第41話

 独特のニオイが鼻をつく。アイドリングの振動で、挿されたきりのキーからぶら下がるアクリル製のチャームが揺れていた。直前に買い揃えたらしい。座席の足元には目出し帽が入っていたと思しきビニール袋が散乱している。引き出された灰皿は半分も燃していないタバコであふれ、叩くように払ってキャビネットの中も確かめてみた。現れたのは何かしらのクロスと予備の芳香剤ビーズだ。一見して用がないならさらに後部座席へと身を潜り込ませてゆく。地図が広げられたままの状態で投げ出されていた。ピンクの蛍光マーカーはその中の、幾つかの交差点を囲っている。指でなぞってここ、るるロード前交差点を見つけていた。

 確かに移送先が通常とおりなら、ルートの限定もさほど難しいものではないだろう。それを見越しての囮だったとしていい気はしない。さらに探して地図を裏返す。

 トランシーバーだ。

 現われていた。

 連携を取る相手がいるとするならシルバーのバンか。動作を確かめ、上部に飛び出したつまみをひねる。先ほどまで使われていたことを示すトランシーバーは、答えて返す相手を失った今、低く雑音をばかりを流し始めた。

 聞いていても仕方ない。つまみを絞るべく指をかけた。

 押し止めて強い雨脚のような雑音は流れだす。

 何事かと手を止めていた。

 だが声こそ聞こえてこない。

 不可解にしばし眉間を詰め、ワケを探してトランシーバーを見回した。プライベートチャンネルのボタンだ。他に内容を伏せたままで通信が行える個別会話用のそれは、本体上部に並んでいた。

 つまり、とそのときレフは視線を跳ね上げる。唐突に鳴り始めた雑音こそプライベートチャンネルの使用が原因なら、言うまでもなく存在しているのは使って会話をしている何某の存在以外考えられない。

 まだ誰かいる。

 過るが早いかリアウインドの向こう、外へと視線を走らせた。

 いや、そう仮定すればこの待ち伏せ自体、護送車にはりつき動向を知らせる何某の存在があったからこそ、こうも的確に行えたのではなかろうかと思えてくる。しかしながら想像できるのは散々なこのザマで、こちら以上、急務となった事態の収拾に慌てふためきまくし立てているのではないかと想像は走った。

 だとすれば相手はこの一帯を見渡せるどこかにいる可能性が高い。探してむさぼるようにフロントガラスへ振り返っていた。

 だが交差点周辺の建物はテナントビルばかりで、並ぶ窓はオフィスがほとんどときている。紛れて見下ろすには不向きとしか言いようがなく、屋上かと視線を切り返したその時だった。国道沿い、商店街アーケード側の歩道。そこだけが張られた規制線の隙間からたかる野次馬をのぞかせているのを見る。

 まさか、とレフは目を細めていた。

 見つめたまま、ジープからゆっくり体を引き抜いてゆく。

 通信中の雑音はまだ切れていない。並ぶ人垣の口元をなぞり線を走らせた。なら人垣は目隠しして立つ警官の列を破りそうに膨らんで、押されて倒れそうにつんのめったスタジアムジャンパーの眼鏡男が注意を受ける。

 引き下がるその目と目は合っていた。

 いやこの距離である。そもそも目が合ったことも、フレームの向こうでそんな男の表情が強張ったように見えたことも、単なる思い過ごしなおのかもしれなかった。男もあえてどうする素振りもなく、ただ体を起こすと指示に従ったきりとなる。

 そこで雑音は切れた。

 だとして半信半疑であることは否めない。

 レフはトランシーバーを持ち上げる。確かめる方法があるとするならこれしかないと口元へあてがった。

「聞こえるか」

 送信ボタンを押し込み問いかける。

「うまく紛れたつもりだろう」

 喋りながら人垣に符号する反応を探した。

「だが、あんたのツラはここからでもよく見える」

 いや、見えないからこそ言うしかなかった。

「そこから動くな」

 間をおく必要こそありはしない。

「今からそこへ行く」

 飛び出すヤツがいればそいつだと最初一歩を踏み出した。

「おい、どうした」

 聞きつけハートがイヤホンから呼びかけている。答えずレフは再度、送信ボタンを押し込んだ。

「逃げるなら、今のうちだぞ」

 繰り出す足を早める。

 軽く跳ねたその後で、駆け足へと切り替えた。

 ならふい、と目を逸らしたのはスタジアムジャンパーの眼鏡男だ。見飽きたようにも思える仕草でさらに半歩、最前列から後じさる。

 まさかと疑うからこそだった。あえてレフも足を止めたなら、まるでシンクロしているかのようにタジアムジャンパーも動きを止めていた。切り返し損ねた肩口から、粘るような視線だけ投げかけ残す。

