第26話

「えっと、最後の方いらっしゃいますか」

 左の最後尾だ。窓際の席に外を眺めて腰かける老婆はいた。華奢なその姿が淡くも輝いて見えたのは、ウェーブのかかった白髪がプラチナのように輝いているせいだろう。化粧もうっすらほどこした彼女は、落ち着き払った物腰のみならず、どこか浮世離れさえして見えていた。

「順番です」

 目線を合わせるように身を乗り出し、百々は声をかける。

「あら、迎えに来てくださったのね」

 振り返った、それが彼女の一言目だった。

「でもわたくし、足が悪いの」

 足元の、レース編みが繊細な藤色のひざ掛けをつまみあげてみせる。

「ここに残るわ」

 言うものだから百々は声を裏返していた。

「……はひ?」

 我に返ると慌てて両手を振りに振る。

「だっ、だめですっ。そんなの理由になりませんっ」

 だがもう彼女は外の景色を堪能している。様子は防音壁で囲まれたここ高速道路を、ヨーロッパの田園かきらめく地中海へと変えていた。そんなワケなどないなら百々は、その場に屈むと突き出した肩で誘う。

「お貸しします。つかまってください」

「いつもは車椅子なの」

 返すきびすで背中を向けた。

「おんぶっ」

「いいえ。わたくしがお願いするのは殿方だけと決めています」

「なんですかっ、それはっ」

 伸び上がったところで彼女に「結構」とあしらわれる。

「あなたの力量が信用ならないからです。それに、たとえ歩けたとしてわたくしはここを動く気はありません。あなた、警察の方でいらっしゃるんでしょ。お気遣いは無用よ。お仕事、かまわずお進めになって」

 それきりだ。彼女は再び窓の外を優雅と眺めた。

 様子に百々のアゴこそ抜け落ちる。

「なんとか連れて来ていただけませんか。こちらが手を割くと受け取り側が不安定になります。足の不自由な方ならなおさら危険だ」

 レスキュー隊員の声に、元の位置へと押し込みなおした。いや確かに頼りにされているのは自分の方で、それが目的の車間移動だったはずだ。百々は気合を入れ直す。

「わっかりました。やってみますっ」

 座席と彼女の間へやにわに腕をもぐり込ませた。

「しっつれい、しまぁっすっ」

 なんのこれでも日々『20世紀CINEMA』で、カラー刷りパンフレットにチラシを何十部、何百部と持ち運んでいるのである。見た目で三十キロそこそこしかなさそうな彼女なら持ち上がるやもしれない。いや、持ち上げてみせる、で気合をぶつけた。

「ふっ、た、かっ、ごおぉっ」

 が、わずか数秒だ。彼女の体は微動だにせず、百々の息だけが上がって全ては終わる。

「て、笑ってる場合ですかっ」

 溶けゆく百々を一瞥した彼女の笑みに歯を剥いた。

「分かりました。健常者収容後そちらへ向かいます」

 レスキュー隊員が判断を下す。結局これでは足手まといで役立たずのままだ。だがぐうの音も出ず百々は、空を仰ぐと「お願いします」で声を張った。

 と、視界の端で何かは動く。

 気づき百々は頭をひねっていた。

 目にして思わず息をのむ。

「……は?」

 レフだ。

 リアの窓ごし、ノーヘルで白バイにまたがり猛然と追い上げてくる姿はあった。

「どう、してっ? 乗ってる物も違ってますけどぉっ」

 フワリ、バイクが傾ぐ。隣りの車線へ流れるように移動していった。吸い寄せられて百々も窓へ貼りつく。なら振り向いたレフの口はパクパク動いた。だが叩きつける風にマイクはただの飾りでしかない。叫ぶレフの声こそまるで聞こえてこなかった。

「何っ」

 開いた窓から百々は顔を出す。

 アゴを振るレフは後方を指し示した。

「開けろッ」

 辿ったそこに貼られているのは「非常口」の文字だ。こうなれば意味するところを読み違える方が困難でしかない。

 乗り移る気だ。

「本気っ?」

 悟って百々は確かめる。果てに愚問だったことを思い知らされていた。

「……の顔だぁっ」

 レスキュー隊員を押し止める。普段は座席と使用されている非常口へ駆け寄った。そこに貼られた手順はたった二つだ。目で追いかけて図式通りにレバーを掴み座席を倒した。現れた非常口のハンドルをこれでもか、と回しに回して回し切り、動かなくなったところで握りなおす。

「ココ、出口専用なんですけどっ」

 押し込めば非常口はスムーズと浮き上がっていた。とたん隙間からどうっ、と風は吹き込んで、圧に全開と開く。勢いに百々こそ外へ放り出されそうになり、バスにしがみついていた。

