第32話

 その後、いくつかの打ち合わせは行われている。いずれも丸く収まると水谷は事務所へ上がっていった。遅番勤務を控えた田所はといえばパンを机に並べたまま飲み物を買いにフロアへ出ゆき、だからして百々は一人、鼻歌を響かせる。「バスボム」の大入りが予想された今、提出しなければならないシフト表へ惜しむことなく希望日時を書き込んでいた。

 回り続けるフィルムの音がひときわ大きくなったのは、そんな作業も仕上がった頃となる。買い出しに出ていた田所がフロアから戻っていた。

「っと、あぶね」

 片足ずつ階段を降りてくるのは、満タンの飲み物を手にしているせいだ。間違いなしといかにも熱そうな手つきで、紙コップを置く気配は机の端でちらついた。

 匂いを嗅ぐまでもなく、中身がコーヒーであることを百々は知っている。それも砂糖入りのミルク抜きだとすら言い当てることができた。何しろ田所が他に手を付けるところを見たことがなかったし、いつかブラックを飲んでやる、というのは田所の口癖でもあるからだ。

 案の定、香ばしくもほのかに酸い香りは広がって、百々の隣へ腰掛けた田所は二つあるパンのうち、明太子ペーストの乗ったフランスパンをつまみ上げる。それが田所の大好物であることはすでに誰もが知る事実だったが、好きなものから手をつける性分であることに気付いているのは案外、自分だけかもしれない。今日も目にした一部始終に百々はひとりごちる。

 そんな袋の口がパリリ、と控えめな音を立て破られていった。つまり話すなら口の中へ物を入れる前にが礼儀だろうに、田所はかぶりつくと同時に話し出す。

「希望、出さないのは、てっきりお前が辞めるつもりでいるからだと思ってた」

「そんなわけないじゃん」

「余計なことを言ったのは俺だし、参ったなと思ってた」

「だってあたしは逃げるようなこと何もしてないもん」

 そんなこんなのうちに百々の鼻歌も立ち消えとなる。

「だ、な。めちゃくちゃやる気みたいだし」

 そして言葉はといえば、バスの彼女に会ったからこそ口にできたものだった。

 仕上がった希望シフトを見直す百々の隣で田所はといえば、また新たな悩みの種を抱えたような顔つきだ。気づいて百々は振り返る。

「タドコロだって、やめちゃだめなんだよ。映写、教えてもらい始めたところなんだから」

「あのさ、フラれた事とそれは別ってことくらい分かってるつもり」

「あたしはまだ何も……」

 言いかけたところで田所は、またもや割って入っていた。

「それよかお前さ、支配人に調子よく返事してたけど、これから当分、土日がつぶれるだろ。俺が言うことじゃないだろうけどさ、それでうまくやってけるの」

「うまく、って、どういうことよ」

 すでに口調が引っ掛かる。

「今週、休みが多かったもんな。……会ってんだろ」

 放った直後、やたら慎重にコーヒーを傾け田所は、わざとらしいほど、あち、と声をもらしてみせた。

 だとして現実その通りだ。

 そこにやましいことなど何もない。

「それが何か。今日だってその帰りだよ」

 百々は間髪入れず突き返す。

「もうさ、毎日、激し過ぎて足腰立たないくらいなんだから」

 瞬間だ。再びカップへ口をつけていた田所は、コーヒーを吹き出した。勢いに百々こそ身を跳ね上げ、おっつけ気づいてボカン、今度は百々の方が脳ミソを爆発させる。

「ちがぁぁうっ!」

 田所の背を叩きつけた手は場外ホームランさながらだ。紙コップの中身が前方へと瞬間移動する。勢いに机の上へ突っ伏しかけた田所も、こらえて椅子ごと後じさっていった。

「わ、マジかよっ。俺、これから仕事だって」

 急ぎ確認するのは一着しかない制服だろう。

「だぁって、タドコロが勝手な勘違いするからじゃんっ」

 もうめちゃくちゃである。百々は急ぎコーヒーまみれの己がシフト表と田所のパンを机の上から救出していた。

「そっ、それはお前がハゲ……」

「ち、ちっがうってばっ。今日は階段ダッシュだし、昨日はバスだし、キリンは怒ると反省させられるし。ここんとこ毎日がめちゃくちゃハードなのっ。そういうことが言いたかっただけなのっ」

