第50話

 しかしながら元より場所を間違えたのか、兆候ひとつ上がってこない。

 十七時三十分。

 社交場と化したエントランスは着席前の招待客で賑わい、どれくらい時間をかけてあのレッドカーペットを歩いて来たのだろう、そこに混じるスタンリー・ブラック監督の姿を見つける。シックな礼服姿が見違えるようだった。あのお茶目でとぼけた雰囲気はどこにもなく、出くわした知人と抱擁を交わし、談笑に目を輝かせ、女優、ナタリー・ポリトゥワを妖精のように引き連れ歩く姿は巨匠そのもの。式典会場へとやがてその背を消してゆく。

 余韻を残した十七時五十五分。

 全ての招待客は式典会場へ向かい、エントランスには正面扉を閉めるための警備員と中継のテレビクルー、警護をつとめる百々にレフだけが残されていた。埋めて漂う緊張感は賞の行方に固唾をのんでいるからか、それとも全く別のものか。

 なだめて開いたままの防音扉から、ピッチを合わせるオーケストラの、奏でた摩訶不思議な和音はもれ出してくる。その不協和音が鳴りやんだ直後だ。オペレーターの声はイヤホンから聞こえていた。

「放送開始、三十秒前」

 正面扉前で警備員も腕をひねり、自らの文字盤を確認している。

「放送終了まで警備体勢を維持。所定区域、および会場内への立ち入りはこれより禁止されます」

 右、それから左。

 確認を終えた手で順に扉を閉めていった。

 連動するかのごとく式典会場でも分厚い防音扉が閉じられてゆく。

 確認したレフが、エントランス異常なし、と小さくマイクへ吹き込んだ。

「各署員、局員からの報告なし。本番、十秒前、九、八……」

 だとしてゼロカウントが読み上げられることはない。ただエントランスに設置された大型テレビへアカデミー賞授賞式のタイトルバックがきらびやかと流れ込んでゆく。式典会場からも生演奏のファンファーレはくぐもり聞こえ、ワンテンポ遅れ熱い拍手をそこに重ねた。

 舞台上の司会者がテレビの中で喋っている。

 テレビプログラムは本格的な授賞式が始まるまでを、レッドカーペットの録画でつなぐ段取りだ。エントランスのテレビを背に女性レポーターは露出の大きな衣装も華やかと、興奮気味に視聴者へ何事かをまくし立てていた。

 受賞式はあいだにショーを挟みつつ、驚嘆と賛辞と謝礼にわきかえるまま進められてゆく。繰り返して全体の三分の一ほどが消化された十九時十五分。百々とレフはストラヴィンスキーと警備エリアを交代すると、最も気の重い式典会場へ足を踏み入れていた。

 そこはまさにシューティングの真っ最中だ。表情を狙ってぐるり、カメラは会場を取り囲んでいた。狙い撃たれることを望んでめかしこんだ美男美女に有名著名人はまばゆいばかりの笑みを浮かべ、舞台で繰り広げられている迫力満点のショーを仰ぎ見ている。無論、パフォーマーたちも今日、一番の艶やかさを競い合っていたなら、なおさらこの場を現実離れしたものへ変えていた。

 光景には釘付けとならざるを得ない。ままに、こうも浮世離れした場所へどんな俗な賊が潜り込めるのか。百々は思わされていた。たとえ紛れこんだとして邪な姿こそすぐ目につくはずだと確信さえする。

 だが夢の世界はほころびを見せない。

 全ては順調と流れ、放送時間も残るところ一時間へ迫ろうとしていた。

 残念ながらナタリーは主演女優賞を逃している。撮影賞を受賞した「バスボム」は主演男優賞を挟み、監督賞と作品賞の発表を残すのとなっていた。そこに『20世紀CINEMA』の明日もかかっていたなら水谷と田所も日本でその瞬間を待っているのだろうな、と遠く離れた日本へ百々は思いを馳せる。

「あたしがここにいるって知ったら二人共、悔しがるだろうなぁ」

 ここにはそんな二人の方が、よほど興奮できる人たちが集まっていた。などと呟きへ、見回していたレフがチラリ、いさめるような視線を投げる。ちゃんと仕事しています。態度で示し、急ぎレフの死角へ百々は体を向けなおした。

「ウチの支配人とバイト仲間のことです。支配人、昔、映画を作ってたって聞いたから。けどさ、ヒットする映画を作らなきゃってがんじがらめになって、結局、自分は何を作りたいのか分からなくなったんだって。だからやめたって。びっくりしちゃう話だよ」