 前へとバイクは近づいてくる。

「邪魔だ。どけッ」

 怒鳴るレフはもうバイクから片足を抜いていた。

 目にして百々は飛びのくように場所を譲る。

 バイクが激しく蛇行していた。蹴り出したレフの体は確かにいっとき宙に浮き、肩からだ、バスの中へと転がり込んでくる。体当たりさながら向かいの座席へ体を打ち付けていた。勢いにも音にも百々は声を上げ、まもなくレフは身を持ち上げる。それだけだ。騒然としたこの空気も、ふらついた足元も、もう次の瞬間には歪んだ襟ごと整えなおしていた。

「バイクの交渉に手間取った」

 いやまず、イタイ、とかなんとかないのか。思うからこそ百々も顔を引きつらせる。

「あは、は、は。だってバイク、あれだもん、ね」

 はるか後方、もんどりうったバイクはいまやスクラップだ。

「それどころじゃないっ、あのおばあちゃん歩けないし、ここから出たくないって我がまま言ってます。扉前までお願いしますっ」

 ご協力いただいた持ち主のためにも指さす。

「聞いていた」

 見定めたレフが足を繰り出していった。

「……ったく、知り合いに空軍がいて助かった」

 すれ違いざまこぼすものだから、言うほかなくなる。 

「あのバイク、一体、何と交換したんですかっ」

「まあ、驚いたことをなさる方なのね。その要領で力づくというわけかしら。屈辱的だこと」

 彼女も呆れた様子だ。近づいてくるレフへ薄い眉を跳ね上げていた。とはいえ今はやむなしだろう。何しろ命がなければ人権もないのである。なにがどうだろうとサッ、とさらって、とっとと降ろす。これが正義というものだった。だがレフはといえば彼女の前で腰を落とす。あろうことかひざまずいてみせていた。

「マダム、ご協力願います」

 セリフに百々の脳天で毛こそ逆立つ。

「いいえ、わたくしは間違えていません」

「では理由をうかがいたい。これは我々の義務であり、わたしの仕事だ。引き下がるなら理由が必要となる」

 始まった問答に、空へ爪を立てると目玉を白黒させた。

「わかりました。いいでしょう」

「ぜんぜん、よくありま、せえぇぇんっ」

 わめけど彼女は滔々、話し出す。

「この旅を言い出したのはわたくしです。大事な人と巡り合えた。その思い出を残したいと皆へ声をかけました。それをいい年をしてと世間体を振りかざす」

 鋭い視線がレフへ投げられていた。

「分かっていましてよ。あたしの生き方は恥ずべきだと言い負かしたい。それがこの騒ぎというわけですね」

 タケシに頼まれて邪魔しに来たな。

 声はやおら百々の中へ蘇って来る。

「屈しろとおっしゃるなら、そもそも偽りない思いを恥じて一体何が恥ではないというのですか。従わせるべくこのような行為こそ恥ずべく愚かな行いです。応じて自らを貶め、名誉を傷つけてまで生きてゆくつもりはありません。信ずるところは曲げない。それがここに残るわたくしの理由です」

 ままにレフを見据えたなら、意思の強さは躯体の大きさになど関係なかった。

「人などしょせん泡のようなものです」

 ゆるめてぽつり、彼女はとこぼす。

「この身はいずれ弾けて消える。老いたならなおさらわかるそれが現実です」

 響きは百々の記憶をはたまたくすぐった。

「なら守るべきは弾けた後も残るものではありませんか」

 問われてようやく像は目の前へと立ち上がってくる。

「バス、ボム……だ」

 年齢規制などかかる余地もない現状の、天と地ほどの差もある年齢差だったが、彼女は己に正直だからこそ奔放だったあの主人公とピタリ、重なっていた。おかげで映像に引きずられることなく映画は百々の中へすとんと落ち、「偽ることのない思い」というくだりが激しく明滅する。

 その片隅で田所がまた、がっかりしたと百々へこぼしていた。あのとき即座に正せなかったのは動揺したせいにほかならない。だからといって居心地悪さに放り出して逃げてしまえば、彼女が嫌うとおり自らの名誉は汚されたままになるハズだった。それは互いが顔を会わさなくなればなるほど拭い難くなるだろう。そして正す者のいなくなった記憶はやがて真実と、田所の中に深く息づく。

「弾けた後に漂う香りが、魂という香りが大切なのです」

 気づけば食い入るように聞いていた。おかげで百々はその名を聞き逃しそうになる。

「タケシは、春山タケシはわたくしの孫です。仕掛けたのはその子ではなくて」

 まさに二度見だ。彼女の顔をとらえなおしていた。果てにやはりモザイクが欲しい、と思えるだけの過激なセリフは浴びせられる。

「ええ、吹き飛ばしたいなら吹き飛ばせばいいのです。引き下がるつもりはありません。ここにはあたしの生き方が、これまでの人生がかかっているのです」

「わー、だめだめだめっ」

「ならば貫くことで我々を危険にさらすことも、あなたの生き方の一部だと言うのですか」

 百々が連呼し、食い下がるレフも詰め寄っていた。

「早くしてください。前方に車が見え始めてます!」

 前でついに運転手の悲鳴も上がる。

「間に合わん。ドド、手順を説明するぞ」

 イヤホンからだ。ハートの声が促していた。

「あっ、あたしが解除するんですかっ」

「そうだ。そこの白騎士は役に立たん」

 言われて百々はレフを見上げる。なるほど確かに白馬ならぬ白バイにまたがり現れた、それは白いニットの白人だ。そして生粋の姫はとてつもなくテオオンバときて手が離せそうになく、何より断った地点で百々自身、吹き飛ぶパーセンテージは各段に跳ね上がっていた。

