第31話

 経て目にしたのは色褪せた看板だ。

「遠すぎるよ、20世紀」

 放つ言葉は哲学的と響いたが、当の本人がボロボロなら知的な雰囲気は微塵もなかった。悪魔のような階段ダッシュの後、百々は、やっとの思いで『20世紀CINEMA』に辿り着く。

「おはようございます」

 これでも一応は「業界」だ。カウンターに立つ橋田とバイト仲間へ、昼夜関係なくかわされる挨拶を投げかける。なら来ることは橋田にも伝えられていたらしい。

「おはようございます。支配人が奥の休憩室にいるからと。さっき始まった所じゃないですかね。希望シフトの提出もまだだったと思いますけど、ソッチは帰り際でもかまわないので先に聞いてきてください」

「すみません。うっかりしてて」

 などと日々はそれどころでない過激さだったが、理由にできる接点こそ双方にない。

「大事な話らしいですよ」

 あえて付け加える橋田は意味深だ。解せぬままトートバックを肩へ掛けなおす。百々はカウンターの内側へ回り込むと、鉄扉を引き開け事務所の中へ足を踏み入れた。とたん耳へカタカタと、いやバラバラの方がしっくりくるか、映写機の音が大きく耳へ飛び込んでくる。丸められたポスターは目の前の壁際、新旧いとわずこれでもかと箱にさされており、その奥にスチールデスクは置かれていた。二つ、向かい合わせとなったその周りには、出番を待つチラシやパンフレットに配給会社から送られてきた販促グッズが段ボール箱のまま積み上げられている。すり抜けて伸びる通路の片側、壁にはホワイトボード吊られると、相変わらずの殴り書きでスケジュールは書きこまれていた。そのどこにも人はいない。傍らに通り抜ける。突き当りの壁に置かれた不自然としか思えない踏み台は映写室へ上るためのもので、真下に半地下状態で休憩室は設えられていた。

 通常の三分の二ほどの高さしかないドアを前に百々は足を止める。橋田が言う通りだ。向こうから微かに水谷の話し声は聞こえていた。映写機の音を考慮するならノックは力強くが鉄則だろう。力を込めて拳を振る。中の声が止んだところで引き開けた。

「失礼します」

 当然ながら窓はない。広さといえば六畳あまり。足元からは階段が数段伸び、降りた穴ぐら同然のそこに机だけが押し込まれている。前で腰かけていた水谷が振り返ってみせていた。

「あ、百々君。いいタイミングですね。待ってましたよ」

 おはようございます。

 百々も頭をさげかける。

 かなわず飛び上がりそうになり押し止まった。

 そう、机を挟んだ水谷の向こう側だ。憮然とした面持ちで田所は座っている。すっかり忘れていた。と言ったところでそれはあの夜、交わしたやり取りについてではない。今日、田所が遅番シフトだったという事実についてだ。

「これで話は一度ですみそうですね。こちらへ座って下さい」

 だのに何も知らない水谷は、堂々百々を田所の隣へ促す。

 あまりの不意打ちに回れ右で逃げ出したい衝動は山ほどか。できないならぎこちなさも最大値となる。渋々、百々は隣へ足を進めていった。

「おつ」

「お」

 投げてすぐ、それ以上の短さで投げ返してくる田所をチラリ、盗み見る。腰を下ろせば、じゃあもう一度、最初から、と断りを入れた水谷は、さっき配給会社から連絡がありましてね、と話を切り出していた。

「本年度のアカデミー賞、作品賞と監督賞、主演女優賞に撮影賞、来週から上映のバスボムがノミネートされることになりました」

 それは友人の結婚を知らされた時の気分そのものだ。朗報は突然で、思わず百々から、わぁ、と声は上がる。

「これは今日の夜にも公式発表される内容です。伴い今、至急、文言の入ったチラシとポスターを手配してもらってます。そうですね、明後日の先行上映には間に合わないとしてもロードショーには必ず間に合う具合かな。その点では20世紀のみんなに手分けしてもらってチラシの差し替えやポスターの張りかえ、サイトの情報更新、期間が短い分、ちょっと頑張ってもらおうと思っています」

 出来ますか、と身を乗り出す水谷の笑みは少々意地悪だ。すぐにも緩めて冗談だったと先を続けていた。

「作品はもともとがミニシアター系なので、この辺で上映するのはウチだけですし、問い合わせも殺到するだろうことを予想しています。前作の動員数から考えるに上映が始まれば、おそらく今回もてんやわんやになるでしょう。その辺り、十分覚悟しておいて下さい」

「はぁ、てんやわんや、ですか……」

 なにしろ一度だろうとまだ味わったことがない。状況は想像の域を出ず、だから膨らむ光景はといえば「20世紀ICNEMA」へ押し寄せる期待に満ちた顔に顔だった。あふれたところで感動冷めやらぬ面持が、入れ違いとシアターを後にしてゆく。入り乱れて渦巻くフロアは揺れに揺れ、活気に熱気を放っていた。心臓部と『20世紀CINEMA』もまた息を吹き返してゆくようで、百々の脳内、あの日、目にした光を放ち始める。