 ようやく最後まで言い切れたのだ。逃すまいと百々は腹へ力を込めなおす。

「あの夜だってそう」

 上げるのは反撃ののろしか。田所を睨みつけた。

「だいたい人の話を聞かないタドコロが悪い。勝手に決めつけてる」

「何を」

「あたしとレフは、そんなじゃない」

「へぇ。あいつ、そんな名前なんだな」

 などと返す田所の着眼点はずれていたが、この際、かまう寄り道こそなしだろう。

「そう。ロシア人なんだって。なのに漢字オタクでさ。やたらデカくて愛想悪いの。それがたまに笑うとタイミングが違ってて、もうめちゃくちゃ怖いんだから。でもお年寄りには優しいわけ。わけわかんないよ。なのに仲良くなろうなんてさ。付き合うとかさ。それどころじゃないよ。おかげで人を軽いヤツみたいな目で見ちゃって。タドコロ、失礼過ぎる。あたしの方ががっかりした」

 これだけ言えばレフは今頃くしゃみどころか、悪寒すら感じているだろう。だがしかし納得したような素振りのない田所は、誰だって自分の目で見たものの方が正しいと思うせいだ。

「だったらあの朝はなんだったんだよ。やけに仲、良さげだったぞ」

「そんなのバイクからちらっ、と見ただけじゃん。分かんないよ」

 とたん田所の唇は、バカにするな、とアヒルに尖る。

「俺には分かるわけ。だいたいお前の事、どれだけ見てると思ってるんだよ」

 食らわされて百々の方こそしどろもどろになった。もう熱が出そうだ。いや、すでに出ているのかもしれない。いたたまれずうつむく。

「いいって」

 前において田所が、気抜けた声で吐いていた。

「無理して言うこと、俺も聞きたくないと思ってるから」

 同時にシアターのどちらかが上映を終えたらしい。止まった映写機にあれほどうるさかった音はふい、と半減する。つまり客の入れ替えが終われば田所の遅番シフトは始まる予定で、知っているから慌てたのだと言えば間違いでなかった。

「ホントは部外秘で口止めされてるんだけどさ」

 迂回してもう、説明できそうもない。

「あたし今、別にもうひとつ仕事してるんだよね」

 切れかけた会話と田所を、百々は懸命に捕まえなおす。

「掛け持ちしてることは支配人も知ってるよ。だから嘘じゃない」

「支配人、も?」

 繰り返す田所は、どこかいぶかしげな面持ちだった。

「レフはさ、その仕事先の仲間だよ。ストーカー騒ぎの後、そこに顔を出さなきゃいけなくなって組んでる」

 休憩のない遅番は、食抜きだと最後の一時間がとにかくきついのだ。田所へ救出したきりのパンを差し出す。

「そこって昼夜の関係ない仕事場なんだよね。だからあの日も急に呼び出されて、一仕事終わったら朝になってた。タドコロが送ってくれるっていうのを断ったのはなにも会う予定とか、そんなじゃないよ」

 聞き入る田所の表情はやはり冴えない。けれどパンだけは受け取ってくれる。

「ホントだよ」

 その瞳を百々はのぞき込んだ。

「一晩中、ストーカー、追いかけるのが、か?」

 聞かれてしばし首をかしげる。

「ちょっと、違うけど」

 いやずいぶん違うが、このさいある雲泥の差は無視するに限った。

「あの朝は仕事場から送ってくれただけだよ。すごく大変な後だったから少しはいい気分でお疲れ、ってことにしたいと思うじゃん。タドコロが勝手に勘違いし過ぎるんだよ」

 それでも疑うならもう説明のしようがないと思う。追い詰められて気持ちは張り詰め、だからこそ伝わったのか、やがて詰まっていた田所の眉間から余計な力は抜け落ちていった。逸れて目が、コーヒーまみれの机を一瞥する。

