第21話

 バスボム。

 バスタブに投入すればぶくぶく泡を吹いて湯船をたちまちパステルカラーに変えるお風呂の友。それが昨晩観た、次回上映作品のタイトルだった。

 そこから連想する物語はメルヘンチック、もしくはファンタジックなものだろう。だが実際、映画はR指定。作品を発表するたび話題を呼ぶ巨匠、スタンリー・ブラック監督と、監督に発掘されてこれがデビュー作となる謎の新人、ナタリー・ポリトゥワのタッグも話題沸騰な、芸術と謳うからこそモザイクのなしのめっぽう過激な作品だったのである。

 真夜中、知った顔と並んで見る映画でないことだけは間違いなく、明かりの灯ったシアターで百々はひたすら乾いた笑いを放っていたのだった。

「あ、あは。こんな映画だったんだぁ」

 前回同様、田所はそんな百々の隣にいる。

「ポスター、道に貼れるのか」

 言う目は、手元のチラシを吟味していた。百々も急ぎ、わいせつ物陳列の罪に問われないですみそうな具合にタイトルを配置したそれへ視線を落とす。

 だがこの映画、彩る光の扱いがとにもかくにも幻想的と巧みな作品で、その中を主人公は偽ることなく自身の思いに率直と跳ね回ったなら、時代を先行く異端者の過激ながら妖精の如き美しさに目を見張る作品でもあった。結果、主人公は周囲との溝を深め、生死を問うまで心を病んでゆくことになるのだが、散りばめられた過激な映像がむしろこのとき主人公の純粋さを際立たせると、ひいては自由と解放、偏見といわれなき集団からの圧力を観賞者へと印象付ける。気づけば上映も終盤、どっぷり彼女へ感情移入してしまうあたり、己が価値観の棚卸をせざるを得ず、なぜ全年齢対象にしなかったのか問わずにおれない良作でもあったのだった。

「あれだな」

 田所が口を開く。

「え、ど、どれっ」

「タイトルがまだこれで助かった」

「ああ、タイトルか」

 じゃなきゃ何だ。

「あれ、どうしました」

 などと二人の間へ入ってきたのは例のごとく水谷である。

「今日は鑑賞後の会話が弾まないみたいですねぇ。なかなかの名作だったじゃないですか」

 一言多いが事実なのだから仕方ないだろう。

「はいはい、じゃ、預かりますよ」

 メモを回収すると、ペラペラめくって内容へ目を通す。最後ぽん、と手のひらへ、打ち付けたなら、ハイ、お疲れ様、と声をかけた。

「帰り道にでもちゃんと話し合っておいてくださいね。ただのポルノ映画だと宣伝されちゃ困りますから」

 それはよく分かっているのだが、なかなか目に焼きついたものがそうはさせてくれそうにない。するとシアター後方、映写室ののぞき窓に映写係、松川の顔はのぞいた。コンコン、と弾くガラスで水谷を呼べば、見上げた水谷はいかにも失敗した、といわんばかりの顔で手を挙げ映写室へと小走りになる。

「セ、セクハラだ」

 きっとセクションCTのことを漏らさないからに違いない。確信は拭えず、ままに着替えをすませた。帰り道、ヘルメットを抱える田所と百々は再び肩を並べて通りを歩く。

「ああ、上映はじまっちゃったらあの映画、最低でも二週間は流れるんだぁ。辛いなぁ」

「まぁ、それが飯の種だからな」

「けっこうみんなには見に来てって宣伝してんだよ。けどこれじゃ言えないしさ。選ぶのは支配人だって分かってるけど、うちは普通の映画館じゃなかったっけ」

 『20世紀CINEMA』が入るテナントビルを駅側へ回り込んだ先、雑居ビルとビルとの間だ。自動販売機が明々光を放つガレージの入り口は見えていた。入れば片隅に、ずいぶん無理をして買ったという田所のカワサキのスポーツ二輪は立てかけられている。

「けど良いことは良い映画だと思うな。オスカー初のR指定候補だって話だし。支配人の読みは間違ってない。ただ……」

 歩み寄った田所はそこでフルフェイスのヘルメットへ頭をねじ込んだ。いでたちは宇宙にでも行きそうな具合で、顔へ百々は眉をひそめる。

「ただ、なに」

「それで賞でも取ったりしたら凱旋上映とかあるかも、ってこと」

「ええっ」

 のけぞり握り合わせた手で百々は一心不乱と放つのは、ありったけの呪いだろう。

「当たるな。当たるな。当たるなぁっ」

「それ、営業妨害」 

 投げた田所はバイクへまたがる。

「だって主人公が、ぁ……」

 懲りず百々は言いかけるが、その先は不意に飛び出したあくびに遮られていた。

「ぁふ。今日こそ寝よ」

 田所の手が、バイクへ挿したキーをひねりかけて止まる。改めひねりなおすと蹴り出す足でスタンドもまた跳ね上げた。

「お前だって、そうも言えないんじゃないの?」

「ん?」

 軽く身震いしたバイクは熱いガスを吐き出している。聞き違えたようで百々は目尻に浮かんだ涙を拭いつつ田所へと首を突き返した。

「……今、俺さ」

 言う田所はそこでアクセルをふかせている。目は、そのたびに振り上がるタコメーターの針をじっと見つめていた。

「映写、教えてもらってるんだよな。昼間はカウンターがあるし。朝、早い時間帯に。今日も同じ」

「えっ。それってスゴイじゃん」

 そう、フィルムは肝心要の大事な商品だ。水谷が認めた者しか触れることは許されなかった。

「じゃ、今日、遅番だけじゃなくて中抜けシフトだったんだ」

 お疲れ様。

 知らずにいた百々は頭を下げる。

「お前さ」

 向かって田所は投げていた。

「駅前で車から降りてたろ。俺、バイクで前、通ったんだよ。送ってやるっていったのに断ったのは、そういうことだったんだよな」

 響きは思いがけずぶっきらぼうで、少なからず百々は驚かされると顔を上げてゆく。タコメーターから逸らした視線田所は、そんな百々をチラリ、ヘルメットの奥から盗み見ていた。

