第8話
太陽なのかも知れない。円形の白い光が二つ、交わったり離れたりしている。目を擦ると、乾いた皮膚の音がする。次いで異臭に気が付くが、別に驚きはない。いつの間にか寝ていたのだろうか。覚えているのは確か、いや、覚えていない。夢と現実の境界は糸屑の様に頼りなく揺れている。
腰が痛い。体を起こすきっかけを探す。酒の空き缶の冷たさに触れる。指先が濡れたような感じがしたため、まだ中が残っていたのかも知れない。が、そちらを見ようとも思わない。ガラガラ音を立てたが、手は潰れた空き缶の山を崩しただけだった。掴める物はないか。ビニール袋の端を引っ張ったが、中に重たいものが入っていたらしく、破れた片だけが掌に残った。いよいよ本腰を入れなくてはならないと一息ついてから、ようやく朧な光から視線を逸らす。
寝間着の袖口の狭さで跡が付いた左手首。肥えた掌。その先に女性の笑っている口元だけが見えている。グラビア雑誌はその上部を刺々しい断面に埃が溜まっている折れた木材に隠されている。確か机を作ろうとしたのか、その木材は破けたタンクトップの引っ掛かったベニヤ板とかろうじて小さな釘で繋がっている。弾けたデザインの空き缶から漏れた汁は、丸まったティッシュを栄養ドリンク色に染めている。その辺りに点在している。ティッシュは部屋中に点在しており、俺に近いものほど水気を含んでいる。取り敢えず手に触れた一つを、どこか知らないが適当な方へ投げる。重さを失ったプラスチック製の円筒型のゴミ箱が呆気なく倒れている。
倒壊した部屋干し用の器具が折り重なったまま沈黙している。唯一空に付き出している骨の根本に、薄い色のハンガーが堆積している。腐ったビニール片。俺なりに区分けしたつもりだろうか、食物であった何かが大量に山積みされている。なるべく自分から遠ざけるように作られた異臭を放つ小山がそこら中にある。そしてそれらは時々雪崩落ち、色々な文物と混ざり合っている。
公認会計士に関する参考書や赤本の束。その他諸々の資格を取るための手段の数々には、ページの端を曲げたり付箋を貼ったり蛍光ペンでマーカーを引いたりされているが、印は記憶から完全に解けてしまっている。
仕切としての機能を失った障子に開いた、穴というには余りにお大きすぎる穴の向こうに、黄色い宇宙服を来た等身大の赤ん坊のオブジェが見える。その人形の特徴的な口ひげが、後頭部の端から少しだけ覗いている。また骨組みごと折って破壊した障子の向こう側には他に、古いSF雑誌、昔の人間が描いた未来における丸い照明器具や、球を引き伸ばした様な銀色の飛行機の模型、顔にスケッチブックが掛かった、濃い肌色の女性の裸のフィギュアがある。
ネタ帳と題されたノートには何を書いたかは覚えていない。
珍しく指紋の付いていないものがある。庭先で両親と撮ったものだ。気味が悪いほど若々しい両親の笑顔の足元で、俺は写真を撮るのには相応しくない貌をしている。それが日焼けによって、昼過ぎだった当時を重い夕刻に変えている。きっと青々と茂っていたのであろう庭の草も、尖状に隆起した土に見える。
「自分を変える」という意味のタイトルの数々は、表紙から飛び出す勢いで声を挙げている。その中のどれを読んだのか、もしかしたらほとんど手を付けていないのかもしれない。短く髪を刈ったスーツ姿の男性の荘厳な顔はそのころのまま綺麗に照っている。
既に腐った木製バットの茶色の亀裂は、湿っている。老犬の舌のようなペナント。破れた有名選手の立派な肉体。
文豪然とした立派な万年筆の先端から漏れ出た黒が四百字詰め原稿用紙に水溜りを作っている。なぜか人がそこに頭を突っ伏しているように見えるが、自分の残像には見えない。旅館にありそうな脚のない椅子の背もたれに渋い色の浴衣が掛かっている。確か藁のような色であった座布団は、椅子から外れた切り行方知れずのままだ。
トマト缶の上に羽虫の群れが浮遊している。その球形の塊は、先程から少しずつ部屋中を移動している。
古文書の上には水晶が置かれている。河童のミイラのような、もしくはウルトラマンのミイラのような木像の、印を結んでいる細い腕には紫の尾が目立つ数珠がぶら下がっている。その影の真ん中に、時計のような模様が刻まれた箱が位置している。
指先に止まる錆びた昆虫。伸びた爪の上で、虻はまんじりともしない。先端が膨らんだ六本の足の内、後ろの四本を床に付け、前二本を宙に留めている。何も見ていないかのような大きな黒い目が存在している。
連なり、波を作っているゴミ袋の山は途中で解けている。全てを捨てて整理しようという計画は頓挫され、根元のところで要らぬものを散らかしたままにしている。透けて見えるビニール袋は、やはり内部を腐らせている。山積みにされたゴミ袋たちに、なぜが自分を見る。重たい頭が悩ましい角度で積まれている。
