ネバーランドには住めない
津奈木アトランティック
ネバーランドには住めない
夏休み、地区大会をもって、
中学最後のこの大会に、蓮子は1年の冬からずっといっしょにダブルスを組んでいたアヤリと挑んだ。
結果は18位。
部内でいちばん成績のいいペアにはなれたが、次の大阪全体で行われる大会には、もっと上の順位に入る必要があった。
とはいえ、蓮子たちのテニス部には長年の弱小の歴史があり、地区18位という結果でも、十分に華々しいものだった。
帰り道を、アヤリとふたり、自転車で走る。
「アヤリ、授業行ける?」
「あと30分。間に合う間に合う」
府内でもトップの高校を目指しているアヤリは、進学塾でバリバリ勉強していて、今日もこれから夏期講習の授業があるのだ。
「カキコー、楽しい?」
「楽しいわけないやん!でも、もう部活も終わったしな、そろそろ本気で勉強せんと」
アヤリのその力のこもった言い方に、蓮子は少し、苦々しい気持ちになった。
「れんれんは今日から東京かー、ええなあ」
「アヤリにもお土産買うてくるわ」
「マジで?うち、バナナのあれ好きやわ」
「了解っ」
塾の建物の前でアヤリと別れ、ひとりでまた、ペダルを漕ぎ出す。
顎をぐっと真上に向ける。
白くてたっぷりした夏らしい雲が、青い空一面に広がっていた。
今日は、雲が多い。
多いけど、これくらいの量なら天気はくもりじゃなくて晴れっていうんかな。
ウンリョウ、とかなんとか…姉ちゃんが言うてたっけ。
晴れと快晴は違うんやって、そんな話、全然興味なかったけど、姉ちゃんはうれしそうに喋ってた。
そうや、姉ちゃん、今日は姉ちゃんに…
◇◇◇
のろのろと自転車を漕ぎ、蓮子が家に帰ったのは、予定より1時間遅い時刻だった。
ドアを開けると、母は玄関で蓮子の帰りを待っていた。
「ただい…」
「遅い!」
「ご、ごめんなさ…」
「早く!」
母は蓮子の手を力強く引いてリビングまで来ると、ソファーに畳んであった着替えを投げつけてきた。
蓮子お気に入りのワンピースだ。
「はよ着て!そのうち新幹線来るんよ!」
母は蓮子の肩からテニスバッグをもぎ取り、その間も早く早くと急かす。
「待って、シャワー先浴びんと、においヤバい」
蓮子はそんな母から逃げるように浴室に駆け込んだ。
今日から1週間、蓮子は東京で暮らす姉、
蓮子より4歳年上の想子は、K大に通う大学1年生だ。
そういう話に疎い蓮子にはさっぱりなのだが、K大はなかなかの難関大学のようで、想子が合格通知をもらってきたとき、彼女はずいぶんとたくさんの大人から褒められ、噂されていた。
そしてもうひとつ、想子は、今年デビュー予定の、売り出しはじめの俳優でもある。
想子は小さい頃から映画や舞台を観るのが大好きだった。
そういう世界に興味があるらしいということは、家族全員なんとなく知っていたことではあったが、大学受験が終わってすぐに大手の芸能事務所への所属を決めてきたときは、みんな開いた口が塞がらなかった。
春に上京していった想子は、どうやら早速仕事を手に入れたようで、すでに何か、ドラマの撮影が始まっているらしい。
詳しい情報はむやみに話してはいけないそうで、蓮子はそれ以上は何も教えてもらっていない。
そんな姉のもとで、1週間過ごす。
発案者は蓮子だった。
もっとも、1ヶ月前、夕飯の席でその話を切り出したときは、話し終わる前に父母両方から止められた。
受験生の夏を舐めるな、と。
その抑止にやんわりと対抗してくれたのは、想子だった。
「まあ、蓮ちゃんにも考えがあるんよ」
電話口でへらへらと繰り返す想子に、両親は渋々頷き、蓮子の夏の東京行きは決まった。
超特急でシャワーを済ませ、ワンピースを着て、その後も言われるままに準備を進め、蓮子と母はせかせかと家を出た。
蓮子が住むのは、大阪南部、大阪湾に臨む、泉佐野市だ。
関西空港連絡橋を渡れば、世界に繋がるゲートがそこにある、そんな街である。
最寄りのりんくうタウン駅から、ふたりは新大阪駅に来た。
改札口の前で、母が財布から新幹線の乗車券を取り出し、大阪土産のみたらし団子とチーズケーキの入った紙袋といっしょに渡してきた。
蓮子はうやうやしくそれを受け取る。
