第37話

「超、イイヒトそうじゃん。もっと気難しくてさ、神経質な人かと思ってたけど全然ちがう」

 声の大きさは興奮のあまりその範疇を超えていたが、れっきとした独り言だ。吐く百々は通用口から入ったところ、警備員室の隣にある給湯室にいた。

 ブラック監督一行は水谷の案内で控室へ向かっており、別れた百々は段取りとおり、こうしてお茶の準備に取りかかっている。

「うん。絶対、タドコロに報告しなきゃ」

 決意と共にドリップコーヒーと緑茶のセットが乗った盆を持ち上げ、ポットもまた引っ提げた。

「う、お」

 これが見た目通りで相当重い。筋肉痛も予想とおりと頂点なら、百々は唸って気合いを入れなおす。

 通用口前では警備員が出したパイプ椅子へどっかと腰を下ろしていた。聞くところによるとファンからのプレゼントは今も後を絶たず、人の出入りの激しさに気が抜けないらしい。なにしろ侮れないのは熱狂的なファンの存在で、ときに崇拝者のためなら犯罪もいとわぬ暴挙に出るのが彼らなら、なおさらだろう。たとえばコッソリ侵入されて、いやそれ以上、監督が娯楽界の重要人物であれば託されたプレゼントが爆発したり、試写の会場にテロリストが紛れて握手ついでに暴挙に出るやもしれない。

「はっ。だめら。いつの間にか完全に洗脳されてるよ」

 過ぎた妄想にストップをかける。そんな百々の前へマスタード色の制服が飛び出してきたのは、まさにその時だった。

「れ?」

 間違いない。田所だ。更衣室前で足踏みしたかと思えば百々にも気付かぬ様子で控室へと身をひるがえしている。

「ど、して?」

 持ち場を抜け出しブラック監督を盗み見に来た、と言うのなら、それこそ頭からポットの湯をかけるしかないだろう。

 でなければ。

 過ったとたん百々の声は大きくなる。

「タドコロっ」


 それもこれも順調過ぎることの代償だろう。バイクが去ってからというもの沈黙は居心地悪いほどに続いていた。満たして護送車とワゴンは今、片側二車線の産業道路を淡々、走行している。

「百々さん今頃、なんでしたっけ」

 切り出したのは、まるで先程まで話し続けていたような口ぶりのストラヴィンスキーだ。

「舞台挨拶だ」

 同様に返すハートは心得ていた。おかげで思い出したらしい。ストラヴィンスキーもうなずき返す。

「そうでした。スタンプラリー・ブックだったかな。監督の映画が百々さんの映画館で始まるって。大変そうでしたよ」

 だがそれが息詰まる沈黙に対抗した彼なりの気遣いだったとして、無理もほどほどに、というべきだろう。あまりの見切り発車は次にレフの口を開かせることとなる。

「それはスタンリー・ブラックの間違いじゃないのか」

「え、レフは知ってるんですか」

 路面が混雑し始めたらしい。近づく護送車のテールにワゴンも速度を落としてゆく。比例してぐっと周囲の密度も増すと、なおさら警戒するレフの目は神経質と辺りを探り動いた。

「有名な監督だからな。四年前の映画も三度、見に行った」

 へぇ、と打ったストラヴィンスキーの相槌こそ社交辞令だ。にもかかわらず要求してもいない感想は付け足される。

「泣ける」

 瞬間、ワゴンは護送車に追突しかけた。

「ここから二百メートル。るるロード前交差点まで渋滞発生中です」

 告げるオペレーターは今の発言を聞いていなかったのか。ともあれ全ては渋滞に護送車が急にブレーキをか踏んだせいだ。思うことにしてストラヴィンスキーは慌てて車間を取りなおす。眼鏡のブリッジを押し上げ恐る恐るとレフへ振り返っていった。

「すごい、監督なんですね。やっぱり」

 十二時十二分、「るるロード」前交差点手前。

 これもまた予定通りの足踏みだった。


「うそぉっ」

 唸って百々は目を見開く。それでも田所は盆を持ち、こうして控室までを手伝ってくれていた。

「松川さん、体調不良なのぉっ」

 そう松川とは田所が今、映写を教えてもらっている社員であり、『20世紀CINEMA』の実質的な専属映写技師だ。

「だって朝、元気そうだったじゃんっ」

「昨日から体調、悪かったって。けど今日、橋田さん出張だろ。支配人もコッチ、手が離せないってわかってたから休めないと思って言えなかったって」

 教える田所は今にもガー、と鳴きだしそうに唇を尖らせている。

「そうだけどぉ」

 百々は唸るが、困り果てたのは田所の方が先なのだから繰り出される足はまた速度を上げていた。

「松川さんは?」

 並べた肩で確かめる。

「トイレ。なんか悪いモン、食ったんじゃないかってよ」

「まぁつっ、かわさぁんっ」

「とにかく、俺、そのこと話しに来たから」

 などと事態はどれほど滑稽だろうと、言う田所の顔は真剣だ。いや満員御礼の先行上映会が控えていたなら、ならざるを得ない状況だった。

「わかった」

 百々も至極真面目とアゴを引き返す。「応接室」とプレートの張られたドア前で足を止めた。そうしてほぐしにかかるのはハプニングで強張った顔だ。終えて、預けていた盆を求め田所へ手を突き出す。

