第5話

 前を走る車両を追い抜き爆走するワンボックスカーの揺れは激しい。だがぶれることなくタンクトップは薬液をスポイトから押し出してゆく。

「ハモ公園、目視」

 運転席から声は上っていた。

 ピリリとそのとき百々の手のひらへ刺激もまた走る。ややもすればまるでシールを剥がすようにだ。あれほど頑固とへばりついていた百々の手は、箱から次第に剥がれていった。

「取れたぁっ」

「うかれるのはまだ早い」

 確かに剥がれたのは箱を上から押さえつけていた方だけなら今や箱は誰もの前にむき出しとなり、表面で続くカウントダウンを読みかけて百々は全力で空を仰ぐ。

「お、おおぅ」

「東門へ回れ。奥が袋小路で人通りが少ない」

 見守っていた男が運転席へと振り返っていた。

「そのつもりです」

「こっちの方が、がっちり張り付いてやがるな」

 タンクトップの声が苦しく響く。気にならないはずがないなら、ついぞ百々は背けたはずの顔の中で目だけをチラリ、向けなおしていた。そこで表示が残り一分へ迫りつつあるのを目にする。

「東門、到着っ」

 いつ停車したのか分からない。ほどにブレーキングは静かだった。後に切られたエンジンのせいでとたん車内は水を打ったようになる。

「ふん。ちょうどで三分か。でかしたぞ、ストラヴィンスキー」

 タンクトップの声がやたら百々の耳についていた。

 前で、箱の表示からついに「分」も削げて落ちる。

 着実に「50」を切ろうと迫っていった。

 もう間に合わない。

 状況は素人だろうと数さえ数えることができれば判断に容易いだろう。だのに介せぬ彼らは無謀で、むしろ介せぬさまは白痴と思えならなかった。

「……もう」

 震えていたが、声はしっかり出せている。

「いいですっ、そんなこと」

 藪から棒だろうと百々は叫んでテーブルの腕を引き戻した。

「もう間に合いませんからっ」

「勝手に動くなッ」

 タンクトップの張り上げた声に、運転席で細面へ瓶底眼鏡をかけた男の顔も振り返る。

「だってもう爆発しちゃいますっ」

 巻き添えになどと、したいわけがなかった。体中でだ。声を張り上げ百々は訴える。

「あたしにかまわず逃げっ……!」

 が、言い切れないこの「違和感」こそなんなのか。力の抜ける展開は、に過ぎているからこそマンネリさながら記憶に鮮明と残って瞬く。「バッファロー」だ。

「無駄な時間をッ」

 スキに男が腕を掴み返していた。

「いいぞ、レフ。こっちへ戻せ」

「わぁ、バカバカ。それじゃみんな死んじゃうってばっ」

「ああ無理ならとっと逃げるッ。心中するつもりはないッ」

「って、それはそれで、ハッキリ言い過ぎぃっ」

 抵抗すればワンボックスカーも揺れる。

「仕掛けた相手こそ野放しにはできないからなッ」

 返された男の言葉に百々は息をのんでいた。

「へ……?」

 その目の前で、ぐるり世界はひっくり返る。大袈裟だろうと間違いなかった。

 果たしてコペルニクスかコロンブスの卵か。つまり逃げ出したのではなかったのだ、とそのとき百々の中で解釈は反転する。「バッファロー」の主人公は愛する人に見切りをつけた非情の復讐鬼と、とたんスクリーンの中を遠ざかっていた。だというのに戻ったくだりは人間臭さを極め、エンターテイメント作品だと思えど都合よく助からない結末のリアリティーに度肝を抜かれる。比べてだった。無力と知って留まるヒーローの軟弱な、それでいて運よく助かるくだりノユルさはどうか。気づかず笑った己の浅はかさが今さら恥ずかしくさえ蘇っていた。ほどに「バッファロー」は王道がもたらす思考停止な展開を批判した大問題作だったのだ。

 いったいどこから見つけてきたのか。よっ、さすが支配人。

 手を打ちかけて我に返る。

「いーだだっ、いだだだっ」

 なにしろタイムロスを巻き返すタンクトップが、薬液が染みこむのを待たず箱を剥ぎ取ろうとしていた。

「少しは黙れッ」

「黙れませぇんぅっ。いたーいっ」

 もう修羅場だ。箱も目と鼻の先で「30」を灯す。表示が「27」へ切り変わったその時だった。

「回収ッ」

 宙へ箱が振り上げられる。なら今度こそと言うべきだろう。

「お待ちかねの液体窒素だぞ」

 タンクトップはスプレー缶を取り出した。形は蚊やゴキブリを退治するアレそっくりで、赤目を剥いた手でやんや、やんや。拍手喝采する百々の前で、箱へ向いそのトリガーを強く引く。

 が、続く無音の解説こそぜひとも欲しい。

「カラ……、だ」

 だのに箱はもう「10」を灯している。

 隠し男の手が、掴んで天板下へ投げ入れていた。運転席の彼も喘ぐようにシートベルトを外しにかかる。

「ぼーっとするなッ」

 一喝は百々へ飛び、襟首を引っ掴まれていた。立て続け開いたワンボックスカーのドアは三方が同時で、そこから誰もは一斉に身を躍らせる。のちのカウントは三、二、一、がせいぜいで、ゼロと共に飛び込むように地面へ伏せた。その足先でワンボックスカーは確かに跳ね、思いがけず甲高い破裂音に伏せて塞いだはずの視界を揺さぶられる。追いかけ熱風が駆け抜けていた。百々の髪は巻き上がり、そこでようやく百々は身を固くする。

「……っつ」

 過ぎて訪れたのは無だった。

 果てにカラだったあの缶が、工具に内装の数々が、やがてひとつ、またひとつ、と空から降る。

「わう。何。イタっ」

 食らったおかげで五体に五感は戻ったようなあんばいだ。止まっていた息を百々は吐き、いつからかその頭にあった男の手を押しのける。ゆっくり百々は身を起こしていった。恐る恐る振り返ったそこでワンボックスカーはすっかり黒焦げになると、過剰な放熱後の急速冷却にシュウ、とか細い音を立てている。傍らの木立も吹き飛びすっかり丸坊主になっていた。

 目の当たりにしたならそれが自分でなくてよかった、とは思えない。むしろ自分のことのように感じて百々はただ目を見張った。

 そしてこれもまた思考停止と刷り込まれた黄金法則か。この一大事に飛んで来る者は不思議と誰もいない。何が起きたのかと人が集まり始めたのは想像より、いやそれこそ眺め続けたテレビドラマより、ずいぶん後になってからのことだった。

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