「蓮子、あんた受験生なんやからな。忘れたらあかんで」
「うん」
「アヤリちゃんとか、周りのみんなはもっと勉強してはるんやからな」
「わかってるって」
母は大袈裟にため息をついてから、手で改札の向こうを指し示した。
「もう新幹線来るやろ。お姉ちゃんによろしく、迷惑かけるんやないよ」
「うん、いってきます」
母に笑って頷いて見せ、蓮子は改札を通った。
ホームに停まったのぞみに乗りこみ、指定席に座っていると、やがて車両が動き出す。
夕方と夜の間の時間帯、まだ外は少し明るく、名古屋駅を過ぎると諏訪湖が、静岡駅を通過してトンネルを抜けると富士山が、ぼんやり見えて、それらもさらに越えていき、東京駅で蓮子は降車した。
いままで関東地方にすら来たことがなかった蓮子は、「トウキョウ」という言葉の響きに素直にときめいていた。
想子とは、改札口で待ち合わせをしてある。
大きな駅だから迷わないように気をつけなさい、と言われていたので、蓮子は近くにいた駅員に聞いて、想子に伝えられた場所をしっかり確かめてから足を進めた。
「あ、蓮ちゃん!」
目的の場所が見え始めたとき、蓮子は久しぶりに想子の声を聞いた。
想子は改札口の先の柱にもたれかかるようにして立っていた。
「姉ちゃん!」
蓮子はトランクの車輪をガラガラ言わせながら想子に駆け寄り、ハイタッチを交わした。
「よう蓮ちゃん、元気してたか」
「うん、元気やったよ」
「お父ちゃんとお母ちゃんは?」
「相変わらずですな」
そうか、と言って笑う想子を、蓮子はなんだか信じられないような気持ちで見た。
しばらく会わないうちに、すごくきれいになっている。
もともと美人の姉ではあったが、何かがものすごく変わったように感じた。
子どもっぽさが、少し抜けたような。
「ほな帰ろか」
想子が歩き出し、蓮子はそれに続いた。
想子が住むマンションからは、武蔵境駅が近い。
中央線快速はオレンジ、山手線は黄緑、などと唱えあいつつ、ふたりはそこに向かった。
マンションに着いた頃には、もう外は真っ暗だった。
「東京やのに、夜そんな明るくないやん」
「武蔵野はそんなもんや」
12階まであるマンションをエレベーターで10階まで上がり、部屋の前まで来ると、想子は手際よく鍵を回して、ドアを開けた。
先に入るよう促され、足を踏み入れる。
「うわ、姉ちゃんのにおい!」
「え、マジ?」
部屋は、いかにも想子が住んでいるという感じがして、蓮子は笑いがこみ上げてきた。
ひとり暮らし用の小さい冷蔵庫の上に、びよんびよんと伸びる豆苗が3パック。
その隣には、なぜかあの青いネコ型ロボット。
決して広くはない部屋の西側の壁を占領する大きな本棚。
「夕飯まだやんな?ラーメンでいい?」
「うん」
「適当にうろついて待ってて」
荷物を下ろして身軽になった蓮子は、異様な存在感を放つネコ型ロボットに近づいた。
「何、これ」
「冷蔵庫」
「え?」
開けてみると、想子手製の梅シロップや柚子胡椒、豆板醤の瓶が所狭しと並んでいた。
「ほんまや」
しばらく待っていると、冷蔵庫の上で育った豆苗が投げやりにトッピングされた味噌ラーメンが、ちゃぶ台に運ばれてきた。
食べながら、蓮子は本棚を見やった。
そのラインナップも、実に想子らしい。
100エーカーの森の黄色いくまの絵本の隣に鉱物図鑑、その隣にこれからの宇宙探査を解説する単行本、その隣からは週刊少年ジャンプのバトル漫画のコミックがずらりと並ぶ。
そしていちばん下の段には、大学での学習で使うのであろう教科書や学術書がしまってある。
「なあ、姉ちゃんって、なんで大学行くん」
ずっと持っていた疑問を、蓮子はふと投げかけた。
「姉ちゃんは役者やるんやろ。大学の勉強、いらんやん。せやのに、なんでわざわざ行ってんの?」
「それは…」
想子が豆苗をたぐる箸を止め、じっと考えこむ。
蓮子もなんとなく、動かずに答えを待った。
が、しばらくして、想子は結局何も答えず、何事もなかったかのようにまた麺をすすり出した。
蓮子も、質問を繰り返すことはしなかった。
◇◇◇
東京での生活が始まった。
蓮子は想子に、いろいろと言いつけられていた。
