第20話 case3# バスボム

 翌朝。

 一日で終わるはずもない事情聴取に、ハナは引き続きここオフィスを離れていた。春山の家宅捜査を終えたストラヴィンスキーも渡会と二人三脚、ヘリで現れた二人の家へ向かっている。現場が鎮火したのは半日以上が経った夕方のことで、現場検証へ向かったハートも当然、オフィスにはおらず、百合草に至っては初めてその名を知らされた赤いスーツの彼女、[曽我伊織|ソガイオリ] に従うよう指示したはずだ、出掛けておらず、乙部もまた確認したいことがあるとパイロットが勤める民間エアポート会社へおもむいたらしく、もちろん陸路でだ、姿はなかった。

 なら百々はと問えば、言われたとおり朝の八時、地下の通路を右へ折れたところに並ぶドアの一つ、借りた仮眠室でテーブルへ向かいひし、とペンを握りしめる。

前にあるのは「規則の順守と安全の確保」と書かれた冊子とレポート用紙。その束だった。

 そう、百々に仕事が与えられるなと愚の骨頂。あてがわれた役割とは冊子を読破し感想をレポート用紙十枚にまとめる、という指示を無視してクレーンを傾けたことに対する処罰、その反省文の提出だった。

 しこうして百々はあらん限りの力でペンを握り締める。対峙した用紙へつむじ風を巻き起こすほどの力で書くのだ、という気合をぶつけた。だが何を、と考えは考えを要求して決意を揺るがす。

 十枚。

 それは鉄壁。まさにアスリートの枚数だった。

 だからして何でもかんでも片っ端から書かねば終わるはずもなく、とにもかくにも最初の一文字だ。刻むべく上段の構えと腕を振り上げた。気合一発、レポート用紙へペンを突き立てる。

 が、やはりその先が続かなかった。引いた線は力を失うとあさっての方向へはみ出してゆく。それきり百々もテーブルへどうっ、と突っ伏していった。

「だめら。眠ひ。意欲が湧かなひ。じゅ、十枚は多過ぎるよぉ。提出するまで帰れないなんてコレ、拉致だよぉ」

 気を紛らわせるためつけたテレビは「自然の猛威」とテロップを入れ、傾いたクレーンを映し出している。

「だから、ごめんなさいぃ。それ、あたしですぅ。もう二度とやりませんぅ」

 詫びを入れて重い頭を持ち上げた。足を振り上げ、再び用紙と対峙する意を固める。

「よぉしっ、書く。とっとと書くっ。わたしは書くぞぉっ」

 紙面へガバ、と覆いかぶさった。それきり一心不乱にペンを走らせる。止まることなく一気呵成と走らせた。わきあがる言葉も湯水のごとく、神がかり的執筆意欲で神童かとペンを走らせた。走らせ、走らせ、走らせ続けた……、はずだった。

 用紙へかじりついたままで、百々はおずおず頭をひねってゆく。

「ってさ」

 それはずっと気になっていた事なのだ。

「なんで、ここにいるの」

 隣には文庫本を読みふけるレフがいる。サイズさえコンパクトでないなら正直言って邪魔だった。

「あの、もしもし。みんな捜査に出てるよ」

 余計だろうと促してみる。

 しかしながらレフの目が本から逸れることはない。

「俺には俺の仕事がある」

 言われて百々こそ白く目をすわらせていった。

「ふぅん、ここで油売ってるのがお仕事ですか」

 何しろノータイでこそあれ見るたび真っ白のワイシャツに冴えない色のジャケットとスラックス姿だったレフは、今日に限って銃も携帯していなければアイボリーのニットにラフな綿パンツときている。様子は休日の昼下がりそのもので、そんなレフの指先で本のページはまた優雅とめくられていた。

「お前の書いたレポートをソガへ持っていく。それが俺の仕事だ」

 ああ、なるほど。

 うずきかけて百々こそ眉を吊り上げる。

「じゃ、じゃ、それまでずっとここにいるのっ」

「目を離すなと言われた」

 事実にパクパク空を食む口の動きが止まらない。ままに正面へと向きなおる。再びどうっ、と崩れ落ちた。

「いやだぁ、よけいに書けないよぉ」

 呻いて気づき、確かめる。

「もしかしてそれってこの間の命令、の続き?」

 案の定、レフに答える様子はない。涼しい顔でひたすら本を読み続けた。要するに見解には間違いがなさそうで、今度こそ百々はテーブルへ顔面を擦り付ける。つまるところ捜査からハズされたのだ。書類運びが仕事だなどと、そもそも似合わないにもほどがある。

