第10話 case2# Higher than Higher

 ふわり、闇の底から浮かび上がったかのようだった。灯る明かりに現実は舞い戻り、百々はシアターBの座席で静かに息を吐き出してゆく。吸い込むや否や満面の笑みで隣の席へと振り返った。

「すっごかったねー。あたし興奮しちゃった。やっぱり大自然は偉大だよ。ね、ねっ」

 そこに田所は腰かけている。どうにか噛み殺したあくびの残る顔つきで、乾燥する目を瞬かせていた。

「おま、こんな時間なのにほんと元気な」

「だって、すごかったじゃん」

 それもそのはずと時刻は深夜零時。鑑賞はつまり営業終了後に行われる次回新作の「試写」だ。例の件の罪滅ぼしか、百々は水谷に誘われると初めて参加していた。

「ペンギンって泳ぐと早いんだね。それからキリンっ。あんなに可愛い顔してるのにさ、ものすごい迫力でケンカするんだからびっくりしちゃった。こう首と首をぶつけてバチンバチンって……」

 真似て左右の腕を交差させる。陸、海、空と長期ロケで撮りためた大迫力の映像を再現すると、えいやの勢いで叩き合わせた。

 だとして田所の反応こそ薄い。

「……ってさぁ、お前、ちゃんと見てたの?」

 百々へとアゴを突き出す。

「仕事で見てんだろ。フィルムの傷と音声のチェック、できてんのかってコト」

 おっつけ不備内容を書き込んだ自身のメモを、百々の前へ掲げて見せた。だからして百々も急ぎ己の手元を確かめるが、まったくもって白が目に染みてならない。盗み見た田所も、ガックリ肩を落としてみせる。

「あのな」

「ま、最初だから仕方ないでしょ」

 などと背後から聞こえてきたのは水谷の声だ。

「今度からはちゃんと頼みますよ、百々君」

 百々の背もたれを軽く叩いて腰を上げた。

「じゃ田所君、映写室まで来てね」

「あ、はいっ」

 追いかけ、天を突かんばかりの勢いで立ち上がった田所を残し、悠々シアターを後にしてゆく。姿が見えなくなったところで田所が、有り余る緊張を解いていた。

「着替えたら通用口で待ってろよ。俺、駅まで送るから」

 百々へ投げるや否や、映写室へと駆け出す。

「え、大丈夫だよ」

「なわけないだろ。この辺、ビジネス街だから今の時間は人通りないし、さっきニュースで台風の進路が変わってコッチ来てるって」

 確かにブーメラン台風が未明にも直撃、とネットも昨日から大騒ぎだ。だが駅までなら徒歩で十分。そのうちの五分余りは駅周辺に広がる繁華街の中を通り抜ける帰路である。心配こそおおげさだとしか思えなかった。だが田所はもう、防音扉へ肩を押し当てると開いた隙間からロビーへと抜け出してしまっている。

「ちょ、ちょっと。タドコロっ」

 追いかけ百々もシアターを後にした。

 出たロビーは非常灯だけが青く灯る閉館モードである。滲ませた床は濡れたように広がると、正面扉の窓に表の荒れ模様をのぞかせていた。

「今なら終電にも間に合うからさ、待ってるうちに逃した方が大変だよ」

「そのときは後ろに積んでやるし」

 ラストまで詰めることが多い田所は普段からバイク通勤なのだ。

「それはちょっと、大袈裟かな」

 投げ合いつつカウンターへと回り込んでゆく。

「そうか」

「ありがとう」

 微笑み返せば渋々と言った具合だ。田所も引き下がっていた。そこでちょうどとカウンターは見え、百々はさらに向こうへ回り込んだシアターA前のロビー、その壁面にある鉄扉へ、なぜならそこからバックヤードへ入るのが更衣室に一番近いからだ、田所は事務所奥の映写室へと行く先を分ける。