昼食は朝に想子が渡すお金で買って食べ、夕食は家にあるもので蓮子が作ること。
基本的には家にいて、受験勉強をして過ごすこと。
姉があくまで貧乏学生であることを忘れず、水道代や電気代をむやみに増やすようなことはしないこと。
蓮子はそれらを了解した。
早朝、想子はスマホのアラームでぱちりと起床し、てきぱきと支度して、家を出る。
小さな頃から早寝早起きが大の苦手だった想子とは思えない動きだった。
一方、蓮子はというと、寝惚け眼で想子を見送ったあと、まずベランダに出て、街を眺めた。
想像していた東京の姿ではないが、やはりわくわくするものがあって、なんだか楽しかった。
それからは、布団を外に干したり、コインランドリーに行ったりして午前中を過ごし、近くのスーパーやマクドナルドで昼食を買って帰る。
大阪では観られないバラエティー番組を観ながら昼食を食べてから、しばらく渋った挙句、嫌々家から持ってきたワークを開き、少しだけ勉強する。
夕方になると、キッチンに立って、夕飯に向けて料理を始める。
想子の冷蔵庫は、いつ見ても内容に乏しく、豆苗だけは常備されていた。
そのうち想子が帰ってきて、豆苗だらけの夕飯を食べたら、さっさと寝る支度をして布団に入る。
深夜ラジオ好きの想子がラジオの電源を入れ、部屋に音声が流れこんでくるが、蓮子はいつも、想子の目当ての番組が始まる前に寝てしまうのだった。
そうして過ごして、5日目の夜。
夕飯の席で想子がふと、高校受験の話題を繰り出した。
「蓮ちゃん、受ける高校決めたん?」
「言わんといて、決まってるわけないやん」 蓮子は大袈裟に顔をしかめて見せた。
いままでのうのうと遊んで生きてきた自分に、次に行く学校は自分で決めて、しかもその枠は自分で勝ち獲れ、だなんて、無理だ。
自分にできるはずがない。
蓮子はそう思っていた。
「姉ちゃんが決めてや」
「なんでよ、自分のことやろ」
想子に不思議そうに見つめられ、蓮子はむっとした。
「姉ちゃんには、うちの気持ちはわからん」
「どんな気持ちが?」
「姉ちゃんは頭いいやん。勉強できるやん。うちは勉強嫌いやもん」
「ふうん、じゃあ、やめるん?」
「そういうことじゃない」
蓮子は想子をぎっと睨んだ。
「あのな、蓮ちゃん。あたしに八つ当たりしたってしゃーないやろ」
「八つ当たりじゃない!」
「十分八つ当たりやわ」
「うるさい、姉ちゃんにうちの気持ちはわからん!うちは、うちはっ」
だんだんと、頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを、蓮子は感じた。
「うちは大人になんかなりたくない!!」
結局、東京に来ても、意味がなかったのかもしれない。
蓮子は考える。
蓮子自身もわからないことを、みんなが「これはお前の問題だ」と突きつけてくる。
そんなことは知っている。
だから逃げたいのに。
父や母ほどには口うるさくない想子のもとでなら、気楽な夏休みを過ごせるかと思って、それでここまで逃げてきたのに。
それに…
蓮子はちら、と想子を見た。
もう蓮子を気にかけてもいない。
テレビに映るアメリカの大統領の話を聞いている。
蓮子が想像していた以上に、想子はしっかりした生活を送っていた。
蓮子が期待していたのは、もっと自堕落で、学業も俳優業も思うようにいかず、本当は余裕なんてないのに、蓮子たち家族の前では強がって見せる、そんないじらしい想子だった。
そういう想子を見れば、安心できると思った。
突然、蓮子は自分の体の中を黒く濃い煙が満たしていくような感覚に陥った。
そして、それがどういう感情によるものなのか理解するよりも先に、短く声を上げてちゃぶ台にこぶしを叩きつけた。
ちゃぶ台の上の皿が小さく跳ね、驚いた想子がさっと蓮子を見る。
蓮子は自分の眼の中で、加虐心がぎらぎらと燃え立つのを感じた。
その火の勢いに任せて、蓮子は口を開いた。
「姉ちゃんなんか、なんもかんも失敗して、なっさけない顔して大阪帰ってきたらええねん!」
すぐに、想子が顔をしかめた。
「蓮ちゃん、何?やめて」
「売れるわけないのに東京なんか来ちゃってさ、大学なんか行っちゃってさ、適当に褒められて喜んじゃってさ!