「あれ、ストーカー騒ぎの時の男だろ」

 言う。

「あの騒ぎ、あんまり話さないからおかしいな、とは思ってたんだ」

 その通りだ。春山の件は、そこに居合わせたそれぞれへ百々目当てのストーカー騒ぎだった、と説明されている。そんなウソでさえ蒸し返さなかったのは、蒸し返したところで言えない事だらけであったし、言えないことだらけなら田所が忘れてくれることを待っていたからに他ならない。

「知って驚いた。やっとひと月、経ったくらいの話だしな」

 だが続ける田所は、明らかに様子が変だった。そもそもだ。百々には田所が何に驚いているのかからして分からない。おかげで瞬きは増え、飽和したところでようやく焦点の合った像に、百々は声を上ずらせていた。

「どぉっ。ああぁっ。ええっ?」 

 そう、田所が言わんとしているのは「男の車で朝帰り」だ。

「俺も馬鹿だからさ、間抜けた後輩が気になって就職の話、蹴って残って、映写までやる気になってさ」

 だというのに田所は言い始める。

「それはそれでいいんだ。何も言わなかったのは俺だし」

 きっと今、地球は全力で逆回転していた。

「けど俺、わりかし古いみたいで。映画じゃないなら正直、お前にがっかりした」

 打ち消して正転中と、バイクのヘッドライトは灯される。灯した手で田所はヘルメットのサンバイザーをカシャリ、下ろすとこれでもか、といわんばかりエンジンを二度、ふかせた。果てに百々へ気抜けたような挨拶を投げる。

「じゃな、気をつけて帰れよ」

 放されたブレーキに空回るタイヤが白煙を吹き上げていた。ひきずりバイクはガレージから飛び出してゆく。

「ちょ」

 追いかけ振り返ったのは、せめてその一言だけでも聞いてもらいたかったからだ。

「ちょっとタドコロ、それ……」


「ちがーうっ!」

 叫んでいた。

 大声に弾かれレフが振り返る。怪訝を越えたいかつい視線は明らかな警戒モードだ。解くことなく、懸命と文字を書きなおす百々の手元をのぞきこんでいった。

「字を間違えたくらいで叫ぶな。驚く」

「そうですね。これじゃ検定会場にもいられないもん」

 なにしろ何も悪い事など、後ろめたいことなど、何一つとしてしていなかった。むしろあの夜は悪党と闘っていたのだ。などと言えばコントのような響きは拭えないが、それなりに自分は危険と対峙していたのである。

 だからといって対テロ組織に加わっているなどと、あの朝に至ってはテロリストを捕まえるために夜っぴいて工事現場でクレーンをぶっ倒し、挙句、テログループが明日にも重要なプロパガンダを公表するかもしれないくだりを知ったのだ、などと言えはしなかった。そもそも口外することは許されていなかったし、加えて信じてもらえるよう説明できる自信こそ百々にはなかった。

 幸いなことを言えば次に田所と同じシフトへ入るまで数日ある、と言う事実だろう。動揺の始末をつけるにはギリギリの、それは期間でもあった。だとしてこれから田所へどんな顔を向ければいいのか。それが全く分からない。

「そのうえ反省文って」

 ついぞ独り言はもれていた。

「あたしは……」

 その口へかませる栓があれば欲しいところだが、ないのだから前後なき咆哮は再び放たれる。

「悪いことなんてして、なぁーいっ!」

 と、本を閉じる音は隣から聞こえていた。

「……一度、休め」

 下ろしたまぶたでレフが言う。

 開かせて、そのとき部屋のドアは開いていた。

「喜んで、ここでの仕事は一旦保留よ。今すぐ高速に乗って」

 ヘッドセットを装着した曽我だ。放つや否やレフめがけ、携えていたホルスターごと銃を投げる。

「高速?」

 受け止めたレフめがけ、おっつけ車のキーも宙を舞った。

「詳細は移動中に」

 それもまた掴んだレフの手が、銃の動作を確かめる。

 なら百々も確かめずにはおれないだろう。

「それって SO WHAT ですか」

「ここはそれ以外では動きません」

 返す曽我はどこか誇らしげだ。

「恩に着る」

 上着でも羽織るようにホルスターを背負い上げ、レフが立ち上がった。

「わたしはオフィスで遊んでいる人員がいることを進言したまでです。判断はチーフが」

 ドアまでひとまたぎもなく、告げる曽我の傍らをすり抜け部屋を出てゆく。

「あっ、自分だけズルいっ」

 一部始終を見逃せはしない。百々もトートバックを掴み上げるとその後を追いかける。 

「いえ百々さんは……」

 頭数に入っていない。言いかけた曽我の脇を脱兎のごとくくぐり抜けた。その足は案外、速いらしい。追いかけ曽我も角を折れると通路へ出るが、その頃にはもう閉まりつつあるエレベータの中でレフと肩を並べている。

 どうしたものか。

 思案して曽我はしばし空を睨んだ。

「ま、いっか」

 吐き出しマイクをつまみ上げる。

「聞こえてる? 春山の仕掛けがまだ残っていたわ」

 テーブルには書きかけのレポートと、漢字検定の問題集が残されていた。呼びかけ曽我は後ろ手に、そんな部屋のドアを閉める。

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