待つ女

 太宰治の「待つ」という小説では小さい駅で毎日、誰ともわからぬ人を迎えに行く20歳の女性がいる。


 『もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。』 


 私も、ずっと待っている。いつか自分の人生にスポットライトを浴びるような事を待ち続けている。でもいつまでたっても来ない。


『今はこの声は届かず』だ。

いつなんだろう、いつなんだろうとずっと待ち続ける。

高校時代読んだこの「待つ女」にシンパシーを感じずにはいれなかった。

結局、この女はひたすら待つのみだった。最近、自分もずっとそうなるんじゃないかという焦燥感で溢れかえっているのだ。


『身を粉にして働いて、お役に立ちたいというのは嘘で、本当は、そんな立派そうな口実を設けて、自身の軽はずみな空想を実現しようと、何かしら、よい機会をねらっているのかも知れない。ここに、こうして坐って、ぼんやりした顔をしているけれども、胸の中では不埒な計画がちろちろ燃えているような気もする。』


 私はこの何気ない日常でいつも誰か私を見てくれないかな、と四六時中待っているのだ。でも誰も私の事を見つけてくれない。


『何気ない日々はゆっくり僕らを殺す』

『そしてまた変わらず一人お辞儀で帰る』 


私はいつまでこの苦境に耐え続けなければいけないのだろうか。


 27歳の会社員の私は、毎日目が冷たい上司に指示をされ、何をしても感謝もされず、逆に失敗した時だけ怒られ続ける。


 どこの会社に行ったって同じなのだろうか。同級生の大半は当然の面持ちで有名企業の内定を得て、何人かはすぐ会社を辞めてしまった。同窓会なんて、死んでも行きたくない。あれは自分のステイタスを言語化して、RPGのバロメータのように測っているだけのものだ。だが、ある人は死ぬ程働かされて、夜彼の会社の近くを通ったから「一緒に飲まないか」と誘ったら翌日の朝5時に「ごめん、今帰れるんだ」と返信が来た。


毎日が、息苦しい。


 こんなに書式が細かくなくても良いじゃないか。パワポなんて紙にペンで書いて、配れば良いだけじゃないか。だが1㎜単位でずれていると怒られる。


 ウチの会社はただでさえ離職率が高く、皆給与の高い会社に移っていく。でも分かっている、どこに移っても私の不満は消える事はない。


 先日気の優しそうな男性が入ってきて、1週間で辞めてしまった。その人の上司は気の優しい方で、席が近い為私は「ああ、あの人が上司で羨ましい」と思った矢先私は向かいの席で別の上司にいつもの無味乾燥なトーンで怒られていた。

 どうして辞めてしまったのだろうか。その人にとってはよっぽどの事があったのだろう。2つ感じた事があった。優しいだけじゃ生きていけないって事。そしてその人が1週間で辞めたって聞いた時「ああ、私はその人よりは強いんだ」とほっとしてしまった。


 仕事のモチベーションは無料の社食と、社内のカフェにあるソイラテだ。ただ、最近気づいたが会社内の売店でアイスティー(M)を150円で購入する事が出来る。ソイラテは約2杯分の料金だし、お昼はいつも行列が出来ているので売店でアイスティー(M)を購入する。


 ストローでアイスティーを飲みながらだと何とか耐えられるが、今迄折ったボールペンの数はもう何100本になったのか分からないし、何回壁を怒鳴り散らしながら蹴ったか分からない。お昼は20分で済まして、せかせかと仕事場に戻る。

 ちなみに私は仕事中は携帯の電源を切る。以前、携帯をONにしていた状態で、音楽が大量に職場に流れて恥ずかしい思いをしたからだ。あと自分自身のスイッチオン・オフの表れでもある。


 あと、この会社で働いて気づいたのは「年功序列」という制度は素晴らしいという事だ。


 入るまでは「年功序列」という制度を忌み嫌っていた。年を経るにつれて偉くなるなんて有り得ない。しかし、この会社はとてもシビアで、過去に素晴らしい実績を持った人でも「で、今何もしてないよね?」「何も会社に貢献してないよね?」となり、「もう要らないんじゃない?」となる。