「だったら確かに俺、お前から何も聞いてないもんな」

 惨状にうんざり息を吐いたその後で、あらため百々へと投げかけた。

「百々はつまり俺に、期待してもいいってことを言ってるのか」

 そこにいつもの笑みはまだ戻らない。

 だとして確かに勘違いを正せばそれは投げかけられる問いで間違いなく、おかげで百々の熱もまたぶり返す。

「え、えっとぉ。タドコロはさ、ここの先輩で。いろいろ教えてくれて、その、気の合う友達、って感じで。でも嫌いじゃないから一緒にいて楽しいし。そんなさ、就職蹴ってまでここに残るとかって言われても……」

 とにもかくにも絞り出せば、しどろもどろに拍車はかかった。見る間に言葉は先細って、やがて拾い上げられなくなる。ならば結論へ辿り着くことこそ、到底、不可能でしかなかった。

「……ごめん。まだ、よくわかんなくて」

 そもそも選択肢が二つしかないことが問題なのだ。

「だってタドコロも監督みたいに急だもん」

 突き返せば振り回されて閉口していた田所だ。憎まれ口こそ返してこなかった。

 バラバラと、ソロで回り続けるフィルムは今日に限ってひどく荒い。

 二人して黙り込む。

 あてのなさへ決着をつけたのは田所だった。

「俺もやめないし、お前もやめない」

 言葉へ百々は顔を上げる。

「なら時間はあるってこと。いいよ、待つから」

 こめられた優しさこそ百々にも十分伝わっていた。

「そんなの、急げって言われても無理かもしれないよ」

 だのに懐疑的になる自分が嫌だ。

「ま、人の気持ちって、そんなもんじゃね?」

 それもこれもをさらりと流す田所は、そうそう、といつものトーンを放ってくれる。

「就職のことは気にするなって。アレ、叔父さんの会社だから。人手が足りないんで来てくれってやつ。こっち続けたいって言ったら、気が向いたらいつでも声かけてくれってさ。って、だいたい俺、今から経理とか向かないと思うんだけどな」

 明かすものだから、おかげで百々も帳簿をつける姿なんぞを思い浮かべてしまう。

「それ、すっごく似合わないけど」

「だろ。あのおじさん、人を見る目がないんだよな。あれで会社、大丈夫か」

 もれる笑いが、わずかながらもいつもを呼び戻していた。

「あ、やべ。仕事、始まるわ」

 逃さず田所が手首をひねる。時刻を読めば、百々の端末もトートバックで震えたようだった。気づいたところでおおっぴらにできないシロモノならば、タイミングは絶妙というほかない。

「ああ、ここあたしが片付けとくよ。タドコロは急ぎな」

「お。んじゃ、任せた」

 制服に散ったコーヒーの汚れはきっと動いていれば分からないだろう。田所も遠慮なくフロアへと上がってゆく。

 いつも、こんな調子だったろうか。

 見送りながら百々は自身へ問いかけていた。

「違ってないよね」

 気持ちを入れ替え、トートバックをまさぐり端末を取り上げる。どうやらメールが届いたらしい。

「待機って聞いたとこなのに」

 だが開けばなんてことはない。今日はあちこちからお呼びのかかる人気者、というわけだった。ハートからのメールには、百々も帰りに通る駅前の繁華街、その一角に立つビルで午後七時に待つ、と書かれている。文末には遅れるな、と添えられており、何をや百々の心をざわつかさせた。

「な、なんだろ。爆弾解除の特訓、とか」

 蒜山バスの中で戻った時はイロハを教えてやる、と言われていたのだ。

「遅れたら爆発する、とか」

 悲しいかな、妄想がもうネガティブな方にしか膨らまない。

 田所の遅番シフトが始まった今、時刻は六時を過ぎている。遅れるわけにゆかないなら急ぎ百々はコーヒーの後始末に取りかかった。あいだ足が[攣|ツ]ろうと両足でないなら御の字だ。『20世紀CINEMA』を飛び出し、待ち合わせの場所へ急ぐ。ネオン管が奇抜なアーチを作る雑居ビル、その奥に立てかけられた「ヒッキーズダイニングバー」と文字を並べるドアの向こうで、これでもかと伸びるチーズを舌先で絡め取っていた。

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