 分かれば百々の文句も費えていた。くずおれていた体を持ち上げにかかる。つまらないことを尋ねてしまった。思うからこそ代わる話を持ち出していた。

「それ、何、読んでるの」

 そうして目をやったペンは、どうやら百々用に封を切られたものらしい。傷ひとつないうえにピカピカに先を光らせている。

「やっぱ英語の本とか?」

 握りなおしたのは今一度、感触を確かめるためだ。

「レフってさ。アメリカのどこ出身だっけ。西とか東とかいうじゃない」

 ついでに書き心地も試して右へ左へ振ってみるが、それ以上が続かなかった。持て余して百々はペンをテーブルへ置く。

「手が離れた」

 すかさず飛びくる注意に握りなおせば「すぐさま書きます」のポーズこそ極まっていた。

「ロシアだ」

 答えはそのとき返される。

「ロシア……」

「だが俺の中には四分の一、日本人の血も流れている。母方の祖母が日本人だった。その祖母は俺に日本語でしか話しかけてこなかった」

「それで日本語うまいんだ」

 読み上げるように教えたレフの指が、またページをめくってゆく。

「じゃぁ、ウォッカにモスクにマトリョーシカ。ピロシキ、スターリンに赤の広場。ドフトエフスキーの国なんだ。もしかしてその本、ロシア文学? だったら読みがいあるよ」

 しかしそうではないらしい。

「違う」

 レフは言う。

「じゃ、何」

「一級を受ける」

「いっ、きゅう」

 言葉が抜けすぎて何のことだか分からない。

「漢字検定だ」

 百々は固まっていた。

「これが思ったより難しい」

 だからしてロシア人のジョークは真剣に言うところに面白みがあるのか。

「あっ、あったりまえじゃん。普通さ、もっと下から受験するもんだよ。段取りってのがあるじゃん。段取りがさっ」

「準一級は、もう合格した」

 返され今度こそ百々は黙する。いやそのときテーブルを抱えて百々は遥か彼方へ身を引いていた。こやつ何者。言葉を過らせ、片眉だけを痙攣させる。

 と、レフの目はそのとき初めて本から逸れた。

「悪いか」

 なぜ睨む。

「ないない、ないっ。ないですっ」

 また本へ向き直ってゆくレフは、ウソつけ、といわんばかりだ。

「さっきから手が止まっているぞ」

 言うものだから百々は用紙へしがみついていた。

「はぁいっ。……って、オ、オタクだ。西洋の漢字オタクだよ。っていうかいつ勉強してるわけ。どれくらい勉強してるわけ。おかしい。絶対おかしいよっ……」

「聞こえているぞ」

 言われてしまえばもう収集がつかない。頭を百々は抱える。

「あー、もう散々っ。難しいっ、眠いっ。集中できっこないっ」

 一瞥したレフがのそり、動いてそんな百々へ背を向けていた。

「まるでターザンの雄叫びだな。またサファリの映画でも見たのか。昨日は試写だったんだろう。どうせなら文豪の生涯でも見てくればよかったんだ」

 などと嫌味は「ジラフアタック」が通信に乗っていたせいにほかならず、今では知らぬ者のいない名文句だ。弁解に直前、見た映画の解説なんぞつけ加えていたなら、状況はさらに悪化の一途をたどってさえいた。

「昨日の映画はサファリじゃありません。昨日のはっ」

 が、返してはっ、と百々は口をつぐむ。次の瞬間にもぼふん、脳天から火を噴かせた。ままに上げた拳でレフの背中をぽかすか殴る。

「なんだ。怒るほどのことじゃないだろ」

 様子にレフは振り返るが、今度は百々が答えない番となっていた。テーブルへとかじりつく。とたんペンは先ほどまでのことが嘘のように爽快と走りだしていた。

 もうそれしか残されていないのだ。まだ葬る先すら決まっていないなら、いつもどおり終えた『20世紀CINEMA』の遅番、その後に見た次回上映作にまつわる一部始終を忘れんがため百々は反省文のアスリートになる。

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