 例えばエンジニアは死ぬまでコーディングし続けなくてはいけないのか。人生、仕事の技術の習得だけじゃなく様々な事が出来ると思う。

 「えー、年を経たら適当なタイトルが付いてへらへらしてれば良いじゃん」って私は思うんだけどこの会社ではそうはいかない。

 あと「えー、一つコードを書くより100人のエンジニアのインフルエンサーになった方が社会に貢献してない?」と思うのだが、ダメらしい。死ぬまで「実績主義」というのも非常に息苦しい。会社に居座り続ける為に実績を作り続けるのも本末転倒というか、人生を楽しむ為に仕事があるのであって、仕事の為に人生がある訳ではない。


 私は根っからの文系職だから、エンジニアは魔法のようなコードが書けて、専門職で羨ましいと思ったが、確かに知り合いのエンジニアは皆いつもコーディングの勉強していて、常に新しい技術を取得しなくてはならない。

 ただ、私にもスポ根がある為「ずっと努力して研鑽する人の姿は美しい」とは思うんだけど、その都度好きなことすれば良いんじゃないって思うんだよね。

 逆に文系は確固たる技術がなくて、特に文系の新卒は「4年大学にいて何を得たの?」って大半はなる。私は英語しかなかった。

 ただ、この会社に入れば英語は皆出来るし、スキルでも何でもない事に気づかされる。


 人が会社を辞める理由は千差万別だ。

 ただ単に「お金がもっと欲しいから」というだけではなく、複数の不満が絡みあって人は会社を辞める。特に外国人だと、辞めるスピードが速い。


 会社では殆ど人と話さず、寧ろ人と話さない方が機嫌が良い。

『私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合せて、お変りありませんか、寒くなりました、などと言いたくもない挨拶を、いい加減に言っていると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にいないような苦しい気持になって、死にたくなります。そうしてまた、相手の人も、むやみに私を警戒して、当らずさわらずのお世辞やら、もったいぶった嘘の感想などを述べて、私はそれを聞いて、相手の人のけちな用心深さが悲しく、いよいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります。世の中の人というものは、お互い、こわばった挨拶をして、用心して、そうしてお互いに疲れて、一生を送るものなのでしょうか。』


 ああ、本当にそのような一生を送るものなのだろうか。本当に。嫌だ嫌だ嫌だ。朝しんとした誰もいない会社にいると非常に清々しい気分で、一生この状態が続けば良いのにと切に願うのだ。


 私はそそくさと定時で帰って、駅に向かうとご年配の方々が一斉に「選挙に投票しよう」というキャンペーンをやっていた。ああいう社会的な活動をなさっているご年配の方の方が元気そうに見える。やはり人間何か目的があった方が顔が活き活きとしている。


 私は社会人になってから社会で起きている物事に対して何も関心がなくなってしまった。明日あの仕事はどうしようとか明日どう生きていくかに対しての関心がなくなり、学生でいた方がまだ社会に対しての関心があった。

 「社会人」、という呼称なのにも拘わらず、単に「社会人」と名の付く人間は狭い箱の中に閉じ込められているだけにしか思えないのだ。「社会人」になればなる程、社会から離れているような気がするし、自分がどういう人間だったのかも忘れてしまう。ああ、心に暇があるという事は何と素晴らしい事だろうか。