 舞台では大詰めと、主演男優賞にノミネート俳優の経歴がスクリーンへ映し出されている。

 眺めながらそれで水谷が水谷でいられるのなら間違った選択ではなかったのだ。百々は考えていた。

「がんばり過ぎたんだよね。あの支配人が荒れたんだって。きっとさ、ヒットのためならって思ってもないこと無理して一杯やっちゃったんだよ」

 様子は今の水谷からでは想像がつかず、もちろんそうまで尽くすわけは、膨大な人と金を動かすビジネスは自己満足の遊びとはまるで違うからだった。収益が上がらなければ身もフタもない興行には、携わる多くの人の生活がかかっている。無下にして好き勝手などできはしなかった。

 とはいえ創り手は少なからず作品へ自分の思いを込めるもので、心無い情熱こそありはしない。受け取る側もまたそんな情熱に触れたくて、劇場へ足を運んでいるはずだった。

 だが水谷はその実、両者はそうもうまく繋がらないのだと話す。それは『20世紀CINEMA』の鳴かず飛ばずの売り上げが、少なからず証明していた。

 どこかで何かが捻じれていた。

 切なさが、あのホットミルクには溶けている。

 思い出せば気持ちは沈みかけ、だからこそ百々は笑いで切り離した。

「あは。でも、恨みタラタラ荒れるなんてさ SO WHAT と一緒だよね」

 己を酷使する娯楽への復讐だ。

 だが本当のクリエイターなら、そのせめぎ合いの中に身を置き続けなければならなかったのですが。

 水谷は言ってもいる。

「乗り越えてきたから、みんなここいるのかも……」

 思いが百々に別の目で、この華やかさを眺めさせていた。いやそれとも身を置き続けて今もなお葛藤すると闘っているのか。

 浮かれ切った華やかさの、裏に潜む現実へ手を伸ばす。

 触れれば火傷しそうな、そこは世界だ。

 とレフが、警戒し続けていたはずの会場からやおら振り返ってみせた。

「なんだと」

 百々へと投げる。声はこれまで聞いたこともないほどに低く、おかげで感じる嫌な予感に、百々もギリリと頭をねじっていた。世辞にも穏やかとは言えないレフの形相を目の当たりにして、秒で泣かされてみる。

「な、なんですかぁ。あたしはリーダーじゃないですよぉ」

「違う。お前は今、何と言ったッ」

 吐きつけるレフはもう、おたおたしていたなら頭からバリバリ食う、いや脳天を撃ち抜きそうな勢いだ。

「だっ、だから支配人が映画作ってた頃、やりたかったことと、やらなきゃならないことがかみ合わなくて荒れたっていうから。ほら、娯楽に逆切れなんてまるで SO WHAT みたいだなぁって。だったらここにいる人もみんな……」

 そこでようやく百々も気づかされていた。

「……って、それ」

 もしそうなら、だった。いくら待っても外にリーダーは現れないはずだと思える。そして招待客たちこそ守らなければならない存在だと思い込んでいた盲点を突きつけられていた。

「つまりリーダーは、招待客の誰かだという可能性もあると言うことかッ……」

 レフが吐く。

「なるほど。リーダーのセオリーはカリスマです。ならここにはカリスマしかいませんよ」

 会話はマイクを通して筒抜けだ。ストラヴィンスキーが割って入っていた。

「招待客の身体検査はどうなっている」

 舌打ったレフの確認は早い。

「バカヤロウ。自分がSPなら警護する大統領の身体検査を行うのか」

 返すハートの声の向こうで、確認を急がせる百合草の声が重なり飛んでいた。

「逃がしたアイツも彼の『ファン』だと言っていたぞ」

 いまさら合点がいくとこぼしてレフは、その目を客席へ投げる。

 舞台ではちょうどプレゼンターが主演男優賞の受賞者を発表し、求められたスピーチに俳優が晴れやかと壇上へ向かっているところだった。

 そんな俳優へも賞賛する誰もへも、とたん疑わしき影はまといつく。それどころか次の瞬間にもスピーチを声明文へすり変えると、爆弾のスイッチが押される光景を脳裏に過らせた。だとして宴もたけなわと世界中へ流されている最中なら、いまさら一人一人の懐をまさぐるようなことは出来ない。

