喜劇的な、あまりにも喜劇的な ー映画「ジョーカー」を観てー
火野佑亮
12/28
「何が笑えるか笑えないかは主観で決めればいい。」
「ジョーカー」はそう言い放った後、かつて憧れの存在であったマレー・フランクリンをテレビ番組内で射殺する。その結果ピエロの仮面を被った貧困層が暴徒化し、街は正真正銘の地獄絵図になる。これもまた、非常にショッキングでかつ滑稽な場面だ。
笑いという動作は、その本質において批評的であり、世界の不調和に対する冷笑主義的解決なのである。涙は感性に属し、笑みは知性に属する。
この物語を通して「ジョーカー」へと変貌していく青年アーサーは笑いが止まらなくなる精神疾患を抱えている。この彼が笑う対象の表情が、笑いという動作の本質を的確に捉えている。逆に言えばアーサーは笑いによって、世界と自分を繋ぎ止めていたのである。
そしてまた、世界も彼をあと一歩のところで繋ぎ止めていた。職場、精神科医との定期面談(福祉)、そして母ペニーの存在だ。だがその希望は一つ一つ打ち砕かれていく。
職場は宣伝の仕事に使っていた看板の盗難と、仕事仲間から貰った護身用の銃を落としたことによって。福祉は市の緊縮財政によって、アーサーは居場所を追われる。そして母ペニーはかつて、自分の恋人に虐待を受けていたアーサーを助けなかったことで逮捕されていた事実が明らかになる。彼女がアーサーの精神疾患の一因だったのだ。こうして彼は今まで散々自分を「笑ってきた」人間たちへの復讐を決意する。
或る病んだ哲学者がこう言う。世界は空想でできていると。それならば一介のコメディアンが、世界は「滑稽」でできていると叫んだとして、「そいつは可笑しい」と笑い飛ばすことはできないだろう。
また同時に、笑いは知性を仄めかす仮面であるとも言える。この映画の監督は笑いの要素を全面に押し出しながら、陰でこっそりと、だが着実に、批評を行っている。
ジョーカーは「政治的意図はない」と話すものの、その後に展開される彼の行動はアナーキーそのものであり、政治が生活の同心円状にある以上彼の行動の政治性は否定しきれないのである。詰まるところ、格差を拡大させたネオリベラリズム(新自由主義)に対するアンチテーゼだ。
劇中あからさまに人種問題について触れている描写はないが、この映画がヒットする背景にはトランプ大統領の誕生が象徴するナショナリズムの台頭があるのだろう。アメリカは元はと言えば人種差別的な国だった。有色人種の移民に対する白人労働者のフラストレーションは根強い。アメリカにおける有色人種と白人の対立は長期に渡って続くだろう。人間他者を受け入れるにも限界がある。
劇中、次第に追い詰められていくアーサーは「Don't forget smile」の看板に一本の線を引いて「Don't smile」にして去っていく。
しかし君よ、恐れることなかれ。貴方は未来を信じ、笑顔でいるべきだ。日常を耐え抜けば、終わりはそこで待っている。破滅的なほどに「面白い」終末は、きっとすぐそこにある。
喜劇的な、あまりにも喜劇的な ー映画「ジョーカー」を観てー 火野佑亮 @masahiro_0791
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