[9]
どれほど、この屋敷を彷徨ったのだろうか。
時間も、空間も、明確な基準はなく、ただ流れ続ける。
私もまた、身体がどことなく指し示すままに、歩き続けていた。
ふと、顔を上げる。
いつの間にか、ひとつの扉の前に立っていた。
その形、装飾には見覚えがある。……レイチェルの部屋のものだ。
どくんと、心臓が一跳ねして、鈍痛が走る。
ここに、レイチェルが居るのだろうか。
頼めば、この迷宮を解除してくれるだろうか。
それに……できることなら、一言、謝りたい。
やれるかどうかは、分からないけれど。
ともかく、この扉を開けない理由は、見つからない。
意を決して扉に手を掛けると――静かに押し開けた。
* * *
中は、子供部屋である。
天井の高さも、家具の配置も、カーテンの柄も、先刻見たものと変わらない。
ここは、レイチェルの部屋に相違ないだろう。
その真ん中に、ひとりの女の子が、大きいぬいぐるみを抱えてへたり込んでいる。
その娘はゆっくりと、こちらに振り向く。
泣き腫らした顔の上から、まだ涙をポロポロと流す、レイチェルの姿があった。
首元のふわふわした装飾と、右腹部あたりの生地が、ボロボロに破けている。
私が――泣かした。
私が――傷付けた。
私が――穢したのだ。
レイチェルは私を視認すると、「ヒッ……!?」と小さく悲鳴を上げる。
ふと自分の衣服を見ると、ナイフで刺した場所を中心に、赤黒く染まっている。
そういえば、服を直してなかった。怖がられるのも当然だろう。
尤も、例え純白の衣を纏っていたとしても、レイチェルの反応が変化したとは思えないが。
「メ……アリー?」
レイチェルは、恐る恐るといった様子で私に声を掛ける。
そういえば、そんな名前だったな。
他人事のように、その音節群を受け取る。
目の前の女の子は、千切れそうなぐらいぬいぐるみを抱きしめながら、ひどく怯えながら。
それでも何とか勇気を振り絞って、私のほうを見据えている。
「……分かっただろ。わたしは、おまえとはちがうんだ」
零れたのは、そんな戯れ言。
いや、そうじゃない。言いたいことはそうじゃないだろ。
ああ、でも、私はそういう奴だよ。本当のことを、何一つ言えやしない。
「だから、だから……ッ」
言葉が続かない。
封じ込めたはずの、嫉妬と羨望の濁流がまた渦巻いてくる。
やめろ。
せめて、最後だけは、自分で決めたことをやり遂げろよ。
非を認めろ。謝るんだ。
けれど、私より先に、レイチェルが口を開いた。
「ごめんなさい」
それは、私が言うべき言葉。
「私……本当に、嬉しくて……」
伝えるタイミングを逃す。
「メアリーの……あなたのことをっ……知りたいって……」
何なんだ。
「仲良くなりたいって思って、それでっ……!」
どうしてお前が謝るんだよ。
「でも、あなたのこと、全然、考えない、でぇ……っ」
何も悪くないだろう。お前は、被害者なんだ。
「自分勝手に、言いたいこと……聞きたいこと……ぐすっ」
勝手に苛立って、勝手に因縁つけて。
「あなたを……傷付けてしまった……!」
怖がらせたんだぞ。酷い目に遭わせたんだぞ。
目の前で父親に、刃物を突き刺したんだぞ。
「本当に……ほんとうにっ……ごめんなさい……っ」
レイチェルは頭を下げて、私に許しを懇願する。
ポタポタと、涙粒がカーペットに垂れた。
……何なんだよ……!