「待ってレフ。逃がした男は彼の『ファン』だと言ったのね」

 思い出したように曽我が確かめる。

「我々は彼を慕うファンだからこそ、リーダーに従い準備してきたと。妙な言い回しだ。忘れない」

「あくまでも可能性ですが、チーフ」

 声はすぐさま百合草へ向けなおされていた。

「招待客の誰かがリーダーだとして、拘束した数名が行動を起こすことになったのもまたリーダーの『ファン』だったからと考えるなら、彼らが共通して興味を持つ人物、作品がリーダー特定の手がかりになるのではないかと考えます。それが本会場のいずれかと一致すれば……」

「だったら探せますっ」

 名乗り出たのは百々だ。脳裏には早くもあの強烈なニオイが舞い戻り、伴う光景を蘇らせていた。ままに抜き出した端末の資料を開くと、中から押入れのコラージュ写真群を選び出す。映画関連の貼り付けが壁の左下に固められていたことはぼんやりと記憶にあり、迷わずそこを選び出していた。

「覚えているのか」

 上からレフが驚いたようにのぞきむ。

 白熱する受賞者のスピーチは完全なる時間オーバーだ。

 味方につけて百々は拡大した押し入れの写真をスクロールさせた。

「だって見るくらいしか、できる事がなかったんだもんっ」

 最中、作品は目に止まる。今まで気づくことができなかったのは、地色が社名で統一されたコンビニエンスストア販売のものだからだ。未鑑賞を示すチケットはまだ切られておらず、つながるミシン目の左側に「バスボム」の文字は印刷されていた。

「一致するものがあった。強襲者の押入れの中にスタンリー・ブラック。バスボムだ」

 すぐさまレフが襟元のマイクへ吹き込む。

「うそ……」

 偶然だ。急ぎ百々はほかを探した。くまなく目を這わせながら、もしここに田所がいたなら貼られたコラージュの中から目の前に並ぶ巨匠に名優の作品を見つけ出してくれるハズだと思う。だが百々にはかなわず、熱狂的なファンは崇拝者のため、犯罪をもいとわぬ暴挙に出るものだ。どこからともなく声は聞こえて、端末から顔を上げていた。

「そんなの……。ほかは、ほかはどうですかっ」

「ハッカーの部屋にも該当するものが一件よ」

 オペレーターを駆った曽我の仕事は早い。同時に該当ファイルは転送されて、取り急ぎ開いたオタク部屋の一角、窓を塞いで貼られた雑多なポスターの中に、「バスボム」のタイトルロゴとナタリーの足を見つける。

「そういえばサイトのアクセス数が多いことで特別視されていませんでしたが、強襲をかけてきたサバイバルゲームのリーダーも監督のファンサイトへ足繁く通っていた記録が上がっていたんじゃ」

 ストラヴィンスキーが口を挟んだ。

「当然ですっ。監督にはたくさんのファンがいるんですっ。舞台挨拶もすごかったんですっ。あたし監督と会って話もしたから分かります。すごく愉快で優しくて、映画に真剣で。疑うなんて時間の無駄で。こんなのただの偶然です。もっと他を……!」

 だからこそ遮るストラヴィンスキーの口調はあくまでも優しい。

「百々さん、そういうのをカリスマ、って言うんですよ」

 なぜかしら涙が出そうだ。

「榊はどうだ」

 百合草の指示が飛ぶ。

 なら端末を繰っているらしい。ハートが答えていた。

「吹き飛ばされて判別しづらい」

「現場に集中して。後はこちらで預かるわ」

 名乗り出る曽我はいつだろうと頼もしい。

「待て」

 そんな曽我を押し止めたのはレフだ。手はいつからか端末を握りしめると、まるでこれから撮ろうとしている写真のアングルを探るかのように、あらゆる角度を試していた。見つめる先にはテレビクルー用に貼られたノミネート作品のポスター群があり、やがてひとつ、角度を定めたところで動きを止める。確かめる目はしばし画面とポスターの間を行き来し、やがてこうこぼした。

「あった」

 それは榊の部屋の、なかでも燃え方が激しかった机横、吹き飛ばされてピンに頼りなく引っかかっていた紙の端くれだ。端末画面の中でナタリーの浮いたアバラは独特の曲線を描き拡大されている。

「吹き飛んだのはバスボムのポスターだ。間違いない」

「ハナ、レフ、カメラを舞台に固定させる。あくまでも可能性だ。周囲に十分注意を払った上でスタンリー・ブラックを丁重に会場の外へ連れ出せ。失礼のないように所持品のチェックを済ませろ」

