第9話
優越を全身で感じている山田源次郎は、ただただ自分の立ち位置にまどろんでいた。
きらびやかなこの部屋は彼の理想郷である。職人に特注で作らせた巨大なシャンデリアからの天気雨の時の雨粒のような輝かしい光が隙間なく降り注いでいる。さらに大理石のテーブル上の、ヨーロッパの王室のような装飾の数々がその光が反射し、輝きの範囲の拡大に役立っている。加えて蝋燭の火の連立は、派手な中でどこか落ち着いたムードを与えてくれる。壁の絵や盆栽やステンドグラスも、退屈させない良いアクセントとして存在感を増している。
山田源次郎は肉を食しながら、ひたすら自らの現状を楽しんでいた。咀嚼する度に口内に広がる旨味に、自然と口角は上がってゆく。そしてそれの幸福度を、山田源次郎の美的感覚による計算された美しい部屋が高めていた。
部屋は、山田源次郎が幼少期を過ごした農村の、畑を脇に構えた少し小高いところにある、柿の木を杖にした倒壊寸前の住居を塗り潰すような空間である。本人は当時の記憶を五十年前上京と共に現地に置いてきたと思っているので否定するだろうが、部屋の内装の極端な豪華さは、山田源次郎が過去味わった辛酸を覆い隠すための輝きに他ならない。無自覚であろうが意図的であろうが本人は豪勢な装飾の訳を「個人的な趣味」と断ずるであろうが、それは言い訳である。過去の屈辱と現在の栄光にギャップがあるからこそ彼は肉の旨味をより濃く感じているに違いないのである。
隠しているつもりであろうが、事実、栄達によって覆い隠したはずの山田源次郎の日々の生活の僅かな隙間には、寝た切りの老婆のぼやきがこだます、納屋と見間違うほど貧相な住居における当時の生活が見え隠れしていた。例えば山田源次郎が現在行っている食事において、時折方言混じりの言葉を発する紫色の口を、閉じることなく咀嚼を行い、また背筋を伸ばさず前傾で、かつ大急ぎでものを食べることが育ちの悪さの表れであった。当人は食う物に困っていた子供時代の自分の様相を近所に住む人間たちが形容した「鶏」時代の自分と、「鶏小屋」と罵られたあの頃の住まいでの暮らしが漏れて人目に現れることを何よりも嫌ったが、それに対する極端な忌避が、寧ろ人に山田源次郎の生い立ちを雄弁に語っていた。
陰口が耳に入らない無自覚の被害者は、憐みの目で見る対象ということと、本人の謙虚な振る舞いのおかげで周囲の人間から一定の支持を集めていた。それによって先代から受け継いだ権力は盤石といえた。
山田源次郎は、現状の幸福を舌だけでなく全身で味わっていた。辺りを包む非常な光量は、今の自分を照らすスポットライトであるといえた。そしてそれに対する観客はたった一人であったが、決して役不足ではなかった。自分が居る社会的立ち位置を羨む人間の存在が、山田源次郎の嗜む幸せの一番の肴であった。
視線は合わせない。山田源次郎は自分の従者を、仏の掌の上で飛び回る孫悟空の役にしたかった。放任していると相手に思わせながら、しかし本当は外側から相手の行動を観察して全て把握しているという遊興をセッティングしたかった。そのための必要事項として自身に課したことは、相手を直接見ずに、例えば今のようにステンドグラス越しに、間接的に相手の様子を観察するということであった。
仮面を被っていやがる。山田源次郎は笑みをこぼしそうになるのをやっとのところで押し留めた。あいつが俺のところにやって来てもう暫く経つが、感情が顔に出るタイプであるということを本人は自覚していないらしく、薄い仮面の向こう側にあいつの薄ら寒いありきたりな本心が見えることはしょっちゅうである。まさしく猿である。高学歴ということもあって中々能力のあるやつであるが、その経歴で着飾っている猿に違いはない。では俺も仏で間違いはないのであろうか、いや、俺のことはいい。
山田源次郎は、嘲笑の対象を一人に絞りたかったので、自身を観察の対象から遠くへ外した。今回に限らず、山田源次郎は自身を客観視することを嫌っていた。自身の様相には気を使わず部屋の内装ばかりに神経を用いるところ等は、その良い例であった。
わざと口の中の肉を床に落とした。山田源次郎が時々遊戯として行う撒餌は、今回汚物の処理という形になって現れたのである。
俺の視線を気にしてか、こちらを見ながら肉を拾おうとしている。山田源次郎は、主人のことを考えれば従者がティッシュを使わずに、かつ全ての指を用いて食物片を拾い上げるだろうという思惑を描いていたが、それは全くその通りになった。思わず吹き出しそうになるのを抑えていたが、追い打ちをかけるように従者本人が知らず知らずの内に仮面から毛と共に犬歯を浮き出し、非理性的な剛毛と攻撃的な牙が現している様を見て、我慢は限界を悠々と超えてしまった。しかし意図が露見するわけにはいかないので、山田源次郎は咀嚼音を大きくすると共に笑いを噛み殺した。