何よ、姉ちゃんなんか、うちを馬鹿にできるんもいまのうちだけや!」
「馬鹿にしたことなんかないよ」
「してるように聞こえんの!姉ちゃんも!お母ちゃんもお父ちゃんも先生も友達も!みんな、みん…」
そこで蓮子は、想子が自分に向けている強く険しい眼差しに気付いて、声が出せなくなった。
瞬間、蓮子は後悔した。
早く、ごめん、とひとこと言って楽になりたかった。
が、言葉は喉につかえるばかりだ。
何も言い出せない。
蓮子は固まったまま冷や汗をかいた。
自分が恥ずかしくて情けなくて、蓮子の目に涙がもりあがった。
蓮子は生まれてはじめて、自分のことが本当に嫌いになりそうだった。
◇◇◇
夜、いつも通りすうすうと眠る想子の隣で、蓮子は寝ることなどとてもできずに、もう1日先の朝を待ち遠しく思いながら布団の中でもぞもぞうごめいて過ごした。
しかし、朝になって、昨日までならとっくに家を出ていた時刻になっても、想子は布団から動かなかった。
壁に掛かったカレンダーを見ると、今日の日付のところに「休」とある。
一日中いっしょにいなければならないのか、と蓮子は憂鬱になった。
正午、想子は突然がばりと起き上がった。
「蓮ちゃん、出かけるからさ、初日に着てたワンピース着て、待ってて」
そう言うと、想子はばたばたと身支度を始めた。
想子の機嫌を損ねるわけにはいかない。
蓮子も慌てて、トランクからワンピースを引っ張り出した。
2時頃、ふたりはマンションを出て、武蔵境駅へ向かった。
「どこ行くん?」
「とりあえず、ごはんかなあ」
「どこで?」
「うーん、渋谷とか」
「渋谷!?」
その地名、その響きに、蓮子は胸をときめかせた。
「行っていいの!」
「いやあ、せっかく東京来といて、東京っぽいとこ連れていかずに帰すのもなあと思ってさあ」
「やったー!」
電車に乗り込んですぐ、蓮子はアヤリに、いま渋谷に向かっているという旨をたっぷりの絵文字をつけたメッセージで伝えた。
『なんかお土産買ってきてよ!』とすぐに返信がきて、『OK!』とまた返す。
ふと想子を見ると、彼女は窓の向こうを眺めてぼうっと座っていた。
仲直りの機会をくれたんだろう、と蓮子は考えたが、本当にただぼんやりするだけでスマホをいじる様子もない想子を見続けていると、単に気が向いて、ちょっと出かけようと思っただけなのかもしれないという気もしてきた。
渋谷駅に着くと、蓮子は想子の腕を掴んで、スクランブル交差点を歩きたいとせがんだ。
「ハチ公と写真も撮りたい、カフェでごはん食べて、服も見て…」
「わかったわかった」
大都会の姿に大興奮する蓮子に、想子が苦笑する。
想子の所属する芸能事務所は渋谷にあるビルの中にあるので、想子にとって渋谷の街は、すでに慣れ親しんだものになりつつあった。
駅の構内で迷うことなく足を進める想子を見て、蓮子は東京に来たばかりの姉を想像した。
いまの自分の同じように、ときめいて、興奮して、写真を撮りまくったりしたのだろうか。
ハチ公前の人の多さに驚嘆して銅像とのツーショットを諦め、広告の音声がぐわんぐわんと共鳴するスクランブル交差点を歩き、カフェに入る。
蓮子はそこで、ハムとチーズとポーチドエッグのクレープとフルーツサラダを注文した。
支払いの際、レシートに表示された金額に想子の眉が跳ね上がった。
その後、これで2週間は食べられたのに、と嘆く想子がてくてくとついてくる前で、蓮子は街を好きに練り歩かせてもらうことにした。
渋谷は、若者向けファッションの中心地だ。
世間知らずの蓮子でも、そのことはよく知っていたし、憧れていた。
蓮子は、服が好きだ。
ファッション雑誌を読み込んだり、お気に入りのブランドの新作を細かくチェックしたり、服のことを考えていると、わくわくして、背骨がぞわぞわする感じがする。
中でもとりわけ好きなのは、装飾がたっぷりついた服を見ることだ。
シャツの襟やスカートの裾、ジャケットの背後なんかに、宝石のようなビーズがつぶつぶと並んでいるのや、少しずつ色の違う糸で刺繍が施されているのを眺めることは、飽きっぽい蓮子がほとんど唯一、時間を忘れて楽しめることだった。
渋谷の街に立ち並ぶ店には、そういうものがたくさんある。
「蓮子ちゃあん」
