第10話

 三号棟と垂直方向に位置する六号棟、すなわち三宅俊輔の住む棟を前に、彼は立ち止まった。三階の右から二番目の部屋。自宅の明かりで清潔感のある白いカーテンが灯っている。穏やかな明かりが彼を待っている。どこからか家庭的な匂いがしている。


 後は入り口の低い段差に足を掛けて階段を登るのみであるというのに、三宅俊輔は歩き出そうとしない。帰るべき家庭に目を奪われたまま動けずにいる。洗濯物の影が揺れる。緩やかな風に煽られて、金具が軋む音がする。埃の溜まっていない綺麗な室外機が動作している。窓の奥では、女性の気配が動いている。鞄の重みが増してきた気がする。


 向かうことのできぬままスマホを取り出し眺め始めてしまう。三宅俊輔自身にも、この時間に何の意味があるのかは分からない。ただ「だるさ」だけが実感としてあるだけである。


 三宅俊輔は自宅に近付いたわけだが、しかしその移動は三宅俊輔にとって「帰る」というよりも「行く」という意味合いの方が近かった。結婚して数か月、結婚に対してまだ実感の沸き切らない三宅俊輔にとって、帰りを待つ身重の女性は彼にとって妻にならずに他人の女性であり続けた。今から行こうとしている場所は家庭というには余りにも、「自分」ではなく、他人事として感じられた。


 立ったまま首を傾けて行っていたスマホ弄りに徐々に本腰を入れ始める。初めはカラフルなゼリーを消すパズルゲームだった内容が、三宅俊輔が膝を曲げ始め、いよいよその場に座ると共に、さらに決定的に家庭から離れてゆく。サイトのホーム画面では、茶目っ気のある女性のイラストが描かれている。


 連絡が来ている。相手は数駅離れた辺りに住んでいる二十歳の専門大生である。


 「あや」という名前のその女性からのメッセージを読むと、三宅俊輔は自分が初めに相手に送った文面を見返した。


「土日は大体全日、平日は夜なら空いてるよ」


 空いてる筈がない。身重の妻がいる身である。土日は極力傍にいて、(いない方が良い時もあるが)また平日は一刻も早く家に帰って妻のサポートをしなければならない。そもそも出会い系サイトなぞやっている場合ではない。


「今から大丈夫だよ。渋谷で会う?」


 という「あや」からの返信は無視して、スマホを鞄の底に叩き付け、欲を振り払いながら三宅俊輔は階段を登らなければならなかったが、現実、駅に向かおうとする三宅俊輔の体と、義務を遂行とする力が釣り合ってしまった。結果として彼はずっとその場に留まったままであった。


 また彼は時間が無くなっていくのを感じていた。「既読」が付いてからの時間の経過と共に、チャンスが遠退いてゆくのを感じた。「あや」の言う「今から」はいつまでのことを言っているのであろうか。三宅俊輔は、出会い系サイトにおけるやり取りがいかに実のない軽薄なものであるかが理解していた。匿名が許されるサイトを挟んでの男女のやり取りには何の責任も伴わない。途中でやり取りが途絶えたり、待ち合わせ場所に相手が来ず約束が反故にされたことも幾度もあった。また、三宅俊輔自身その加害者になったこともあった。会えない可能性の方が高いというのがユーザーの常識なのである。だから少しでも会える可能性を増やしておくために、一度にやり取りする相手の数を多いというのが定石なのであった。ゆえに、三宅俊輔と同じように「あや」の相手は一人ではない筈である。


 「次次。」出会い系サイトを最も多用していた数年前において三宅俊輔が常に自身に言い聞かせていた言葉である。いくらでも相手はいるのだから、一人に気持ちを注入しても仕方がない。気持ちを切り替え続け、余り相手に深入りせず、関心を持たずに新しい相手を探し続ける。


 三宅俊輔は、「今行けるか分かんない。ちょっと待って」と時間稼ぎのためのメッセージを送った後、刻一刻と増してゆく会えない可能性に悶々としていた。窓の向こうの妻の気配の動き方が先程よりも忙しなくなっているように感じる。地面の心地良い冷たさが尻に伝わって来る。トイレで吐いていた妻の後ろ姿を思い出す。丸々とした背中のブラジャーの紐の脇から漏れる脂肪。色気のないロングスカート。カチューシャで止めただけの短い黒髪。横に回り声をかえた時の、ほうれい線を克明にしながらの嘔吐と、穴を膨らましながら上を向いた鼻先。潰れた瞼からは水気が飛んでいた。対し「あや」のプロフィール画像には、女としての余裕が溢れている。


 駅に向かおうとする意志と家庭に帰ろうとする意志の間で宙ぶらりんになった気持ちを抱えたまま、三宅俊輔はどちらの方向でもない。自分が向かう可能性のあるどちらの目的地からも離れて、小さな公園へと足を運んだ。