やがて嘲笑の波は収まり、悠然とした微笑みに変わってゆく。可笑しさの余り目に浮かんだ涙が、時が経ち、従者本人が知らず知らずの内に立てた波が収まり、平生の空気に戻ってゆくと共に、これまでの歩んで来た道のりへの男泣きが滲み出てくる。今日までの努力は、座椅子に張り巡らされた権力者の根のしつこさに表れている。
刻一刻と、時計の針に合わせて階段を一歩、また一歩と昇って来ている。山田源次郎には、自分の次に椅子に座る者の位置が見えているが、「こいつには積み上げるべき力はまだまだ足りない」と断じて、退こうとはしない。
恵まれているのだ。俺があいつの年の頃は、進む道は現在のそれのように綺麗に舗装された階段ではなかった。四肢に突き刺さる数々の岩に、崖といっても差し支えないほど急な坂の上で延々と出くわすのだ。加えて、俺には競争相手がいた。
思い出のほとんどは泥と雨にまみれている。加えて、過去のどのシーンにおいても、当時山田源次郎が居た場所には濃い汗の臭いが漂っている。視覚的な記憶と感覚的なそれが混ざり合い、雨と泥と、山田源次郎たちが流した汗の境界線が無くなる。
苛烈な労働であった。いわゆる「叩き上げ」で育って来た山田源次郎は、ひたすら先代の権力者に気に入られる方法を考え続けた。主人の思惑を常に想像し、このお方が次になにを求めているのか、それを予測し先回りし、口角と目尻に最大限の努力を加えた笑顔で献上した。学力がない彼にとって、人間関係を上手く運ぶことのみが自分の武器であると思われた。
山田源次郎が政策に関して能力を発揮することを諦めたのは、働き始めた当初、後に競い合うことになる佐竹という男の明晰な頭脳を目の当たりにしたからであった。知識の豊富さ、状況分析の正確さ、そして導き出された問題点に合わせた解決方法の的確さと、プレゼンの明瞭さ。佐竹の仕事ぶりには逆立ちしても勝てないと、早々に山田源次郎は諦め、自分だけの、というよりは佐竹には無い部分を探し出し、必死に磨き続けた。
見るからに「出来る男」であった佐竹は、その能力の高さ故に人に緊張感を与えた。佐竹本人は知らない内に、相手が「自分もこの人物と同等のレベルであると思われなくてはならない」と身構えさせてしまう威圧感を醸していた。
人当たりの良さを磨こうと考えた山田源次郎には、幸運なことに、ある程度のコミュニケーション能力が既に備わっていた。というのも、彼はその当時の職場に行き着くまでの様々な仕事を点々としており、そのほとんどが営業等人に好意的な印象を与えなければやっていけない職種であったからである。子供時代の農作物を売りに行ったことから始まったそのキャリアは、上京後の廃雑誌の販売、長靴の販売、風俗店の呼び込み、新聞の勧誘、洋服の販売、炊飯器の訪問販売と重なっていった。そしてそれぞれの仕事は、彼の人生の上で余り脈絡を持たずに点在していたものの、コミュニケーション能力の向上という線で貫かれており、またその線は、販売する商品の売り上げと共に右肩上がりを続けていた。
山田源次郎が行き着いた当時の仕事の一歩手前に位置する職業は、高価な壺の販売であった。既に営業の術を心得ていた彼は、後に主人とかなる政治家に、あえて訛りを強調しながら快活に挨拶し、まずは緊張感を与えないように親しみやすい純朴なキャラクターを演じつつ、本心からという風に、目を大きく広げながら、あえて時折タメ口を交えつつ、相手に監視して知り得る限りの多様なことをし得る限り最大限に褒め称えた。
これまでに様々な敵と鍔迫り合って来たことによる疑心の習慣から、緊張感のある表情をしていた政治家も、徐々に皺を寄せた眉間を軟化させ、「先生だけに特別に」というような言葉にさらに気分を良くした。そして山田源次郎は常套句を繰り返し述べながら、初めから相当高価に設定した値段を半額まで落とし込み、販売を成功させた。
山田源次郎には既に述べた幸運の他にもう一つの幸運があった。それは彼にとってはただの一商売相手であった政治家が、これからの人脈作りのために、自分は不得意な人付き合いができる人間を傍らに置こうと考えていたことであった。
こうして御眼鏡に叶った愛嬌たっぷりの青年は、主人の思惑通りの働きをするようになった。理屈では解っていなかったものの、自分の武器は人当たりの良さであると感じていた山田源次郎は、徐々にではあるが順調に主人の席に近付いていった。
とうとう座椅子の傍らに行き着いた山田と佐竹にできることは、すなわちそこに座るに十分な力を蓄えた二人にできることは、主人の指がどちらを後継者に選ぶのかを待つのみであった。
当時の、人生において最大の喜びを肴に、山田源次郎はワインを飲んでいる。その卑しい格好には、彼を支えた貪欲さが滲み出ている。
