[6]
「……同じ?」
ゆらり、と椅子から立ち上がる。
目の前の幼子は、「ふぇ?」と間抜けな声を発して、怪訝そうな目でこちらを見つめている。
私はその首元に右腕を伸ばすと、その華奢な身体を持ち上げて、ずかずかと壁の方まで追いやり――思いっきり、壁に叩きつけた。
「ギャッ――!?」
激しい衝突音ともに、可愛い悲鳴が小さな口から漏れる。
……やっと、非日常の姿を見せたな。
もう、止められない。行き場を失った激情が、哀れな犠牲者に向かって放たれる。
「同じだと、わたしが!? お前と!? ふざけるなッ! お前になにがわかるッ!?」
「あ……ぐ……っ」
「棄てられたこともないくせにッ! 襲われたこともないくせにッ!」
首元を握ったまま、ぐりぐりと壁に押しつける。
その度に幼子は小さく呻き、顔には困惑が、怯えが、痛みが、次々と表れていく。
それでいい。そうあるべきなんだよ、お前は。
「いくあてもなく、彷徨ったこともないくせにッ! ……殺されそうになったこともッ……!」
右手から"力"が溢れ出し、触れている部分の衣服が崩れ出す。
それを見たレイチェルの表情は恐怖に染まり、もがいて拘束から逃れようとするが、私がそれを許さない。
空いた左手でレイチェルの洋服を乱雑に破り取ると、ある物体を"錬成"する。
それは、忌まわしき記憶。思い出したくない過去。
私にだけあって、お前にないもの。
――この、悪魔がッ! ここから出て行けッ……
――どうしてそんな事言うの、母さん! どうして、私にナイフを向けるの!?
――違う、違う、違う! 母さんは、そんな事しない……!
――偽物だ……お前は! 悪魔は、お前の方だ……っ!
「殺したことも、ないくせにッ……!」
一本のナイフ。母が私を刺すために取り出して――私が母に刺した、そのレプリカ。
それを、あの時の母のように、この無垢な少女の首筋に突きつけていた。
「……ごめん、なさいっ……」
ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちる。
「だからっ……えぐっ……ころさないでっ……」
恐慌と懺悔でぐしゃぐしゃになった顔で、レイチェルは許しを請う。
その姿を見て唐突に――自分が何をしているのか、理性が認識する。
手から力が抜ける。ナイフを取り落とし、支えを失った娘が床に落下する。
ごほごほと、咳と嗚咽の混じった悶えが聞こえてくる。
放心。
数歩、後ずさる。
震える両手を、ただ見つめていると――突然、扉が勢いよく開け放たれる。
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
騒ぎを聞きつけた使用人たちだった。
どたどたと駆け込んできた彼らは、倒れたお嬢様と、転がるナイフ、そして立ち尽くす私を目撃する。
……見られた。
気付けば私は、
次々と動けなくなる使用人たち。彼らを踏み越えて、私は廊下を走り出す。
「待って――」そんな声が、後ろから聞こえた気がした。
* * *
走る。逃げるように。逃げるために。
雨は気付かぬうちに、一層強くなっていた。横風と相まって、窓ガラスを砕かんとばかりに降りしきる。
屋敷は幾分か複雑な構造をしているが、玄関への道筋はもう看破している。
角を曲がって玄関ホールに入り、大きな扉が見えたところで。
「待て。止まってくれ」
相も変わらず起伏のない男の声が、私を制止する。
振り返ると、険しい表情のフィリップが立っている。
……遅かった。
この男に捕まる前に、逃げおおせたかったのだが。
歯ぎしりをして、フィリップを睨みつける。
「もういい。ここを出ていく」
「駄目だ」
「何で……わたしがなにをしたのか、知らないの!?」
「いや、把握している。それについては、当然怒っている」
フィリップは静かにそう告げる。空気が、ピリピリと張り詰める。
ずどん、とどこかで雷が落ちた。
「だったらなんで……!」
「私は、UGNのエージェントだ。オーヴァードを保護する義務がある。キミをこのまま追い出す訳にはいかない」
「なんだよ、それ……!」
「それに、これは私の責任でもある。軽率に、娘に相手を任せてしまった」
淡々と言葉を紡ぐ。視線は決して私から外すことなく。
「正直に言えば――打算があった」
そう、フィリップは切り出した。
レイチェルは両親以外のオーヴァードを知らない。
私を助けたのは、娘の、オーヴァードとしての『友達』に、なってくれるかもしれない。
そういう、考えがあったと。
「だがそのために、キミの事を疎かにしてしまった。だから、これは私の責任だ」
フィリップはそう言って、頭を下げる。
「……勝手だ! そんなのッ!」
「……すまない」
「もういいッ! わたしに、かまわないでよッ!」
金切り声で叫んで、心に思い浮かんだ情動のまま、ナイフを"錬成"していく。
これだけは、イメージしなくたって、対価がなくたって、いくらでも作れる。ただ、殺意さえあれば。
一本、二本と錬成するたび、自身の周りに浮かべていく。
「これいじょう、わたしの邪魔をするなら……殺すぞ」
「……ッ」
フィリップは迎撃の態勢をとる。あくまで、自分からは仕掛けないつもりか。
この男を殺せるとは思っていない。けれど、もうこれ以上この場所にいるのは耐えられない。
私を傷つけるものなど、悪意あるものなど、ここにはなかった。
逆だったのだ。
私が傷つけた。私が、悪意あるものだった。
私こそが――怪物だった。
再び、雷が鳴り……それを合図に、覚悟を決める。
数メートル先の男を見据え、展開した無数の刃を――
「お、お父様!?」
刹那、ホールに幼子の声が響く。
廊下の角、小さな影――レイチェルがこちらを覗いていた。
驚いて、硬直する。けれど、既にナイフは射出されていて。
真っ直ぐ飛翔する刃物の群が、フィリップに突き刺さり、鮮血の華を咲かせる。
それを見てしまったレイチェルは、途端に青ざめて――
「だ、駄目ェ――――ッ!!」
大きな、大きな叫び声を上げる。
その声とともに、私の体を奇妙な悪寒が襲う。
ぐにゃりと、視界が歪む。
「なっ……!?」
歪みはどんどん大きくなって。
雨音は不気味に引き延ばされ、足元の感覚もおぼつかず。
気持ち悪さが、体の芯からこみ上げてくる。
そのまま、私は暗闇の中へと飲み込まれていった。
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