 これだ。

 息をのんでいた。 

 この興奮を待っていたんだ。

 それはアルバイトを決めた時、求人ポスターが放っていた輝きであり、その輝きに夢見て広げた光景だった。

「すごい、かも」

 呟く。

「……違う、すごいっ」

 言いなおして田所へ振り返った。

「すごいね。バスボム、やっちゃったんだ」

 自然、持ち上がってゆく頬を止められない。田所も得意満面と、アヒルと口を尖らせていた。

「それを受けて明後日の先行上映会に急遽、スタンリー・ブラック監督の舞台挨拶が行われる事が決定しました。ここまで話してたんだっけね」

 確かめる水谷が田所へ視線を向ける。どうやらそれが憮然と見えた田所のワケらしい。一転して深刻な表情となった田所がうなずき返してみせた。

「え、誰かここへ来るんですか」

 問い返す百々へ、肩をガクンと落とす。

「ブラック監督がウチへ来る、って今聞いたろ」

 いや、その言葉並びが百々の理解を越えていたのだ。

「あ、ああ、そっか」

 だからしてピンと来ないままとにかくうなずき、うなずき返したその後で百々はようやく事態の把握に至る。

「ええぇっ、それって先行上映に監督か来るってことですかぁっ」

 返す水谷の笑いこそ苦い。そっちのけで百々は、田所の制服へ掴みかかっていた。

「すごいよ。タドコロっ、アカデミー賞が来るんだってっ。オスカー監督だよっ。しかも海外からきちゃうんだよっ。こんな小さな映画館にだよっ。すごいよっ。げーのーかいだよっ」

 首ももげんばかりに揺さぶる。だとして先に聞かされていたのは田所の方で、反応こそ鈍かった。

「あのさ、アカデミー賞は来ないし、オスカーはまだ取ってないだろ。発表は来月。それにその、げーのーかいって、なぁ」

 それを言うなら映画業界だ。言いたいところをぐっと飲み込み、脱げそうに落ちたジャケットの肩をぐい、と引き上げる。水谷も、まぁまぁ落ち着いて、となだめて話を元へ戻した。

「で、ですね。もちろんブラック監督のお出迎え等、応対はわたしの方でする予定ですが、その際のお手伝いを百々君にお願いしたいと思っているんです」

「へ?」

 田所のジャケットから掴んでいた手も離れる。

「どうでしょう、お願いできますか」

 この反応を見たらすぐにも前言は撤回すべきと知れたが『20世紀CINEMA』の人材がそれほど潤沢でないこともまた、動かしがたい事実だった。

「あ、たしがですか。社員の橋田さんは」

「それが次の上映作品の手配で出張になっちゃってて、都合がつかないんですよ。当日の混雑を予想したらそれでなくても人手は欲しいところなんですけど。なにしろ急だったですからねぇ」

「え、英語とか、喋れませんけれど」

 近頃この手の不安が絶えない。

「それは気にしなくてもいいですよ。向こうも専属のスタッフを連れて来られるということですし、その中には通訳の方もおられるそうです。それにブラック監督自身かなりの日本ツウらしいですからね。簡単な日常会話ならできると昨日、わたしも知らされました」

 などと話に胸をなでおろせばもう、それは引き受けたも同然のリアクションとなる。

「この急な舞台挨拶も、ちょうどお忍びできていた日本旅行中に発表が重なったせいで、監督の思い付きから推し進められた話だということです。でないとたった二日でスケジュールの調整なんて、なかなかできる人ではないですからね。ま、滅多にない名誉なことです。ここはひとつ踏ん張って成功させましょう」

 隣で田所も渋い顔のままうなずいてみせていた。

「つきましては百々君には控室のセッティングをしてもらったり、お茶を出してもらったり、雑用になりますがその辺りをお願いしようと思っています。百々君の履歴書を確かめたところ、喫茶店でアルバイトをしていた記載がありましたし。慣れている人の方がブラック監督への失礼もないんじゃないかと」

「どうする。お前、やる?」

 横目で田所が確かめる。

 だとして丁度とセクションCTからは待機も命じられており、この役得を突っぱねる理由こそ百々にはなかった。

「だって、せっかくだもん」

 つまりあの階段ダッシュは有名人と謁見するための代償だったのか。違っていたとしても、しごき万歳。天晴無能。体の痛みもなんのその。たとえ二日後が筋肉痛の頂点だろうと世には捨てる神があれば拾う神があるのだということを、百々はスルメのごとく噛みしめる。噛みしめ今日一番の声を上げた。

「あたし頑張ります。支配人、やらせてくださいっ」

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