 選挙よりは今日の晩御飯の方が関心は高い。


 「ただいまー」と誰もいない家に帰ると私は洗濯機を回すと同時に晩御飯の支度を始める。

 もうすっかり夏だが鍋というものは大変楽で、おかずを複数作らなくてもお腹いっぱいになるし、野菜や肉を数種類切って足せば何か豪華感は出るし、早業20分で出来る。

 と、いう事で今日はトマトチーズ鍋だ。ああ、叔母がトマトジュースを入れてグリル鍋でパエリアを作っていた事に感動し、つられてグリル鍋を購入して本当に良かった。

 水にコンソメを入れてトマト、粉チーズ、ほうれん草、しいたけ、ついでに余っていたもやし、パセリを最後に入れて蓋を閉めるだけだ。

 ああ、昨日和也が買ったよく分からないスーパーのお惣菜があったんだ。チンしよう。


 と、食器を取り出していると「ただいまー」と声がした。

 「おかえりー」

 「わー、今日も美味しそうだねー」

 「すぐ出来るよー」

 とお碗に鍋を取り、いそいそと和也は部屋着に着替え、座った。


 「今日早かったね?」

 「この為に帰ってきたからね」

コップにビールを注いだ。本当は毎日晩酌なんかさせたくないが、まあ彼の楽しみはソシャゲとお酒とエロ動画ぐらいしかないから良いやと思って最近は何も口に出さない。

 「いただきまーす」


 彼はチーズで煮込んだトマトを頬張ると、「熱くて食べれない」と言った。32歳の猫舌である。

 「でもおいしーね」とすぐお椀が空になるので、おたまで掬ってあげる。と、すぐに空になるので「リゾットにしまーす」と言い、サトウのごはん2パックを入れてまたぐつぐつと煮込んで、おたまですーっと混ぜる。あと水を足す。


 「はいリゾットでーす」と渡すと、また「熱くて食べれない」と言う。

 「知るか!」とは思う。彼は既にグラスが空になっていて、顔が真っ赤になっていた。

 彼は1杯飲むだけですぐ酔っぱらう下戸のくせに毎日飲む。でも晩御飯ぐらいしか彼の楽しみはないので毎日お酒で騙されて生き延びれば良いかな、と思う。でも空き缶や買ってくるつまみの飲み食べた後のゴミ捨てはいつも私になる。彼はしばらくソシャゲしたらすぐ寝てしまう。

  私は8年付き合っている彼氏と2年同棲をしている。周りから「結婚しないの?」とあまりに聞かれるので、もう「結婚というシステムが嫌いな為していない」というキャラに仕立てる事にした。 


 8年もいると最早家族だし、私はその辺に落ちている彼の靴下を拾っていると彼の介護をしているような心境になる。だからわざわざ結婚しなくても良いような心境になってしまう。

 親や親戚が聞くのは分かる。彼らは「孫が見たい」という直接的な動機がある。しかし、私が結婚する事よりメリットが発生しない友人や、初対面の連中すら聞いてくるのは一体どういう心境で聞いてくるのだろうか。まあ、挨拶代わりともよく聞くし。他に話題がないのだろう。

 ただ私を好奇な目、だけで見る連中が私は嫌いなのだ。尊敬、というか愛を持って接してほしい。ただこの尊敬というのも厄介だ。


 『尊敬されるという観念もまた、はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。』

 これは太宰治の「人間失格」からの抜粋だ。聞かれてもいない事だが、私は太宰の、この自意識の高さから来るこのネガティブ感が完全に友達になれそうだなって思う。座・和民で3時間は一緒に居れると思う。「人間失格」ってタイトルがもうえげつなくて好きだ。


 だが、私は現在全く自分がしあわせだと感じた事はない。


 ただ、もう諦めたのだ。しあわせを追う事は。しあわせじゃないと自覚してしまうと、余計朝電車に乗りたくなくなる。周りからは「とても幸せそうだね」とか「羨ましい」とか言われる。人の苦悩は他人には分からないものだ。私から見ればそう言ってくる人の方がよっぽど幸せに見える。


 『自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。』


 またまた太宰治『人間失格』だが、「太宰さんって呼んだ方が良いですか?治さんって呼んでも良いですか?」って言える位の太宰治に対する勝手な気軽さが私にはある。でも、多分太宰は「晩御飯一緒に食べませんか?」と聞くと「あ、一人で食べるので」と断る位のATフィールドの持ち主で、一人で訥々と飲んでいるんだろうなって勝手に想像して、勝手にまた好きになる。