「ありがと」

 その時ばかりは田所の渋い顔も柔らかい。

「いい感じじゃん」

 受け取り呼吸を整え百々は、応接室のドアをノックした。

 返事はない。代わりにわずかドアが浮き上がる。水谷の顔はのぞいて、目はまずここにいるはずのない田所を捉えた。無言でうなずく田所を見届けたなら、盆の上をチェックする。抱えた百々へ道を譲り引いた後ろ足で半身となった。

 昨日、磨いたセンターテーブルだ。

 開けた視界へまず飛び込んでくる。

 向こう側に腰掛けるブラック監督はいた。傍らには赤毛の女性が付き、彼女がおそらく通訳だ、テーブルを挟んだ向こうに友人と思しき日本人男性は座っている。見当たらない四人目の人物こそツアーコンダクターだったのだろう。ざっと把握して百々は、己が人生におけるまさにランウェイへと足を繰り出した。

「リョクチャ。じゃぱにーず、ぐりーんてぃ」

 回り込んだ通訳の傍ら、テーブルの端へ盆を乗せれば興味津々、早くもブラック監督はのぞき込んでくる。浮かべた笑みこそ近く、隠せないどぎまぎをこれでもか、と押し殺して百々も返す。

「はい、玉露入りです」

「おおぅ、ギョクロ。ヨイオチャ、デスネ」

「コーヒーもご用意出来ますが……」

「ののの、リョクチャガ、ノミタイデスネ。アツイノヲ、オネガイシマス」

 連呼と共に突き出した手を振る仕草が妙に可愛い。だがほっこりしたのも束の間、サーチ不足が発覚したのはその直後だった。通訳はカフェインが飲めないらしいと知らされる。

「申し訳ありません。代わりをお持ちします。少し待っていただけますか」

「ああ、いえ。自分で何か」

 監督へ目配せするなり立ち上がった彼女は身は軽だ。友人も不慣れだろうと腰を上げる。

「いえ、あの、すぐご用意できますので」

「ハナシテ、イナカッタデスネ。ういあー、そーりー」

 などとブラック監督にまで謝られてしまえばもう収拾がつかなくなっていた。うちにも二人は部屋を出てゆく。話し込んでいた通路で水谷と田所が、その後ろ姿を不思議そうに見送っていた。入れ替わりと部屋へ入る。

 やがて英語で始められた説明はこれからの段取りだった。ノープロブレム、と肩をすくめるブラック監督はここでも終始、愛想がいい。終えたところで水谷も、いつもの調子で百々へ投げる。

「じゃ、映写室に行ってますから。百々君、後は頼みましたね」

「はい」

 ドア際で田所が、硬直したような一礼を繰り出していた。

 きびすを返せば連なり二人は部屋を出て行く。

 静かだ。

 のみならず、部屋はやけに広くも感じられてならなかった。

 そらそうだろう。あれだけひしめいていた人間は今や、熱い緑茶を待つ天下の巨匠と百々だけなのである。

 とたん百々の背を、冷たい方の汗は流れていった。恐る恐るが相当だ。ブラック監督へ振り返ってみる。

「リョクチャ、タノシミデス」

 笑みに叫び出しかけていた。そんな百々の前へ監督の親指は立てられる。

「ギョクロ、いえー」

 果たしてこの無邪気さを無に帰す度胸が誰にあるのか。のみならず親しみに敬意を感じておれば、だった。

「ぎょ、玉露、イエー……」

 引きつっていようとめいっぱい、百々も笑って指を立て返す。

 というか、本当にこの対応で合っているのか。

 合ってないだろ。

 いや、分からない。

 分からないからこそただちに湯を注ぎにかかった。支配人カムバック。胸の内で泣き叫びながら。


 映画の内容が気になるあまり集中できないじゃないか。ストラヴィンスキーが思ったかどうかは定かでない。ただレフの一言で話は立ち消えとなり、しかしながら車両だけは止まることなく流れ続けた。予定通り護送車は十二時二十分を前にして混雑の中枢、るるロード前交差点に辿り着く。

 交差点の左向かいに七階建ての「るるロード」が、クリーム色で見えていた。対面、右斜め向かいには昔懐かしい商店街のアーケードがのぞき、かまぼこ型の屋根を奥へ伸ばしている。昼の日中とあって双方の間を買い物客は行き交い、「るるロード」建物内の立体駐車場へ入る車両だろう。路上には順番をまつ列も出来上がっている。聞かされていたとおりの賑わいだった。さばいて信号は全方向へ歩行者を促すと、車両へ通行を譲るローテーションを繰り返しており、歩行者が渡り終えた今は護送車も走る産業道路側へ青を灯しているところだった。

「戦場だな」

 右折に左折、はたまた直線と、散ってゆく車両にハートがこぼす。

「十二時十七分。第三ポイント侵入。もうまもなくるるロード前交差点を右折する」

「了解しました」

 流れに乗って護送車も右折レーンへ乗り変えた。黄色いタクシーの後ろで国道へ乗り変える順番を待つ。

 タクシーの前を黒のセダンが走り抜けていった。見送ったタクシーはおそらく連なるジープをやり過ごしたその後で、右折するつもりなのだろう。タイミングを見計らう車体はじわりじわりと交差点へ侵入し始めている。

 と、目の覚めるような唐突さだった。突如、ジープは車線を逸れる。

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