天井に気配。鼠か何かだろうか、部屋の角には蜘蛛の巣が掛かっているが、埃に粘着力を殺されたからか、千切れており、そこに主の姿はない。
柱に刻まれた成長の証は、思春期を境に途絶えているが、恐らく大して伸びてもいないだろうから、それで良かったのかもしれない。
両親はどこだろうか、部屋の外に居るのかあるいは、壁の向こうで骸骨になっているのかも知れない。死人に口なし。それを望んでいる自分の後に、想像した死体の冷たさに恐怖を覚える自分が続く。そしてまた親が死んでいるのを望む自分がやって来る。交互に現れる二種類の自分はやがて飽きと共に潰えて遠ざかってゆく。
近くにはパソコンが常設している。昔から、枕よりも近くにあったそれの近くには、プログラミングに関する書籍が、例に漏れず大量にあり、そして例に漏れず投げ出されている。手を掛けたが、空き缶の山と同じように、動かした手の分ずるりと動き、起きる手助けにはならない。
喉が渇いたため伸ばしたボトルは、手元の狂いのせいで遠くへ転がっていった。両手で顔を擦る。暗闇に入った指間からの白い筋。ざらざらという摩擦音。
陰茎の辺りを掻き、暫くの間弄り続ける。放屁。汗ばんだ寝間着が気持悪いが、脱ぐこともままならない。どうしたって解決の仕様がない。光はいつまで経っても明確にならずに二重三重になりながら上空で漂っている。垂れている一本の糸にも手が届かない。
ここは地獄だ。蟻地獄のように、もがいても、もがいても周囲の堆積物が俺を起こさせようとしない。そして確実に死に向かって、墓穴に向かって落ちてゆく。いや、そもそもここが墓穴なのだ。既に俺は死んでいるのだ。
「蟻」地獄というのは蟻に悪いかも知れない。働きものの蟻は捕食者の罠に運悪くはまってしまった被害者だ。それを踏まえると俺がいるのは「蟻」地獄ではなく、「俺」地獄なのかもしれない。俺が罠にはまった被害者という点で、そして、罠を作った捕食者も俺自身という点で、ここは俺地獄だ。「自業自得」をここまで体現している人間が俺以外にいるだろうか。
就職した直後、以前から若干自覚していた世間とのズレは顕在化した。だから俺にはこれしかないと思えるような手に職をつけようと公認会計士の試験を受けようとした。その後大工や芸人、芸術家、占いプログラミング、小説家等思いつく限りのことに手を付けてきた。そして気が付けば何十年という月日が経過していた。そして俺の近くに残った、根を下ろさずにぐらぐらとしている未完成のまま、途中で嫌になって放り投げたもの達の堆積が、すなわち俺の怠惰にまみれた過去達が俺を起こさせようとしない。過去のやり切れずに頓挫してしまった自分への不信感、そしてそれらに費やした時の記憶が、俺の未来への行動を留めている。俺の近くにある全てのものは、一つとして次に繋がることがなく、ただ自分自身への敗北の歴史をまざまざと見せつけてくるだけだ。
光から垂れ下がっている一本の糸は、光に溶けながらも、しかししっかりと存在している。きっと俺のような重い人間が掴まってよじ登ったとしても切れることはないだろう。しかしその糸を手にするための僅か数センチ分の距離を俺は縮められず、起き上がれずにいる。
糸は濡れている。そして伝えた命の雫を一滴ずつ俺の口に落としてくれている。そのおかげで俺はこんな場所でも生きながらえている。
目を瞑ってまた夢か、あるいは現実の世界へ。意識が陰ってゆく。溜息も出ない。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
思わず吸い込んだ空気は、不思議田ナゼなん太郎の肺を重たくした。
吐きながら、彼、「坂東剛三」の存在を体から追い出そうとした。忘れることはしないしできないだろうが、仕事人はさっさと赤いラッパのような傷口の海に意識の中で放り投げた。じりじりと「俺地獄」とやらに落ち、「現実」のドアに近付いてゆく中年男を冷ややかに眺めながら。
ふと見渡すと、不思議田ナゼなん太郎はいつの間にか前来た場所に戻っていることに気が付いた。多角的に「現実」内の人間たちを観察する必要があるため、不思議田ナゼなん太郎はあの豪勢な部屋を別の視点で見ることにした。対象は醜かったが、我慢の範疇であった。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
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