暫く間を置いた後、当時の主人は山田源次郎を指名した。一人部屋に呼び出され、後継者を告げられた時、深々と下げた頭の裏では、嬉しさが過ぎて起きた震えが、顔面を複雑化していた。背中まで振動が伝わっていたのかも知れないが、まだ審査されている可能性がないわけではなかったので、必死に隠した。
勝利。部屋から出て、恐らく自分とは正反対のことを告げられるべく呼び出された佐竹の、俺の様子を見て全てを悟ったあの貌。廊下で跳ね回った当時と同じような高揚感が山田源次郎の胸中で蘇った。そして感慨深そうに山田源次郎は自分の使い古された両手を眺めた。険しい崖を登って来た証が、浮き出た血管や無数の皺とシミとして現れている。それらを愛でていると、燃え滾ったあの頃の激情の余熱が、手から腕へ伝い、そして頭頂部まで温めてゆく。酒の効果もあってから、意識が遠退いてゆく。
寝息を立て始めた山田源次郎には知る由もない、彼の過去の栄光を少し萎えさせる事実がある。
当時、廊下で跳ね回るライバルを尻目に部屋に入った佐竹には、主人が自分に何を言おうとしているのかが既に分かっていた。そしてそれはずっと以前から予測していたことであった。
主人と佐竹は似ている部分があった。思慮深く、常に頭に計画の図面を浮かべ、関わる人物の価値を損得勘定によって判断するようなところは、特に共通する事柄であった。そして向かい合った両者は、長年の付き合いによって同族嫌悪に陥っていた。互いの思惑を互いに思惑し合っていることが分かっていた両者は、疑心し合っていた。権力を保持したい主人とその座を狙う従者は、常に水面下で鍔迫り合っていた。
いよいよ引退という時期に差し掛かっていた当時、大人しく隠居してくれると思えないと、主人を疑う従者と、その思惑を見抜いていた主人の沈黙の中行われた攻防は、当然のこととして主人に山田源次郎を後継者として選ばせた。政策という観点では選ぶべきは明らかに佐竹であったが、既に以前から佐竹にだけは席は譲るまいと心に決めていた権力者は、盤石に政策を固めており、人脈さえ間違えなければ権力を維持できる状況を作っていた。そしてその気配を前々から感じていた佐竹は、椅子に座ることを随分前に諦めていた。
その後、引き継ぎには労を要せず、滑らかに山田源次郎は現在の位置に行き着いた。座った当初、その感触に酔いながら、彼はそれまでの苦労を思い出しながら、自分と主人の関係は、結局最後までセールスマンと訪問販売先であったのだと勝手に考えた。出会った頃の自分の持った大して高価でもない壺は、彼自身に置き換えられた。これまで自分は、必死に主人に自分自身を主人に売り込んで来たのだと思った。そしてこいつは、良い壺を持っていたのにも関わらず、その売り込み方が下手であったのだと、部下になり、傍らに立つ佐竹を見ながら、優越に浸った。
その当時と現在、光景はほとんど変わっていない。
安楽に座ったまま、山田源次郎はいつも自分の過去の栄光にまどろんでいる。そしてその傍らには、佐竹とよく似た従者が仕えている。
珍しく、山田源次郎は悪い夢を見た。あの頭脳明晰な男に似たところを持つ従者が、こちらにやって来て、自分を襲う光景が現れた。この座を奪うための計画を実行に移し、こちらに歩みを進めて来る従者の姿がそこにはあった。
「そこを退け。」
という言葉と共に、従者が自分に迫って来る。二人の距離が縮まるにつれ、主人と儒者という関係性は、境界線を融解し、不明瞭になってゆく。
山田源次郎は恐怖する余り、目を瞑った。そしてその瞬間、「目を瞑った」ということからそれまでのことが夢ではないのではないかという疑惑が、瞼の裏で渦を巻いた。
暗闇の中、衣服が擦れる音だけが聞こえる。何が行われているのか、騒がしい気配はしばらくして、体から離れていった。
目を薄く開け、現実との間にあるドアを恐る恐る開けると、従者は寝に入る前と同じ場所にいた。異様な光景は切り取れば、その前後は違和感なく繋がった。やはり悪い夢だったのだ。
この位置は揺るぎない。少なくとも今のように、あいつがまだまだ遠いところにいる限りは。
そして山田源次郎は嫌な汗を枕に再び現状に微睡み始めた。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
単純作業はラストスパートに至ると、それが不思議田ナゼなん太郎の常であるが、無心に行動した。今回の業務も例に違わず、仕事人は手慣れた作業を頭ではなく肉体によって行った。顎を外してから中に入るまでの工程は、「現実」内の人間でなくても、見逃してしまう程滑らかで素早いものだった。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
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