[3]

 まだらに建物の並ぶ道路。

 車の後部座席で、私は揺られていた。運転するのは、フィリップと名乗った男。

 自動車など、今まで通りを行き交うのを眺めたことしかなかった。

 移動のための箱――けれどその座席は、今まで座ったどの場所よりも柔らかい。

 

 もう、焼け付く様な痛みはない。傷はすっかり塞がり、真っ赤に染まった筈の衣も純白のままだ。

 尤も、衣服はフィリップの"能力"で誤魔化しているだけで、車内にはむせ返るほどの血の匂いが充満しているのだが。

 そんなことはまるで気にならないというように、この男は車を走らせる。

 ゆっくりと、ごく平常に。 


「キミの名前は?」


 不意に、男が口を開く。


「……忘れた。ひつよう、ないから」


 意味のある言葉など久々に発するから、発声がおぼつかない。

 か細くて辿々しい、そんな自分の声に苛ついた。


「そうか」


 フィリップはそれ以上、このことについては言及しなかった。

 代わりに自分自身、そして"力"のことについて、少しずつ話し出した。


 世界は既に変貌していて。

 レネゲイドと呼ばれるウィルスの存在。そしてそれによって目覚めた能力者。

 それが、私のような超人オーヴァードという存在なのだと。

 フィリップは自らを、UGNユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワークという組織の人間だと語る。

 自分たちはオーヴァードを守り、ひいては人間との共存を目指しているのだと。

 反対に、オーヴァードの力を悪用し、自分たちだけの利益を追求する――

 FHファルスハーツと呼ばれるテロ組織が存在し、人々の知らない所で、日夜戦いが繰り広げられているのだと。


「支部は今手一杯でね。すまないが、私の家で預かることになった」


 この無愛想な男のことを、信用したわけではない。

 例えば、車のドアを分解するなり、爆発物を"錬成"して爆破するなりすれば、この箱から脱出できるだろう。能力を妨げる、特別な仕掛けもないと。その気になれば、逃げ出すことは可能だ。

 それでも大人しく、この男に連行されているのは――恐れているからだ。

 痛みを。

 あの黒づくめの――FHの男に腹を抉られた時の光景が頭をよぎる度、ぴりぴりとした不快な痺れが身体を蝕む。

 外に飛び出したとして、またあのような連中に襲われたら?

 それに、フィリップやその仲間に追われたとして、逃げ切れるのか?

 全身が竦む。身震いが止まらない。

 要するに、どうしようもなく怯えているのだ、私は。

 傷つけられるのが怖い。もう二度と、あんな感覚を味わいたくない。

 目の前の男は、あの地獄から私を救い出した。だからといって、この車の行き先が平穏である保証はどこにもない。もしかすれば、これから"アレ"と同等、あるいはそれ以上の酷い目に遭うかもしれない。

 けれど今の私に、この箱から降りるという決断を下す勇気はなかった。

 そんな弱った心を悟らせぬよう、表情だけは何も寄せ付けぬような顔をするよう努めているのだが――少女ひとりの浅はかな考えなど、この男にはすべて見透かされているような気がして、私は小さく舌打ちをした。



 * * *



 雲の向こうの太陽がどれだけ傾いたかは分からないが、あれから大分暗くなった。

 窓の外の景色は、建物から木々へと移り変わり、ささやかな山道を抜けて、車は大きな屋敷へと辿り着いた。

 高級そうな車両が並ぶ駐車場に車を止めると、フィリップは私に降りるよう促す。

 雨は飽きもせず降り続いている。フィリップが傘を差し出したが、私は見向きもせず。

 フィリップもまた、無理強いはしない。そのまま、雨に打たれながら男の後ろを歩いていく。

 見たこともないような立派な玄関の前で、フィリップは私に告げる。


「着替えとタオルを持ってくるよう頼むから、キミは……」

「……いい。じぶんで作れる」

「しかし……」

「どこかいってて。……逃げないから」


 舌っ足らずな発音で、フィリップの言葉を突っぱねる。

 声を発する度にイライラする。脆弱で、強がりで。

 ……男は玄関から入っていくと、私はひとり残された。

 血生臭い服を脱ぎ捨てて、"崩す"イメージをもって触れる。

 真っ白に見えた衣は紅染めの状態を露わにすると、そのまま薄紅色の砂状となって霧散していく。

 手に残った砂を雨で洗い流すと、水滴から代わりの服とタオルを"錬成"する。

 体を拭いて、それに着替えると……しばらくして、フィリップが戻ってきた。

 そして、この屋敷の中へと招かれる。

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