 ああ、満腹になった後の食器の片づけって人生で一番めんどくさいわーと思いつつ、1枚ずつ丁寧に洗い、洗濯機を回していたのを思い出して洗濯物をかごに移して干した。


 彼は眼鏡をかけながら眠っている。二人とも素晴らしく視力が悪いので二人とも携帯とかいじったまま寝てしまう為二人とも眼鏡で寝てしまう。


 ああ、こんな事が果たして幸せと言えるのだろうか。


 周りの人は何をして楽しんでいるのだろうか。同じような事は考えないのだろうか。何を感じれば幸せと認識しているのだろうか。何故会社に通えるのだろうか。周りは全員楽しそうに仕事をしているが、皆そうなのだろうか。仕事や生活で感じた怒りや悲しみはどうやって払拭しているのだろうか。どうやって自分をそう騙しているのだろうか?私は他人や自分の気持ちを騙す事は可能だが唯一自分が幸せだと騙す事は出来ない。子供が出来ればそんな妄言や絵空事は消えるのだろうか。一生何らかの責任が纏わりついて嫌な事をひたすらするのが人間の一生なのだろうか。


 周りの人間に対する疑問は絶えない。私は他人が何を感じて、考えて生きているのか、まったくわからないのだ。もしかしたら聞いていたけれど自分以外に何に対しても興味がなかったから話の内容が全部すっぽりと抜けてしまったのかもしれない。何だか、わたしの中にぽっかりと穴が開いているような気がしてならないのだ。


 何か、皆あんまり趣味の話とかするの恥ずかしいモードの大人になってしまったから大抵皆「何の仕事をしてるの?」という話になる。それってかなりつまらない人生だな、とか私は思ってしまう。


 私の趣味?アイドル鑑賞。


 1年前までは本当に興味がなかったが、なーにが切欠だったかなー。ああ、そうだよヒャダインさんだ。知らない?京大出身の作曲家だよ。ヒャダインさんの曲が好きで、聴いていたらアイドルに結構曲を提供しているから聴いてたらすっかりはまってしまったんだ。私は「ヒャダインさんの曲を歌うアイドル」が好きで、ヒャダインさんがそのアイドルに曲を提供しなくなるとすっかりそのアイドルに対して興味が薄れるのである。アイドルって言っても曲は大事だよね。


 過去に様々なアイドルのコンサートにも行ったし、写真集を購入したり、好きなアイドルのブログをコメントしたり、インスタを見てそのアイドルの髪型を真似したり、私の人生はつまらなくなればなるほどアイドルにはまっていった。

 魅力はその懸命な姿だ。最近のアイドルはやたら振付が激しい曲に合わせて元気いっぱいに踊るというのが主流らしいが、感動する。事務所に無理矢理やらされていたとしても、ハードスケジュールの中、活発に踊る彼女達に感動するのだ。

 

 でも逆にそんな自分に嫌悪感を覚え始めた。これは所謂「自己投影」という奴で、自分の人生で出来ない事をアイドルに託しているだけだ。まあ、アイドルファンっていうのはそういうモチベーションで応援する方は多いけど、何か、嫌だなって思った。


 最近アイドルもtwitterやインスタ等で「自己発信」するようになり、単ににこにこするだけのアイドルが逆に珍しくなってしまった程だ。アイドルフェスで自分のファンがマナーが悪くなったら注意をするし、またその注意をするアイドルを叩く輩もいる。


 悪意に底がないのだ。「熱海に旅行に行った」と何の他意のない文章に対しても「金持ちは良いですね」、とか不満が募る人もいるような社会だ。自分の人生がうまくいっていないからアイドルに投影して、自分によって心地が良くない発言があったら叩く、叩く、叩く、人格否定をする。それは自分に対する「埋め合わせ」の行為のように思えた。自分の欠落している部分を他人の力を使って埋めようとしている。


 アイドルのファンの世界の覗き込むと、ドロドロしていて、大抵何かがうまくいっていない気怠さが一言、一言の言葉に絡まっているのだ。まあ、全員ではないかもしれないが、見た限りそうだった。怖かったのだ。


違う、アイドルは全員だ。生きている人間皆アイドルだ。

誰かに、自分を重ねて、自分の代わりに頑張ってもらうなんてうんざりだ。

自分の人生を生きたい。

 

今日もアイドルのtwitterを見る。

すると、「35歳まで応募できるアイドル2017」の広告を見つけたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る