[8]
「がッ……!」
脳天を突き抜ける衝撃。強烈な圧迫感。
耐えられるはずもない激痛が、体の芯から溢れ出してくる。
座っていられなくなり、横倒れになる。
血の海がじわじわと広がっていく様が見て取れた。
濃い鉄の臭気が鼻をつく。
みっともなくのたうち回って、苦痛に悶える。
……まだだ。これだけでは、まだ死ねない。
オーヴァードは、不死のごとき生命力を得る。
心臓を一刺ししたぐらいでは命を絶てない。
あと二、三回、念入りに突き通さないと駄目だ。
絞り出すような叫び声を上げて、勢いのままナイフを引き抜く。
再び激烈な感覚が体を襲い、傷口から血潮が間欠泉のように噴出する。
あまりの痛みに、気が遠くなる。だが、ここで意識を失うわけにはいかない。
刃の根元まで紅に塗れたナイフを、手前に引き寄せる。
ずぶりと、肉を衝く感触。
しかし、刺さったのは腹部だ。手元が狂ってしまった。
もう一度、臓器を裂きながら刃を体外に引き抜くが――血液で泥濘んで、それを手放してしまう。
カラカラと血の海を滑っていくナイフ。
駄目だ、まだ足りない。
その獲物に手を伸ばして、掴もうとして――それが限界だった。
痛い。痛い。痛い。もう無理だ。これ以上やりたくない。
……死にたくない。
「ゴハッ……」
大きな血の塊を吐く。
目にさらさらとした真っ赤な液体が入って滲みる。
ぼやけた視界に映る紅い海には、まるで島々のようにパンが浮かび、岩肌のようにナイフが浸っている。
それを、眺めることしかできない。
気付けば、両手を自分の心臓部に当てていた。
触れた傷口が塞がっていくのを感じる。
灼け付くような痛みも、僅かずつではあるが和らいでいくようだ。
……なんだ。私、そんなこともできるのかよ。器用だな。
思わず苦笑する。自分で傷つけて、自分で治す。
滑稽が過ぎる。なんて無様なんだ。駄目だ堪えきれない。
笑い声は次第に大きくなって、無人の廊下へヒステリックに鳴り響いた。
「あは、あははは……」
ひとしきり笑い転げたあと、大の字に仰向けになる。
こんなに笑ったのは久しぶり……いや、人生で初めてかもしれない。これ以上なく歪な笑いだが。
結局、自害することはできなかった。
けれど、よくよく考えてみれば、分かっていたことじゃあないか。
自分で自分の命を絶てるような心の強さがあるなら――私はとっくにこの世にはいない。
……いつだってそうだ。
一時の感情に流されて。取り返しの付かないことをして。
なのに責任の一つも果たさず。逃げて。逃げて。
能力の、他人の、世界のせいにして。
自分の意志では何一つ決められず。
仕方がない、どうでもいいと嘯き、考えることを放棄して。
自分はこんなにも不幸なのだと言い聞かせて。
『助けて』の一言さえ出せないんだ。
そのくせ差し伸べられた手を拒み。親切を踏みにじって。
自分の都合のいいように決めつけて。
あまつさえ他人の幸せに嫉妬して、壊そうとする。
そんな自分を認められずに、さりとて変えることもできない。
何もかもが中途半端で、どうしようもないほど甘くて。
誰よりも自分勝手で、果てしなく救いようのない――
それが私だ。
* * *
静寂に包まれる、無限の館の廊下で。
真紅に染まる少女が、ふらりふらりとゾンビのように立ち上がる。
体が軽い。大分血を流したからかな。
一歩一歩と、左右に揺れながら歩いていく。
ズキズキと頭痛がして、全く頭は回らないが、それでも何だか冴えた気分だった。
足を床に付ける度、胸と腹部の傷跡が疼く。
むせ返るような血の匂いも、どこか心地よさを覚えるようになった。
……早く、ここを出よう。
私はずっと思い上がっていた。自分は救われるべきなのだと。
けれど、やっと理解した。
最初からなかったのだ、生きる価値など。
救われるに値しない
他者を傷つけ、己のためだけに振舞い、邪心を撒き散らす――悪魔。
そう、母は正しかった。この上なく正しい
初めから、間違っていたのは私の方だ。
今更、後悔と懺悔の念がこみ上げてくる。
……ごめんね、母さん。もう少ししたら、そっちに行くから。
私は地獄に堕ちるから、会えないだろうけど。
早くこの腐った命を終わらせたい。
けれど自分ではそれが成せない。
このままここで何も食べずに過ごしたって、限界が来ればまた何か食べ物を作り出してしまうだろう。
フィリップも多分、私を殺してはくれない。
レイチェルを痛めつけでもすれば、あるいは違うかもしれないが――
これ以上あの娘を傷つけることは、したくない。
だから、この空間から出て。
もっと悪意のある、他の誰かに殺してもらおう。
世の中には私のように、平気で他人を害するものや、人を人とも思わない連中が沢山居ることを知っている。
それこそ、FHに捕らえられでもすればいい。一般人相手だと、
そうして、私の抵抗をものともしない奴らに捕まって。
殴られて。壊されて。犯されて。人としての尊厳を奪われて。モノみたいに扱われて。害されて。痛めつけられて。みっともなく泣き叫んで。恨み辛みを垂れ流して。
けれどもどうすることもできずに。
憤怒と悲痛と絶望に身を焼かれながら死んでいき。
何の役にも立たない廃棄物となって。道端に、生ゴミのように棄てられて。
最期は鳥や鼠に啄まれて、ウジ虫に苛まれて消え失せていく。
それが――私のような最低のクズには、お似合いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます