[7]

 異物に体内をかき乱されるような不快な感覚が弱まり、闇に閉じていた視界が回復していく。

 はじめに目に映ったのは、玄関ホールの高い天井。

 どうやら、仰向けになって倒れていたようだ。

 起き上がって周りを見渡して、驚愕する。

 ……玄関の扉がない。

 あったはずの場所には、見覚えのない廊下が続いている。

 いや、よく見れば他の所も不自然な点がある。

 基本的な構造はホールのままだが、全体的に簡略化されている。ステンドグラスが消失していたり、アーチの飾りなども、どこか違和感を感じる。

 それに、雷が落ちるほどの悪天候のはずなのに、雨音が一切聞こえない。低く唸るような低音だけが聴覚を埋めている。

 さらにはフィリップも忽然と姿を消し、血痕のひとつも残されていない。


 ……これは、レイチェルの"力"……?

      

 あの娘が叫んだ後に、異変が起きた。ならば、あいつの能力であると考えるのが自然だ。

 それならばこれは、建物の構造を作り替える能力――? いや、それでは雨音の聞こえない理由が説明できない。

 空間の複製――? あるいは、よく似た異空間の作成――?

 考察が巡る。正解を求めて。

 ……いや、そんなことはどうでもいいだろうと、思考を打ち止める。

 今大事なのは、出口が消えたということ。

 私はこの空間から脱出しなければならない。

 もう、ここにはいられないから。

 そうして私は、玄関の先――新たに生じた通路の方へ走り出した。



* * *



 "外"は、雨も、それを受け止める地面もなく、深淵のごとき闇がどこまでも続くばかり。

 屋敷の中は、まるで迷宮のように変化していた。

 大量の扉。無限に続くように長い廊下。ループする部屋。

 摩訶不思議な構造。時には、行きと帰りで造りが変化していることすらある。

 試したが、通路を構成する建材は私の力でも"分解"できない。

 時折、別の使用人たちを発見することができたが、その全てが威圧ワーディングを喰らった時のようにダウンしていた。

 どうすればこの屋敷もどきから抜けられるのか、手掛かりもない。見当も付かない。

 闇雲に走り続けていた私も、やがて足を止めると、廊下の柱を背に座り込む。

 荒い息遣いと心臓の鼓動が、責め立てるように鳴り続ける。


 ……疲れた。


 一時の衝動に身を任せた決意が、あっさりと揺らぐ。

 ここからは、簡単には出られそうにない。

 進めども進めども、代わり映えのしない景色を繰り返す。

 侵入者を撃退するトラップや、屋敷を守る番人が出てくる訳でもない。

 退屈で、冗長で、終わりのない迷宮。

 ……確かに、これはレイチェルの能力だろう。

 誰かを害することなどしない。できない。

 そういう愚鈍なほどの優しさが、こんな超常の中においても満ちている。

 それが致命的なほどの邪毒となって、私を蝕むのだ。


 ……私は一生、ここから出られないのだろうか。

 仮にそうだとしても、自然に死ぬことはないだろう。

 この空間には、濃い対価レネゲイドが満ちている。そう感じる。

 一切れのパンを思い描く。

 宙に複数のそれが出現すると、床にぽとん、ぽとんと落ちる。

 普段より、よっぽど楽に作り出せる。食べ物には困らない。

 ……雨音は聞こえず。風も吹かず。

 動くものは、私をおいて他にない。

 そして――動くべきものもまた、ここにはない。


 殺意。

 右手には、ナイフが握られていて。

 それを自分の心臓部に押し当てる。

 他の何もが終わらせてくれないのなら、この手で終わらせるしかない。

 今まで、生きる意味も、死にゆく意味も、定められなかった。

 けれど今は、死ぬべき理由を見つけられたから。

 鼓動が高鳴る。切っ先が震える。

 根源的な抵抗感が湧き上がり、手が動かせない。

 ――やれ。やれ。殺れ。

 自分にそう、命じる。本能が縛る身体を、理性きょうきで組み伏せる。

 そして一層強く柄を握ると、内へと押し込み――刃が、心臓を貫いた。

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