 百合草の指示に迷いはなく、押し止めて百々は身を乗り出していた。

「そんなの必要な」

 瞬間、大音量は会場を揺るがす。

 大きさにレフさえ肩を跳ね上げていた。

 監督賞受賞者を讃えるファンファーレと拍手は、見ればその人を檀上へ送り出している。残念ながら受賞者はブラック監督ではなかった。

「座席は前列より三列目。左端より五席目です」

 すかさずブラック監督の座席位置を知らせてオペレーターが読み上げる。

 瞬いて我を取り戻したレフの目が、急ぎ姿を探して動いた。だが興奮も頂点とスタンディングオベーションを浴びせる招待客に、レフの背丈をもってしても前列はよく見えない。やがて始まろうとしているスピーチに招待客が着席して、ようやく視界は開けていた。

「いない」

「なんだと。まだ作品賞の発表が残っているだろうがッ」

 ハートが怒鳴る。

「指示は撤回。表の人員を向かわせる。ハート、お前は式典会場の足場、危険物の確認へ向かえ」

 振り分ける百合草に、おう、とハートが答えていた。

「代わりにレフ、お前がバックヤードへ回れ」

「了解」

 言うなり走り出した後ろ姿を、百々も言い表せぬ不安を抱え追いかける。

「エントランスのストラヴィンスキーが到着するまで、ハナは舞台袖待機」

「わお、じゃ、急ぎます」

 行動を理解したストラヴィンスキーが指示を端折り、早くも動き出していた。駆け来る足音は、防音扉をすり抜けバックヤードへの鉄扉を目指す百々の背から聞こえてくる。

「ストラヴィンスキーが到着次第、ハナはスタンリー・ブラックの座席を確認」

「……了解。舞台裏を回って袖の反対へ移動します」

「エントランスは警備員と警察に張らせる。万が一に備えて蜂起後の対応、スタンバイしておけっ」

 百合草が最後をオフィスへ吐いていた。重なりオペレーターも現状を読み上げる。

「通用口、スタンリー・ブラックの出入りは確認されていません」

 舞台では監督賞受賞者がスピーチを始めようとしていた。最も警戒すべく時間帯はこの次、作品賞発表の瞬間だ。

「当然だよ。監督はリーダーなんかじゃないって。レフも知ってるよね。きっと……ト、トイレだってっ」

 しつこく訴える百々の前でレフの手が鉄扉のノブを握り締める。二度、三度、上下させた肩で呼吸を整え静かに引いた。隙間に、言った通りと手洗いから礼服姿の背中はひょっこり出てくる。

「ブラック監督を発見した」

 かすれるほどに小さな声だ。レフがマイクへ吹き込んだ。

「なに、入れ違いか。俺は見ていないぞ」

 バックヤードには他に誰も見当たらない。潜り込んだ舞台下からハートが即座に投げて返す。だとしてそれは偶然ではなく故意だ。可能性について誰も言及しないのはもう単に共通認識だからか。振り返る素振りすら見せないブラック監督も我関せずと、通路を外へ歩いてゆく。

「接触する」

 レフが足を踏み出していた。

「先に座席を確認してからだ」

 制する百合草の口調は落ち着いている。

「式典、会場内、到着っ」

 ストラヴィンスキーが告げ、間髪入れずハナが動き出した。

「座席、確認、入ります」

 聞いたレフの体が鉄扉ごと後退してゆく。

「間に合うのか。このままだと外へ出るぞ」

「通用口の警備員に足止めをかけさせる」

「だが外は、監督が何を疑われているのかを知らされていないんだろう」

「もう会場へ降りるわ」

 ハナが言い聞かせたその時だ。監督の足は止まっていた。

「立ち止まった。舞台袖横だ。懐を探っている。何があるのかは見えない」

 マイクへ吹き込むレフの脇から、百々も監督へと目を凝らした。

 だとしてハナは怯まない。

「監督の座席が見えた。座面にはなにもない。近寄って足元を確認するわ」

 舞台では作品賞ノミネート作品が読み上げられている。音はバックヤードへももれ、そこに「バスボム」の名が上がるまでもなくブラック監督はチラリ、会場へ目をやった。ままにふらりふらりと壁へ身をすり寄せてゆく。また覗き込むように胸元をのぞき込んだ。