 理由など言わずもがなだった。

 逃げるかどうかをためらっている。

 疑惑はそのとき確信へ変わり、レフは奥歯を噛みしめる。アスファルトを蹴りつけた。スタジアムジャンパーの男も阿吽の呼吸で野次馬の中、目が覚めたように身を弾ませる。

「待てッ」

「おいッ、何があったか言えッ」

 察したハートの声がささくれ立った。

「まだ一人、いるッ」

 答えるうちにも、それほど背の高くないジャンパーの頭は野次馬の中へ埋もれてしまう。追いかけ中へ飛び込んだ。暴挙に野次馬から鈍い声は上がり、肩で弾いてマイクへ吐く。

「男、眼鏡、短髪。百七十センチ余り。細身。カーキーのスタジアムジャンパーッ」

 ままに前のめりで野次馬から飛び出せば、走るジャンパーの後ろ姿は商店街のアーケード前にあった。

「おい、分かっているのか。勝手に飛び出すな。相手が一人とは限らんぞッ」

「なら追いかけて来いッ。靴は濃いグリーン。似た色のカーゴパンツッ」

 受けたオペレーターの手際のよさはいつもながらピカイチだろう。聞き及んだ警官が、特徴そのまのいでたちで走り来る男へ早くも対峙してみせる。

 前にしてジャンパーが足を止めていた。迷う間もなく商店街に並ぶ店の裏手、テナントビルとビルの間へ身をひるがえす。すかさず知らせて警官は応援を手配し、任せて隙間へレフも身を飛び込ませた。

 狭いうえにゴミの散乱した足場は酷い。その中をジャンパーは飛ぶように走ってゆく。軽い身のこなしで壁を押しやり左折すると、さらに細くなった隣り合う建物との隙間へ体も斜めと潜り込んでいった。追えば途切れたところに商店街に敷かれたオレンジ色のタイルはのぞき、踊り出しかけたところで駆り出された警官の姿を目にしたジャンパーは足を止める。

 振り返った目が、迫りくるレフをとらえて凶悪と窪んだ。

 流して傍ら、アーケードを支える鉄骨を見上げる。簡易ハシゴはそこにコの字と取り付けられており、最初数段を端折る勢いでジャンパーは食らいついた。

「止まれッ」

 向かって銃を引き抜く。セーフティーを弾き、引いたスライドで装填。ジャンパーへと振りかざした。だがその間にも視線より高い位置へ上がってしまったジャンパーは、止まろうとしない。払いのけるように銃を下ろす。トランシーバーもろとも腰へさした。追いかけレフもハシゴへ飛びつく。

 手繰り、蹴上がったそこにカマボコ型のアーケードは伸びていた。太陽を反射させたそれは街中に伸びる銀の滑走路だ。ジャンパーはその傍ら、並行に設置されたメンテナンス用のキャットウォークを靴音も高く走っている。かと思えば切れ目からポリカーボネイドの屋根へ躍り出た。渡り行く足音はどこかヤワで頼りなく、見定めレフも掴んだ手すりを飛び越える。

 渡り切ったジャンパーが再びキャットウォークへ飛び上がり、迷うことなく隣接する建物の屋上へジャンプを繰り出していた。

 追いかけレフもかまぼこ屋根を走る。

 勢いのまま建物へと飛び移りかけた。

 踏み切りきれず押し止まる。

 だとしてのぞきこんで感じるそのほとんどは、間違いなく錯覚だ。端まで下がり、つけなおした勢いで踏み切り身をしならせる。着地すればジャンパーが、ついてくるのか、と肩越し視線を投げていた。当然だ、と睨み返せば唯一、たたずんでいた貯水タンクの向こうへジャンパーは回り込んでゆく。

 足が再び床を蹴りつけた。

 体はいっとき宙に浮いたように見え、次の瞬間、吸い込まれて下方へ消える。

 駆け込みのぞき込めば三メートルほど下、真四角に広がるガソリンスタンドの屋根で身を転がしていた。思えば起き上がると再び軽快に走り出す。

 だとして一度こなせば後は何も変わりはしない。レフも迷わず身を躍らせていた。潰れるような着地にマネたわけでもなく一回転し、唸り声と共に身を持ち上げる。

 放って屋根の端までたどり着いたジャンパーは、下をのぞくと右へ左へ、行ったり来たりを繰り返していた。確かに大型トラックも入り込める高さの屋根だ。いくら身軽な彼でもここから飛び降りることは無理だろう。