 人気の無い公園は、公園というよりは小休憩のためのスペースであった。ベンチが細かい白い砂利の敷き詰められた場所にある、少し間隔を開けた二つのベンチの片方に三宅俊輔は腰掛け、スマホを睨んでいた。解決することのない悩みは、揺れている時点で彼の行先を定めているようなものであったが、しかし三宅俊輔は動かなかった。公園に移動した時点で、悩みを持っている自分を、そして現状すらも三宅俊輔は放棄していた。


 高い位置にある時計の針は音もなく進んでゆく。辺りに人の気配はなく、自分の息遣いと鼓動だけが三宅俊輔にははっきりと聞こえていた。「あや」への連絡を決断しないまま、彼はただ結婚したことへの悔みを内心で繰り返していた。


 出会い系サイトで知り合った、そのほとんどが下の名前でしか知ることのないどうでも良い女の数々。看護士や保育士。臨時で高校生を相手にする教員もいた。あった筈の名前が思い出されぬまま、ぼんやりした顔と体と職業が、時々混ざり合いながら浮かび上がってくる。そしてその中に、妻の姿もあった。


 仮名を使っていた。「みなみ」と名乗ったその女性の容姿が気に入り、連絡を送った当時を三宅俊輔は後悔混じりに思い出していた。フリーターをしていた「みなみ」は、時間には余裕があると、絵文字を多用した文面で伝えてきた。そして奇しくも、「あや」と同じように渋谷での約束を取り交わし、それは実現してしまった。


 ハチ公前からは若干外れた場所で落ち合った二人は、一先ず道玄坂にあるファミレスに向かった。時刻は確か九時頃であったと思う。ドリンクバーだけで済ませようとしたが、「みなみ」がねだったのでパスタを奢った。


「『だい』さんは普段なにしている人?」


 音と汁をそこら中にまき散らしながらパスタを啜る「みなみ」の食事中の悪癖は今も変わらない。質問に対して、当時の自分は大学生だと本当のことを言ったと思う。内容は定かではないが、適当な質問をし合い、余り興味なさそうな相槌を互いに発したことは覚えている。


 軽い雑談の後、近くのホテルで事を済ませた。そしてそのたった一回で、「みなみ」は妊娠し、妻になったのだ。


 三宅俊輔に思い出されている記憶は、生々しい妻との体験であった。まだ髪色が明るかった妻の、当時まだ気合を入れていたあの化粧の色気のある屈折が、自分に興奮をもたらしたことが思い出された。と、同時に、あの当時の愛はないが、猛烈な体温の上昇が、嘔吐している現在の「みなみ」によって萎えた。そして、予感していた「あや」との一時が、妻に重なって想起された。「あや」と「みなみ」は良く似ていた。だから惹かれているのだろうか。いや、出会い系サイトで知り合った他のどの女性も大差なかっただけかも知れない。


 「みなみ」も、不注意さえなければどうでも良い女たちの一人として、気兼ねなく忘れることができただろうにと、三宅俊輔は色のない溜息を吐いた。あれよあれよという間にこんな状況になった。


 妊娠すると女性は変わるという。「みなみ」も例外ではなかった。遊び好きの女は、あっという間に母としての自覚を持ち、家庭的な表情や体形を持つに至った。


 そして、きっと今も家の中で体調が悪いからとそわそわしながら、夫の帰りを待っている筈だ。対して俺はベンチでぼんやりしている。変わっていないのは俺だけだ。自分だけがいつまでも無責任に異性と遊ぶことを求めるだらしのない人間のままだ。


 結婚式での、母親の涙を思い出す。妻と共に周囲もしっかりしてしまった。親も友人も上司も同僚も部下も、社会ばかりが身を固めて、当の俺はまだ緩いままだ。


 既に、三宅俊輔は「あや」の元へ向かうことを諦めていた。彼はスマホをぶら下げたまま、約束をおざなりにしていた。「みなみ」と重なってしまった「あや」の姿は、三宅俊輔の気持ちを完全に萎えさせていた。しかしかと言って彼は妻の元に向かう気にもならなかった。


 どのくらいの時間が経ったのかは分からない。三宅俊輔はただ「だるさ」だけを感じていただけだから短いと思ったが、関心は、密かに決心した自分の行動に向かっていた。


 三宅俊輔は出会い系サイトを閉じた。そして次に、LINEを開き、妻のアカウントを帳から削除した。


 彼はゆっくりと立ち上がった。そして歩き出した。その行き先は本人にも分からなかった。だが彼は心のどこかで自分が結局は家に帰ることを確信していた。


 ・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・


 照明に滴る血。蝋燭を吹き消すかのように一気に公園は三宅俊輔の血飛沫によって暗くなった。白い砂利は暗闇の中、赤に染まっていたので、一面が巨大なかさぶたに見えなくもなかった。


 さて、最後の一人である。実はこの人物に関しては、不思議田ナゼなん太郎は当初から目を付けていた。そして最後に取っておこうと楽しみにしていたのである。その人間は、ずっと「現実」の端で歯ぎしりのような金属音を鳴らしていた。儀式的なスピードで寄生は行われた。


・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現代人に関する一省察と、ドッカーン!! きりん後 @zoumaekiringo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