「気を付けてな」

「もち。おつ」

「田所くーん」

 水谷も事務所の鉄扉から顔をのぞかせていた。向かって百々は頭をさげる。水谷もまた、お疲れ様、と手を振ると、そこで何をや思い出した様子だった。

「そうそう、そろそろ例のハナシ、ね」

 などと伏せ字が示すところは差し当たってのアレだろう。ならば返す百々に容赦はなくなる。

「何の、お話でしょうかっ」

 そう、いつものアルバイトにいつもの仲間がいたとして、百々が変わらぬ日々を送っているのかといえば、それは少々違っていたのである。

 世間で言うところの「ポン菓子製造機暴発事件」が原因を含めて世間から忘れ去られるまでおよそ十日。田所がその話を百々へ持ちかけなくなったのは、それから三日ほど後となり、今日はと言えばその日から二週間ほどが経った、事件からひと月後に当たっていた。

 事件直後はセクションCT入職に必要なID作成のため、生体データはもとより各種誓約書に契約書へのサイン等々、百々はこまごました手続きをこなしている。しかし終われば呼び出されるようなことはなく、提出した書類と引き換えに身分証明書と、全職員が所持するGPS内蔵の高速通信も可能な専用端末を渡され、百々は「待機」の日々を送っていた。

 おかげであの日の出来事はその二つが証明するのみ。いつも持ち歩くトートバックへ放り込んだ端末が、目にするたびに不吉の象徴と気持ちをざわつかせるだけだった。

 ともあれ、今日も沈黙していたなら何よりだろう。着替えて百々は置き傘を手にバックヤードを通用口へ向かう。ドアを開き、吹き込んできた風の強さに身を縮めた。

「もしかして電車、止まった?」

 駅は『20世紀CINEMA』前を「ハモ公園」の方角へ真っ直ぐ進んで信号を二つ渡り、「ハモ公園」とは逆方向へ折れたところだ。

 向かえば風に押し返される体は重く、誰とすれ違うことなく一つ目の信号を渡った。さほど離れていない二つ目を、踏ん張り目指して百々は歩く。と、気付くことができたのは、その足音が進めば互いがぶつかる位置を取っていたからだろう。風音に混じると足音は、背後へと近づいていた。

 居心地の悪さは言うまでもない。

 歩調を少しばかり早めてみる。

 なら慌てたように、相手もピッチを上げていた。

 瞬間、脳内で上がる悲鳴こそソニックウェーブか。

 百々は繰り出す足へさらに力を込める。ままに前のめりの姿勢となった。もう我慢ならない。ひと思いだ。駆け出す。なら振り切られまいと、相手もすかさず繰り出す足へムチを入れてた。そこからの加速こそそら恐ろしい慣れにまみれると、がぜん百々との距離を詰める。

「あわわ、わわわっ」

 きっと痴漢だ。いや強盗か。もしやテロリストならこの世の終わりはもう近い。

 二つ目の信号はもう目の前にあり、渡れば人の行き交う繁華街はそこに広がっていた。

「おい」

 が、掴まれた肩こそ唐突を極め、ぎゃあ、と叫んで百々は跳ね上がる。だからこんな時のために教わっていたのだ。ゴツイ端末のアラートを押し込まんと、無我夢中でトートバックへ手を突っ込んだ。同時に振り向きざまだ。闇雲もこれぞ真骨頂と、そんなバックを振りかざす。

「痴漢っ。強盗っ。テロリストっ」

 叩きつけるリズムは、オリジナリティーあふれる三段論法で。

「違うッ」

「違うわけなーいっ」

 もろともバッグの中でアラートボタンを押し込んだ。

「だから落ち着けッ」

 やがて知った音はピピピ、と間近から聞こえてくる。それが端末の呼び出し音だったとして、百々の手元からではないのだからおかしな話だった。

「俺だ。……そうだ。間違いだ。今、ドドといる」

 聞えた声を知るからこそ、百々は叩きつけていた手を止める。

「へ?」

 振り上げたカバンの影からそうっとのぞき込めば、なるほどそこには食らった不名誉の応酬によるものか、むっとした顔のセクションCT職員、レフ・アーベンは立っていた。

「迎えにきただけだ。今から現場へ向かう」

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