのかも」

 笑った後で知らされるのはもういやだ。だが田所にこそ、その意味は伝わらない。たがいちがいにへこませた眉で百々の顔をのぞきこむ。アヒルと唇を尖らせた。

「おま、何言ってんの。思わされてるわけないだろ。俺はお前と行きたいって思っただけ。休んでる間に何があったのかは知らないけど、元気出たらいいなと、俺が思った」

 挙句、明かされたのは神がかり的、快挙だ。

「だからじゃんけん三十人抜き。社員差し置いてゲットできたワケ。どう?」

「さっ、三十人抜きぃっ? タ、タドコロ、すごいよ。それ、すごすぎるよ。なんかちょっと怖いくらいだよ」

 百々の握り拳も震えてしかり。

「ま、行かないなら、売ってガス代にするだけだし」

 言う田所は割り切りがよすぎて、止めなければ本当にやりかねなかった。冗談じゃない。いや、そんなことさせられやしなかった。何より田所となら行っても楽しいと百々には思えて、田所の言うとおり必要なのは今と距離を置く「笑い」だった。

 なら監督も、と百々はあの日を思い起こす。行き詰まり思いつめるその前に、映画だろうと枕投げだろうと、ビッグアンプルだろうと、誰かの与える楽しみの中へ荷を下ろせばよかったのだと考える。その時、世界は少し様子を変えて、「嘘は本当に変わるんだ」と、その勘違いも創り出した作品の一部なんだと、信じなおせたかもしれなかっんじゃないかと、思いを馳せた。

 出来なかった監督こそやはり悩み続けた本物なのか。期待と主張の絶妙なブレンドが見る者を惹きつけてやまない、だからこそ踏み外してしまうほどにまで研ぎ澄まされた、誰より理想に近い場所にいた人物だったのか。

 遠く離れたこの場所から、そっと後ろ姿を思い出す。

 だが今の百々にはもう縁遠く、全ては己が愉悦と明日の日の下に晒されていた。ままに田所めがけえい、と指を伸ばして跳ねあがる。

「だめだめっ。奇跡のおすそ分け、もらうっ」

 たちまち尖っていたアヒル口は満足げと伸びて、かわし田所はチケットを泳がせ百々から逃げた。

「ほいほい」

 後じされば車道で互いはグルグル回る。

 蹴散らし、クラクションは鳴らされていた。

 かばい咄嗟に田所の腕が百々を引き寄せる。その胸の中で驚いた、と振り返った百々をかすめワゴンは一台、走り抜けていった。

 顔が、その助手席で振り返る。

 合った目に百々こそ息をのんでいた。

 どうやら田所も気づいたらしい。

「あぁっ」

 叫んで指を突きつける。

 ならワゴンの窓はおろされて、応えてレフの腕は突き出されていた。つまりハンドルを握るのはストラヴィンスキーか。どこまでも続く青信号の中、遠のいてゆくワゴンは二つ、クラクションを鳴らす。

「待ってっ」

 安堵なのか、親しみからか、それとも言い忘れたさよならだからか。会えばひどい、などと思えなかった。脇目も振らず百々は追いかけ走る。

「みんなに、よろしくってっ!」

 伸び上がると手を振った。

 その姿が二人に見えているのかどうかは分からない。

 けれどテールランプが見えなくなるまでだ。

 手を振る。

 精一杯に振り続けた。



 某日、午前、四時三十分。市内、某私鉄、主要駅前。人気のないロータリー。

 彼は高速バスへ乗り込むため、その傍らに設置されたロッカーを使用する。不要と判断した荷物は、夜通し働いて汗にまみれになった作業服、一式だ。

 惚れ込んだ歌手のチケットはまだ手に入っていなかったが、会場前なら金さえ払えばいくらでも手に入ることは知っている。そしてそのためのキツイ労働は終わりを告げ、これからが彼にとって夢のひと時だった。

 ロッカーはほとんどが空いている。彼はいちばん使いやすい胸の高さの扉を引き開けた。少し覚えた妙な手ごたえに別のロッカーを選び直せばよかったが、それはもう手遅れというものだ。

 跳ね上がったのはロッカー全体か。

 破裂音が静寂を切り裂く。

 鍵のかけられていない扉は漏れた圧力で一斉に開いて踊り、そこからわずか火の粉を吹き上げた。前にした彼の体も一呼吸おくと、棒がごとくゆらり後ろへ倒れてゆく。

 床で跳ねた体からこぼれ落ちたのは、爆発の衝撃で食い込んでいた何かだ。固い音と共にそれは冷たい床を転がると、ずいぶん離れた場所で動きを止めた。

 パチンコ玉ほどの大きさか。

 その焼け焦げて見る影もない表面に刻印はある。

 ローマ字なら、読み下すに造作もなかった。

 そこにはこう書いてある。

 「SO WHAT」と。



 

   『SO WHAT?! 1st.season』 終劇

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SO WHAT?! 1st.season N.river @nriver2

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