後ろから、想子の間抜けた声が聞こえ、蓮子は足を止めた。
「もう、渋谷出ていい?」
「え、でも、まだ夕方やし…もうちょっと」
「行きたいとこ、まだあるねんて」
「えー、どこ?」
「墨田区」
墨田区と言われても、とっさに思いつける東京の地名が、せいぜい渋谷、新宿、池袋と、想子が住む武蔵野くらいの蓮子には、たいしておもしろそうな場所には思えなかった。
想子が先に駅へと歩き始めたのを、蓮子は慌てて追いかけた。
◇◇◇
押上駅で降り、想子がどこに行くつもりなのか、蓮子にも検討がついてきた。
「スカイツリー?」
「あたり」
「東京タワーは?」
「また今度な」
「えーっ」
「ほら、見えてきた」
想子に言われ、蓮子は想子の顔に向けていた視線を眼前に合わせた。
「うわっ…」
その、銀色。
美しく、シンボリックな姿。
見ているだけで、蓮子は体がびりびりと痺れるような感覚を味わった。
「すごい!かっこいい!おしゃれ!でっかい!」
「いまから、中入るよ」
「昇れんの!」
「うん」
うれしくて、蓮子は小躍りしながら想子の後に続いた。
入場を待つ列に並び、やがて順番がきて、タワーの中に入る。
ふたりはまずショップに行って、蓮子はそこで、父と母へのお土産にひよこを模した饅頭を、アヤリにはバナナ味のケーキ菓子とストラップ、それから、自分用に絵葉書を2枚、購入した。
そしてようやく、展望台だ。
蓮子たちの乗るエレベーターが、がこんと動きを止め、扉がすうっと開いた。
「うわっ、うわーっ、すごい!」
蓮子は小さく歓声をあげながらエレベーターを出て、近くの窓にぴたりと貼り付くように近づいた。
外はもうずいぶん暗くなっていて、大都会の夜が、くらくらするようなきらびやかさで広がっているのをのぞむことができた。
「おお、見える見える」
想子は蓮子の隣に立ち、そのぱちりとした目を輝かせて街を眺めた。
昨年の誕生日、父にもらったインスタントカメラを、いそいそと構えて、蓮子はシャッターを切る。
「うまく撮れるん、それ」
「うん、結構」
「ほーん」
2枚目に出てきたフィルムを、蓮子は想子に手渡した。
「ほら、かわいいやろ。姉ちゃんにあげる」
「はあ、ありがとう」
想子は、いまいちピンとこない、という顔でそれを受け取ったが、画像をちらりと見て、満足気に鞄にしまった。
それからしばらくの間、姉妹は無言になったが、それは心地のいい沈黙だった。
蓮子は、同じフロアにいる他の客の話し声がどんどん遠く聞こえるようになっていくのを感じながら、想子の横顔を見た。
本当に、きれいになった。
俳優みたいや、と心の中で呟いてから、蓮子はそれがおかしくなって、ひとりでくすくす笑った。
姉が本当に俳優を生業にする気でいるなんて、まだ少し、信じられないような感じがしていた。
「蓮ちゃん」
突然、想子が声を出した。
蓮子は肩をびくりとさせたが、想子が真顔でいるのを見て、できるだけ落ち着き払って、何、と聞いた。
「蓮ちゃん、こないだ、なんで大学行ってんのかって、聞いたやんか」
「…うん」
「考えててん、ずっと」
想子が窓の向こうをじっと見つめたまま言う。
「大人になるのが、嫌やから、かなって」
「大人?」
蓮子は驚いて、想子のほうを振り向いたが、想子はさっきから微動だにしていなかった。
「高校出たら、俳優やりたいって、俳優になってやろうって、あたし決めてた。
できるわけないって誰かに言われるかもって思ったら、こわかったけど、そのままどこにも踏み出さへんのは、もっとこわいし、辛いんやろうなって思って。
でもな、自分がほんまにやりたいことだけで生きようとするのって、ものすごい勇気が要るしさ、そうするには、その人がひとりの、一人前の大人として、しっかり立ってなあかん。
あたしは、その"大人"になるのが、こわかった」
難しいよ、と言って苦笑して見せたが、想子は真面目な表情を崩さない。
蓮子は少しの居心地の悪さを感じながら、黙って話を聞くことにした。
「大人になるにつれて、なんでもかんでも捨てさせられていくんやって気がしてる。
毎日、目まぐるしいのに何気ないから、気付いたら、自分がめちゃくちゃ大事にしてたものがなくなってるってことも、あるんやと思う。
それって、こわくない?