「だ、が。わっ、わっ、かりました」

 言うほかない。そして言ったからこそ肩をいからせきびすを返した。開きっぱなしのハッチの前に、覚悟を決めて腰を落とす。

「これって危険手当とかつくんですよね」

「そうだ。期待して張り切れ」

 などとハートの返事はもう安請け合いにしか聞こえてこない。

「……それは、違います」

 混じり、彼女が絞り出していた。

「それもまたあなたの生き方であれば、あなたが守りたいものは結論のみにあるのではない。その姿勢を崩さない限り、たとえここで引き下がったとしても損なわれるものなどないはずだ」

 こうも切羽詰まった時にする、それは話か。理屈を追えば百々の頭は混乱しそうになり、心の中で、ぎゃー、と叫んで振り払った。

「でっ、どうすればいいんですかっ」

「電池ボックスには触れず、基盤脇のテンキーパネルを確認しろ」

 基盤の片隅には二つ三つ、よけいにキーを押してしまいそうなほど小さなパネルが貼り付けられていいる。

「解除番号を放り込め」

 イエスサーで尻ポケットから端末を引っぱり出すと、百々は確認しかけてそれきりだった解除番号を呼び出した。

「ながっ!」

 言わずにおれないそれは、この期に及んで四桁ずつで区切られた悪意さえ感じる二十桁もあるランダムな数字だ。

「わたくしを理解している。あなたはそうおっしゃりたいわけなの」

 別世界と彼女が背で問い返している。

「侮辱するつもりはない。だからこうして協力を待っている」

 なら自分にも援護を。百々は心の中で毒づき、かなわぬなら奥歯を噛みしめテンキーパネルへ指を伸ばした。触れかけて震えていることに気づき、かじかむ手を温めるようにひっこめ胸元で今一度こすり合わせる。

「まだですかっ。早く、早くして下さいっ!」

 運転手も地獄の一丁目を走行しているらしい。

 そしてそれを最後に背で会話は途切れていた。

 おかげで気が散らないなら今しかない。百々は基盤へかじりつく。間違えたならゲームオーバーだ。区切られた四桁ずつをありえぬ慎重さで入力していった。

 はずが、邪魔して落ちる影は何の影か。見えない。怒りぶつけて頭上を仰ぐ。そこにむしろお前こそ邪魔だ、言わんばかりにまたいでゆくレフの尻を見つけていた。

「ちょ、ったっ」

 喚けば通路は狭すぎ、後頭部なんぞを蹴られてみる。

「なっ、なんなのよぉっ」

 言うが戦意こそ続かない。目にした光景にことごとく削がれ百々は萎えていた。

「……し、下々は蹴られます、です。はい」

 ほどに、かなわない。のぞいた横顔は幾つになってもけがれなき姫そのものと、レフに抱え上げられた彼女はひざ掛けをドレスとなびかせ移送車へ向かっていた。待ちくたびれたレスキュー隊員が、その小さな体を受け取る。移送車へ慎重に引き入れていた。とたん辺りへ舞い戻る世俗こそなんなのか。

「ぼっ、僕はどうなるんですかっ」

 あられもなく顔を歪めた運転手がツバをまき散らしている。

「解除できるのかッ」

 容赦ないレフが百々へと声を張り上げていた。

「しかないでしょっ。あたしは運転できないんだってばっ」

 その態度の差は何だと言いたいが現状、噛みついても意味がない。百々は返し、否やレフは運転手を引きずり下ろした。抱え込むほどのハンドルを代わって握り絞める。

 やがて隣り合う車線から運転手を格納した移送車は後退していった。車内からついに一般民間人は消えてなくなる。

「番号、入った」

 閑散としたバスの中、百々の声がやけに響く。 

「上出来だ。これで止まると理論上は言うが、念のために物理遮断もするぞ。見えるコードの両端から三本づつを手繰れ」

 間違いないだろうな、などと素人相手にネガティブなことを口にしないハートはやはりプロだと言えた。ままに淡々と次を促し、百々も淡々、基盤から下がるコードを手繰る。

「揺れるぞッ」

 詰まり始めた車間をぬい、バスが隣りの車線へ飛び込んだ。

「だひゃっ」

 振り回されて百々はつんのめり、とにもかくにもコードだ。身を起こすと右左から三本づつを手繰りなおす。

「これで最後だ」

 言うハートの声はお守りに近い。

「ドド、中央に残った一本を切れ」

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