第7話

 入って来た堂本隆分、芸人たちが無言で詰めた。パイプ椅子を囲ういびつな形の円が僅かに揺れる。


 見渡したところ、知り合いはいない。当たり前かと思いながら、尚も観察を続けると、どの組も自分よりも若そうだが、その中でも一際、随分と若そうな芸人も居る。眉に掛かっているキラキラ光る緑色の髪の毛、首元まできっちり占めた、しかし緩めの白シャツ。大学生くらいだろうか。肌が白く、目が細い。時代の恩恵でモテそうな若者である。その隣にもう一人、同じく二十歳前後の男がいる。おそらく緑髪の相方であろう。同じような髪型だが、比べると少し頑固そうな髪質である。若干色黒で目が大きく服装は茶系の服である。どちらもとても芸人には見えない。まず髪を切らんかいと内心で説教しながら、この若造二人にだけは絶対に負けまいと堂本隆は心に決めた。


 舞台に、主催者と思われる男が現れた。伸ばしっぱなしの長髪に眼鏡、小太りでチビ、チェックシャツに天然のダメージジーンズ。ぼそぼそと挨拶しているところからも、やる気が感じられない。決まりきった常套句を述べた後、主催者はごそごそと後ろのポケットからスマホを取り出し、一組ずつ名前を読み上げ始めた。


 自分の芸名が呼ばれると、共演者たちに挨拶しながら堂本隆は壇上に上がった。周囲から帰って来た挨拶が小さいことに多少ムカつきながらも、主催者にエントリー費の二千円を払いながら「明転飛び出し、挨拶終わりで」ときっかけを告げる。


 流行のバンドのような名前だと思ったら案の定、例の若造二人が舞台に上がった。既に点火していた堂本隆の闘士に薪をくべたのは、緑髪の方が周囲に挨拶しなかったことであった。 


 黒髪の方は体育会系の部活出身、あるいは今現在所属しているのか、まあまあ大きい声を出して挨拶した。しかし緑髪の方はそのほとんど先輩で占められている筈の共演者たちの方を見もせず、さらに主催者にエントリー費を払いながら、「暗転板付き、音ありで、台詞終わりで」と言った。堂本隆は口角を下げたまま眉を上げ、呆れ混じりの驚きを表した。なぜなら若造は最も主催者側に嫌がられるきっかけを言ったからである。


 楽屋は美容院のようである。床には野球のベースより一回り小さい白いタイルが一面に敷き詰められている。中央に脚が赤く胴体が白い大きめのテーブルが一つ。脚が白く胴体がガラスでできている長机が壁に沿って三つ、コの字を描くように配置されている。そのコの字の二つの角の内、客席側の方には隙間がある。これは芸人が共演者のネタや客の様子を後ろから見ることができるようにという工夫である。楽屋で唯一長机が面していない壁には、主催者専用の若干高価そうな仕事机が設置されている。その脇にある暗幕は舞台との仕切になっている。楽屋の中央と壁を埋める幾種類かのテーブルの間には、出演者用の椅子が必要以上に多く置かれている。中央のテーブルの上には、この会場で行われた別のライブでのものと思しき客からの差し入れのお菓子の空箱と、そこから溢れる端のギザギザの窪みの一つをきっかけに開けられた透明な小袋のゴミが幾つも置かれている。他にもホワイトボード用と油性に分けられたペンや、大喜利に使うであろうフリップの束が輪ゴムやビニール紐によって括られ、端の方に置いてある。机の下には、大きなトランクがある。修理工が使いそうなものだが、中には工具は入っておらず、芸人が自由に使える小道具が沢山入っている。


 話す相手がいないので、堂本隆がひっそりと、楽屋の端に置かれていた丸椅子に腰を掛ける。どうやら椅子の脚が剥がれたタイルを踏んでいたようで、高い音が立った。しかしこちらを見る者はおらず、堂本隆は寧ろ恥ずかしい思いをした。話す相手がいない堂本隆には、周囲の様子を眺めることしかできなかった。


 芸人たちはそれぞれに思い思いに時間を潰している。大阪から上京したばかりの堂本隆にとっては知らぬ顔ばかりであるが、彼ら同士の間にはコミュニティーがあるようで、中央のテーブルを囲んで世間話をする一団は、このライブの常連であるらしく、楽しそうに駄弁っている。先輩に挨拶もせんと。自分よりも芸歴が短いであろう共演者たちに、堂本はまたも内心で毒づいた。大阪時代には考えられないことであった。楽屋に入るとまず芸歴、所属事務所、名前を交えて自己紹介したものだ。それが当然だと先輩からは叩き込まれた。舞台では失礼をしてでも目の前の笑いを取りに行け。だからその分の礼儀はしっかりとしろと常に言われて育った。だから自分も後輩によくそう言って聞かせた。東京はこんなにも緩いのだろうか、それともこのライブの連中が特別無礼なのか。


 東京の芸人界について、堂本隆にはほとんど情報がなかった。東京には知り合いがいない。先に大阪から上京した知り合いがいるわけでもないし、いるかもしれないが元々外交的なタイプではないので上京してからも連絡を取って会うなどの密接な関係は大阪の芸人仲間とは、十三年もの芸歴を重ねながらも結局築けなかった。ライブが終われば呑みに行くこともあったが、その程度に交流は留まった。