あたしは、捨てたくない。
やりたいことがいっぱいあって、大事に思ってることがいっぱいあって、でもそれ全部、ぎゅーっと持ってたい。
自分の腕の中にあるものを、夢いっぱいの目で…子どもの目で、見つめてたい。
甘いかな?
でも、あたしはその甘さをな、大事に大事にしときたかってん。
大学行きながら俳優やろうなんて、絶対無理って言う人もいたけど、あたしはさ、いまとにかく、何かを手放すっていうのが、こわくてたまらんのよ。
何かひとつに絞るより、2足も3足もわらじ履いてるほうが、楽しいってこともある。
あたしも…あたしも、大人になりたくない」
手すりを握る想子の手が微かに震えているのに気付いて、蓮子はさっとその手を握った。想子の目が、少しだけ潤んで見えた。
「ピーター・パンのさ、ネバーランドに住めたらいいのにな」
想子は鼻で笑ってから、ぼんやりと続けた。
「この夜景もさあ、大人になっても、こんなにきれいに見えるかなあ」
蓮子は目の前の夜景を見やった。
なんてエネルギッシュで、きれいなのだろう。
この景色に、いま感じているような美しさを、同じように感じることができなくなる日が、いつか来るのだろうか。
愕然とした表情を浮かべる蓮子に、想子は我に返ったように笑った。
「ごめん、なんか、言いたいことわからんくなってきた」
「ううん、いいよ」
蓮子ら左手で拳をつくって、隣の想子を軽く小突いた。
「姉ちゃん」
「ん?」
「こないだ、やなこと言ってごめん」
「いいよ」
ふたりはそっと腕を組んだ。
何かに怯えるように、何かに耐えるように、きゅっと寄り添った。
そしてまたしばらくの間、東京の夜を見下ろし続けた。
◇◇◇
7日目、少し遅い朝。
東京駅に、戻ってきた。
改札を通る前、蓮子は想子に紙袋をひとつ渡された。
「なんこれ」
「雷おこし」
「誰が食べるん」
「お父ちゃんとお母ちゃん」
「うちのは?」
「もらったら?」
「これ、食べられへんもん」
「知らんがな」
蓮子はむくれて見せたが、想子はそれを気にも留めず、もう新幹線来るから、と改札を通るように促してくる。
仕方なく、改札を通り抜けてから、蓮子はまた想子に向き直った。
「姉ちゃん、スカイツリーでさ、絵葉書買ったんよ」
「え?うん」
「姉ちゃんに、それ送るわ。来たら、知らせてな」
「おー、わかった」
「なあ姉ちゃん」
「なんやの」
「がんばろうな、うちら」
蓮子が言うと、想子はぱちりと目をまるくしたが、すぐにうれしそうな笑顔を浮かべた。
「うん、がんばろうな」
◇◇◇
姉ちゃんへ
1週間ありがとう!
東京観光、めちゃくちゃ楽しかったです。
次は東京タワーも行こうな。
高校のこと、帰ったらお父ちゃんとお母ちゃんと、ちゃんと喋ってみようと思います。
あと、これはまだ誰にもナイショなんやけど…
わたしは将来、服を作る人になりたいなって思ってます。
いつか姉ちゃんに、かっこいい服作ってあげます。
蓮子より
追伸、豆苗ばっかり食べないでください。
駅弁をはふはふ食べるサラリーマンの隣で、メッセージを書き終えた蓮子は、そっとペンを放して、背もたれに上半身を預け、窓の外を見やった。
もうすぐ、青い青い富士山が見えてくる。
ネバーランドには住めない 津奈木アトランティック @TO-novel1211
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