 切れ始めた息を肩で押さえ、これが最後と距離を詰めた。が、それは突きつけるべく回した手が、銃に触れたかどうかというタイミングだ。ジャンパーははたまたそこから身を躍らせる。

「くそッ」

 止まりかけていた足へ再び力を巡らせた。ジャンパーの立っていた位置まで一気に加速する。のぞきこめばジャンパーは、ガソリンスタンドへもぐり込んでゆくトレーラーの荷台へ食らいついていた。ままにリアを伝い地面へ滑り降りると、目指していたのはおそらくあの車だ。切り返した靴先で混み合う路面の傍ら、ハザードを点滅させている白い軽自動車へ駆けてゆく。

「商店街、東、ガソリンスタンド付近。逃走車は白の軽。ナンバーは遠くてまだ見えないッ」

 ともかくマイクへ吹き込んだ。

 間にもトレーラーは屋根の下へ吸い込まれてゆき、連なり黒いバンは侵入してくる。

 舌打つのは次に取る行動を決めているせいで、車高は低いが、この際ないよりマシだと考えるほかない。

「野郎ッ」

 ひと思いとレフはガソリンスタンドの屋根を蹴り出した。タイミングこそ悪くない。証明してごぼ、とバンの屋根も己が形にへこむ。そんな車体に掴みどころはなく、もんどりうって滑り落ちた。投げ出された地面で上下を取り戻せば、背でバンのブレーキ音は鳴り響く。ガソリンスタンドの店員も、空から降ってきた男に驚いているらしい。だがジャンパーはもう白い軽自動車のドアへ指を引っかけており、弁解しているヒマこそない。

 駆け来る姿をとらえた軽自動車が、にわかに動き始めていた。寄り添い、残されてはたまらないと小走りで、ジャンパーも引き開けたドアから車内へ潜り込んでいる。

 否や、軽自動車は速度を上げていた。ようやく見え始めたナンバーさえ隠すように反対車線へフロントをねじこむと、混乱する車両の間をぬってゆく。後ろ姿はあっという間に街の中へ、小さく遠のいていった。

 見えなくなるまで、いや、見えなくなっても追い続け、もつれだした足に一足、二足、アスファルトを大きく蹴りつける。三歩目を突き立てたところでついにレフは立ち止まっていた。逼迫した呼吸に自分でも分かるほど顔は歪んでいる。だが取り繕うなど無理ならば、剥き出しにしてただ滔々と流れる車両を、その彼方を睨みつ続けた。

 呼び止めて、ザッ、と音は聞こえてくる。覚えがあるならまさか、とレフは己が腰回りへ目をやっていた。

「お疲れ様」

 涼しい声がトランシーバーから聞こえてくる。毟り取るようにしてレフはトランシーバーを掴み上げていた。

「いいか、トムとジェ、リーは、次が、最終回だ」

 切れる息に言葉が乱れる。

「仲良くケンカしな。対テロの、それが常套だったかな」

 微かと笑い声が後を追って聞えていた。

「革命は起こさせ、ない。おまえたちは、永遠同志を募って、まわれ」

「それはリーダー次第だよ」

 間髪入れぬそれは返答となる。

「我々は彼を敬い慕っているからね。ファンとして、彼の望みを実現するため全てを準備してきた。だがリーダーが蜂起しないならそれまでさ」

 そうして思い出したように「あ」と弾いて、こうも声はつけ足してみせた。

「勇敢なトムに感動しすぎたかな」

「そのリーダーは誰だ」

 無駄だと分かっていても問わずにはおれない。

 声は例外なく聞き流すと、そこでひとつトーンを上げる。

「楽しかったね。公安のトム、また会おう」

 不躾な雑音が会話に終止符を打っていた。それきりだ。押し込んだ送信ボタンから指を浮かせても電源を落としたらしい相手からの応答はない。

 沈黙するトランシーバーを届かぬ相手の横面のように、レフは拳で叩きつけた。思いがけず拳とは別の場所が痛んでただ、目を細める。周囲を遠巻きに、不審な目で眺める人々は行き交っていた。



 そして十三時ちょうど。警察病院の屋上から一機のヘリは舞い上がる。ドクターヘリだが操るのは言うまでもなく乙部だ。何しろ署から救急車で運び込まれた患者は口がきけない重症患者ときている。傍らにはだからして白衣の天使とまではゆかないものの、遥か下方の街並みにおっかなびっくり渡会もまた付き添っていた。

 受け入れ先は中新田村拘置所だ。

 後部座席に榊大輔を乗せヘリは、遮られることのない大空を我が物顔で突き進んでゆく。

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