 「心機一転」と夢を描いて東京へ来た堂本隆であったが、その想いの裏腹には、「大阪ではもう限界かも知れない。」という本音があった。所属した芸能事務所からはほとんど仕事が来ず、知り合いも少ないので伝手による営業の仕事が来ることもなかった。バイト生活も上手くいかなかった上に、大阪は地元であるので家業を継ぐようにしつこく言ってくる両親が住んでいる。逃げ出して来たという方が、堂本隆の上京には適した表現なのであった。


 やかんのようなデブがいる。金髪、オーバーオール、赤みがかった顔、細い目、鷲鼻。それらの要素の集合が何故かやかんを想像させる。リーダー的存在であるらしいと思ったのは、そのやかんが一際大きな声を発する度に、周囲の連中は大げさにリアクションしているからである。くだらないと断じて聞き流していたが、やかんのある一言が、堂本隆の耳に引っ掛かった。


「マセキは無理だって!年厳しいでしょ。」


 俺に向かって言っているのかと睨みを聞かせたが、相手はこちらに見向きもせずに、一同のリアクションに「三十まで。相方が若かったらいけるらしいけど」と苦々しくも自慢げな顔で補足している。


 堂本隆は思わず漏らした溜息を、やかんとその仲間たちが発した所属するのに年齢制限があるその他幾つかの事務所の名前の数々が、その色をより濃くした。東京に来て一年程経っているのにも関わらずどこの事務所にも所属できていない現状に堂本隆は焦りを覚えていた。ネタ見せには通っていたが、未だどこからも声は掛からない。自分の芸風に合っていると思われる事務所が一つあるが、そこが最後の砦のように思えて中々足が向かないでいた。そうゆう時期に聞こえて来た年齢制限のある事務所の一つに、目当てのところが名を連ねていたのである。


 「何してたんや俺。」後悔は遡り、上京したこと自体をその対象とした。


 大阪で培ったものが何一つ東京で通じないことを堂本隆は感じていた。大

阪で受けていたネタが東京では引かれてしまう。コテコテの関西弁で日頃の怒りをぶちまける漫談を得意とする芸風に、骨ばった厳つい顔立ちが相まって、東京の、特に女性客を怖がらせてしまっていた。それだけで東京が合わないのは明白であったが、加えて堂本隆は人脈が乏しかったので仕事がなかった。進歩のための上京であったのに、寧ろ状況は悪化するばかりである。大げさなサーベルが光る。小道具である。鍔から天使のそれのような白い羽が生えている。中心には赤い宝石を模したプラスチックの球体がはまっており、刀身はやたら分厚く、中央に折れ目がついてしまっている。やかんが後輩と思しき、細身のよれたTシャツ姿の男に効果音を口にしながらゆっくりと切りかかると、相手はやかんと同じスピードでリアクションした。そのノリを遭えて無視して、「ちょっとすいません」と二人を別の奴が割り込んだ。一同が笑う。所詮身内笑いや。と思いながらも、堂本隆はその「所詮身内笑い」を羨んだ。 


 彼が最後に笑ってからしばらく経っていた。


 前列が開いているというのに、後ろのしかも右端の席にやたらカラフルな服を来た白髪の男が一人、前列中央に三十歳くらいの女が一人。まだ二人しか客は来ていない。想像通り客数は少なかった。インディーズとは言え、二桁は行けよと思いながら、やかんたちの会話を聞いていると、どうやら女の方は常連であるようだった。実質一人やないか。まさかこのまま始めないよなと思っていたが案の定、楽屋、客席共に暗転し、OPの音楽が流れ始めてしまった。


 香盤も悪くなかったのにも関わらず、結果は散々であった。堂本隆は客席の後ろで例の緑髪の組のネタを見ていた。自分と違い、まあまあ受けている。やかんの組は滑ってもへらへらとしている。しかしもっとも滑ったのは自分である。堂本隆は意気症消沈したまま、エンディングに出ず、主催者にさえ挨拶せずに会場を後にした。


 帰りの道で堂本隆はまた深い溜息を吐いた。そして赤らんだ鼻を傾けた。と、同時に、背中が決定的な破損の目に遭った。


・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・


 「現実」の中、やかんたちの束の横で、堂本隆は不自然な姿勢を取っていた。遠ざけるように背を向けながらも、目はそちらを向いている。またさほど遠くないところにいる、大阪時代の人間たちの束にも目を向けたりしている。そのような捩じれが彼を苦しめる最も大きい要因のように不思議田ナゼなん太郎には思えた。


 夢を追っている者たちという点で、細かな束は不思議田ナゼなん太郎によってさらに一括りになった。彼らは一般的な人間、例えば老獪に仕える者が先頭を務める行列を構成する人間たちが描く一本の流れからは逸れていた。行先は同じ椅子であるものの、夢追い人が目指す椅子は「現実」のドアの近くに位置していた。


 寄生の作用による不思議田ナゼなん太郎の気持ちの落ち込みがさらに酷くなったのは、次の宿主と決めた対象の現状がさらに厳しいものであったからであった。仕事人は夢を追う人間の将来を相手に見るような気がしていた。 


 人間の美的感覚と不思議田ナゼなん太郎の持つそれに、大差はない。仮に人間たちからデータを採取し平均的な美醜の分かれ目の線を割り出したとしても、不思議田ナゼなん太郎はその基準値から逸れてはいないはずである。汚いものは汚いのである。しかし仕事は仕事、嫌がりながらでも行わなくてはならない。相手の容姿は見るも無残である。垢の海から這い出て来たような容姿の次の宿主は、清潔の対極に位置している。


 観察者は息を止めながら、寄生を開始した。


 ・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・

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