頭が真っ白になる。
どうすればよいかも分からず。
私は思いのまま叫んでいた。
「やめろ、もういいッ! 悪かったよ、わたしがッ!」
それを謝罪と呼ぶには、あまりにも乱暴で。
「なんでも、おまえのために作ってやるッ! そしたら、ここから出せッ!」
強がり。押し付け。何も変わりはしない、惨めな私がそこにはある。
けれどもこれが、精一杯の償いだった。
レイチェルは驚いたように私を見上げると、今にも消え入りそうな声で問う。
「許して、くれるの……?」
「……いいから、なにが欲しいか言えよッ!」
「……っ、何でも、いいの……?」
「そう、言ってるだろ」
辺りを見回して、壁を見つめて、けれどやがて手元のぬいぐるみに視線を落とすと、小さく呟く。
「ぬいぐるみ……」
「……そんなもので、いいのかよ」
「……た、たくさん……たくさん、欲しい……っ」
何の変哲もない、子供っぽい願い。
そして私が、今まで願ったことも、願われたこともない、普通の願いだった。
「それ、寄越せ」
「……どう、ぞ……」
ぬいぐるみを強引に受け取ると、視て、触って、構造を確かめる。
デフォルメされた、熊のような生物のぬいぐるみ。
こんなもの作ったことはないが、素材やつくりは衣服や寝具に近しい所がある。
恐らく、そんなに手間なく量産できる筈だ。
意識を集中させ、ぬいぐるみのイメージを模る。
ポンと、ぬいぐるみがひとつ"錬成"され、娘の眼前に落下する。
「ふあっ」と吃驚したような声を漏らすレイチェル。
そのまま集中を続けると、次々にポンポンと同じ顔をしたぬいぐるみが生成されていく。
もう、やけになっていた。どうせなら、この部屋を埋め尽くすほど作り出してしまえ。
小さいもの。大きいもの。歪んだもの。くっついたもの。
"錬成"はとどまることを知らず、まるで雨のように降り注いでいく。
やがて足の踏み場がなくなり、それでも能力の行使を止めず。
望むまま、赴くまま、作り続けた。
「ゼェ……ゼェッ……」
体の殆どがぬいぐるみに埋まって、ようやく"錬成"が止まった。
息が切れた。全身が強烈な疲労感に襲われる。
よろめいて、自分で作ったぬいぐるみの海にもたれ掛かる。
普段と違い、空間自体が能力の発動を助けてくれるとはいえ……こんなに長い時間、"錬成"を続けたのは初めてだった。
それに、力を使ってこんなにも疲れたことは一度もない。これは、楽をするための力だったからだ。
そのまま、ほんの少しの時間ぼうっとしていたが、ふと問題に気付く。
レイチェルの姿が見えない。当然だ、私が埋もれるぐらいなんだから。
もしかしたら、ぬいぐるみに押しつぶされているかもしれない。
また、傷付けてしまった……?
慌ててぬいぐるみの山を"分解"しようとした時、その天辺から、ひょこんと小さな頭が飛び出した。
「ぷはっ」
レイチェルが、ぬいぐるみの頂上から周りを見渡している。
その瞳は、もう濡れてはいなかった。
「すごい……すごい、すごいっ!」
目をキラキラと輝かせて、早口でまくし立てる。
そのまま別の山に飛び込むと、きゃあきゃあ歓声を上げながら戯れている。
その様子を、ただ呆然と見つめていた。
レイチェルは気に入ったらしいぬいぐるみを拾い上げると、上を渡って私の方に寄ってくる。
「凄いわ、あなたの能力! 夢だったの、部屋いっぱいのぬいぐるみって!」
これまでに、何も起こっていないかのように。
つい先程まで、泣いていたなんて嘘のように。
血の匂いも、紅い染みも、破かれた服も、まるで気にならないように。
……私は、穢してしまったと思った。壊してしまったと思った。
けれど、この娘は。
危ないほど素直で。畏れるほど優しくて。
ただただ、無邪気に。心のままに喜びを語る。
何一つ変わらない、レイチェルの姿があった。
そして、私のすぐ前まで来ると。
私の手を握って。
私の瞳を見つめて。
顔いっぱいの、最大限の笑顔で――言った。
「本当に、ありがとうっ!」
それが。
その一言が。
私の心を覆っていた何かを。
私が心に被っていた何かを。
溶かして、壊して、外殻の内の――柔らかいものが、露わになる。
……そうか。
これが、一番欲しいものだったんだ。
あの時、母に求めたもの。
決して自分一人では作り出せないもの――
『ありがとう』って、言って欲しかったんだ。
涙を、流していた。
もうとっくに、枯れたと思っていたけど。
どうやら、塞き止めていただけみたいだ。
どんどん、溢れ出してくる。
急に泣き始めた私を見て、レイチェルがとても困惑している。
けれど、どうしても我慢できなくなって――私はぬいぐるみごと、レイチェルに抱きついていた。
そのまま、レイチェルの胸の中で、声を上げて泣いた。
レイチェルは、さらに困惑したようだったけれど。
何も言わずに、私を受け入れてくれた。
そのまま、溜まっていた涙が枯れるまで。
抱えてきたもの全てが削ぎ落ちるまで。
どうしようもなく哀れだった少女は――ただ、泣き続けた。
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