「ダメだ。様子がおかしい」

 目にして放ったレフの舌打ちは百々にもはっきり聞こえている。

「足元に何かあるなら知らせろ。行って俺も確かめる」

 否やレフの手は、握るノブを押し出した。

「ちょっ」

 鉄扉を開けて堂々、ブラック監督へ歩み寄ってゆく。

「なら一人で行くな。応援を向かわせるッ」

「俺のことかッ」

 百合草にハートもすぐさま反応するが、一番近い場所にいたとしてももう間に合いそうもない。何しろ気配を察して顔を上げたブラック監督は、周囲へ這わせた視線を今まさに背後へ振ろうとしている。

 ブラック監督はそんな人じゃない。

 でも、もし、まさか、は百々の中に嵐と過った。

 過るからこそかき消して信じなければならなくなり、信じなければならなくなるほど、拭えぬ疑念は閾値を越えて現実と押し寄せる。そんなもの見たくなくて、何が何でも現実になどしたくなくて、百々も鉄扉の影から飛び出していた。レフが呼び止める前にだ。背から精一杯に声を上げていた。

「かんと、くぅーっ!」

 きっとこれは煙草を吸いに出ただけで。携帯電話が鳴っていたからかもしれず。いや緊張に胸の動悸がおさまらないから唸っていただけで。とにかく後ろ姿から当てよう、ブラック監督ジェスチャーゲーム。レフの前へ走り出る。

「何のつもりだ」

 背でレフが小さく吐いていた。

 答えず行く手を塞げば、残りを端折ったブラック監督はそんな百々へと振り返る。姿をとらた目をり、いっとき異様なほどに強張らせた。いや、思いがけない場所で二度と会うはずもない顔に出くわせば誰だってこういう具合に驚くはずで、あの日と同じに百々は指を立てる。

「緑茶、いえーいっ」

「セカンドバック発見。中を確認します」

「監督の応援に来ましたぁっ」

 ブラック監督へと伸び上がった。

 とたん在りし日を吸い込みなおした監督の目が強張りを解いてゆく。

「おーまいが。とぅえにーせんちゅりーしねま、ネッ」

 天を仰ぐと笑い出した。

 やはり何かの間違いだ。きっとここにいるのは受賞の時のサプライズのためで、そんなたくらみこそ監督には似合っていると思えていた。

「イエース」

 百々は突き出していた指をおろす。警戒も極みと刺さるレフの視線を背に、ブラック監督の前へと足を進めた。

 壁一枚と隣り合う舞台からは、作品賞の発表を前にプレゼンターが大きくひとつ、咳払いをしている。

 そしてハナは最後まで冷静だった。

「中に確認。あの弾が飛び散りそうよ……」

 嘘だ。

 力はやおら百々の足から抜け落ちてゆく。

「ハートッ!」

 呼びつける百合草に手加減はなく、たったひとまたぎで立ち止まった百々を、レフは追い越していった。その背が負う気迫こそ尋常になく、対峙したブラック監督からたちまち笑みは失せてゆく。青く色さえ失ったなら、頬へ死の影を張りつかせた。ままに懐へ向けられたのは目だ。追いかけ手をもまた潜り込ませる。

「ミスタァ、ブラッァクッ」

 制してレフが監督へと床を蹴りつけた。

 讃えて舞台で名は唱えられる。

「……バスボム!」

 拍手がどうっと巻き起こった。感極まったように祝福の音色は奏でられ、そこに走るレフの靴音を激しく重ねる。飛び掛かると同時だ。懐に押し込まれたブラック監督の腕をわし掴みにした。振り払おうともがく監督の顔は赤らみ、力任せとレフに引き抜かれた腕からペン型の何かは床へ飛ぶ。蹴って遠ざけたその足で、レフは監督の足もまた払いのけた。バランスを崩した監督の体ごと、のしかかるようにして床へ押し倒す。容赦のあさに跳ねて互いの間から呻き声はもれ、押しのけ監督が上になった。その襟首を掴んでレフがすぐにも態勢を入れ替える。次を封じて監督の喉元へヒジを押し込んだ。ままに浴びせる罵声はロシア語だ。おそらくブラック監督にはくなにひとつ伝わっていない。

 かたや受賞者を失った会場は演奏と拍手を切り上げるタイミングを失っている。漏れ聞こえてくる最高潮の時は続かず散漫になり始めていた。

 パン。

 紛れて破裂音は鳴り響く。

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