第4話
高田悟志は、もう少しのところだと、「現実」の中の、必死に目的となる社会的な立ち位置付近で食らいついていた。彼は今、権力者になれる寸前に位置している。また幸運なことに、彼には他者が寄り掛かっていなかった。時折正面の椅子に座る者の脚が脛に当たることはあったが、「現実」内の負担を強いられている者に比べれば被害は少なかった。
高価な絨毯に肉片が落ちた。一瞬それは腐り落ちた豚の口内の肉かと思われたが、冷静に考えればただの食物片であった。汚いことは変わりないが。
高田悟志は汚物を拾い上げてポケットに入れた。主人を気にしてティッシュで包むことなく、また人差し指と親指の二本だけでなく全ての指を使って丁重に事を行った。しかし従者のそのような配慮を主人は見ることなく、ただ汁気の多い咀嚼音をまき散らすだけであった。高田悟志は脛に若干の痛みを覚えたが、それをおくびにも出さなかった。
二人の絶対的な上下関係は、主人がいずれ自分の席を譲り、高田悟志の出世が約束されているからこそ成立することだった。でなければ豚なぞに仕えない。高田悟志は自己犠牲の心を持った人間ではなかった。生涯を通して主人に身を捧げようなどとは微塵も考えていなかった。
およそ現代では考えられない雇用主とその対象者の関係の特異性は、密閉された空間にも表れている。若干古い空気を醸した豪勢な部屋は、慣れ切った二人以外の誰かの目を借りれば異常な様相をしている。
天井には、胸やけするほど巨大なシャンデリアが吊るされている。その照明器具から注ぐ目が眩むような強い光の束は、テーブル上に置かれた食器や、用をなさないその他の装飾品によって部屋中に乱反射している。おかげで並べられた蝋燭に灯っている火は完全に溶けてしまっている。
高田悟志は部屋が嫌いであった。汚らしい、下品な空間は、豚を象徴しているようであると、入るたびに胸中で悪態をついていた。
豚が見せたいのは煌びやかさだけなのだ。こいつは壁に飾られたいくつもの、厚い金縁にはめられた裸婦画や、ドレスのような形をした深紅の花や、天使が描かれたステンドグラスの価値など分かっていないのだろう。でなければそれらを影にしたりしない。調和も何もあったものじゃない。キラキラしていて、でっかくて、ゼロが沢山並んでいればいいのだ。それらを人に見せたがるのは、自分自身がそれらしか見えていない何よりの証拠だ。馬鹿な男だ。だから豚なのだ。人になれない畜生め。自慢のつもりにこしらえた内装なのだろうが、教養の無さが露見するだけだ。
食事中の主人の傍らで高田悟志が内心毒づいていたのは、日頃の鬱憤だけでなく、空腹のせいでもあった。何も入っていない胃を紛らわすために罵詈雑言で頭の中を一杯にしようとしているが、旨そうな匂いは常に鼻孔に侵入してくる。思わずストレスの元凶に目を向けると、心が存在しないかのような主人の眼は、腰を下ろさず虚ろに漂っている。回転しながら咀嚼し続ける顎に合わせて波を打っている顔中の肉の動きは大きく、また大量の汗を伴ったものなので、顔面の肉全てが顔の輪郭の中で混ぜられているように見える。そして段々、その老獪の数本の短い白髪を残すばかりの禿頭や、シミばかりが浮き出るように目立ってくる。
できるなら、今すぐ目を瞑り、鼻を摘まんで退室したいところであったが、高田悟志は彼の執事風な態度を崩すことはなかった。面長な白い顔上の几帳面に配置された左右対称で薄い目鼻口を乱さずに維持し続けた。
優男風ではあるが男前とはいえない、相手が彼よりも優位に立っていると思わせることに役立つ顔は、彼の処世を助けた。それに気付いたのは主人の元に来てからで、それまで頭の中身を重要視されてきた、そして本人も重要視して来た彼にとっては、主人が通じている有権者たちとの関係において自分の顔立ちが有効に働くということが驚きであった。どこに行っても彼は可愛がられた。しかしそれが彼の不満を払拭する要因にはならなかった。寧ろ表層的な部分でものを判断することが、豚に通ずるように感ぜられ、業界全体を嫌う要因となった。何もかもが核心には至らずに、建前だけで成り立っているような気がして仕方がなかった。商売をしている風を装いながら、その実情は維持するためだけの日々のように思われ、彼に業界の閉鎖性をまざまざと見せつけた。
「今後とも一つよろしく」と、誰かから受け継がれた富を保持するための常套句を口々に発する人々は、果たして生きがいを感じているのだろうか。頭を働かさず、先代から受け継いだ生活を踏襲するだけの日々に何の意味があるのか。
「バトン」という言葉が浮かび、続いて疾走する競技者の風を切る猛スピードが想起された瞬間、思わず高田悟志は舌打ちを鳴らした。
明らかな舌打ちの音を、慌てて後から放ったあざといほど大きな咳に無理やりカテゴライズさせながら、高田悟志は横目で主人の様子を確認した。辛うじて目線は交わることはなく、主人は食事を続けていた。咀嚼音で紛れたのかも知れないと高田悟志は安堵した。そして暫くの間、偽りの咳と供に本当の呼吸を落ち着けつつ、高まった鼓動を沈めることに尽力した。
か細い声で「失礼しました」と涙目で告げた時には既に、高田悟志は落ち着き、胸の内で再び主人への罵詈雑言をたぎらせていた。
手汗にまみれたバトンを肥えた掌の中にいつまでも握りしめていやがる。豚と俺の距離が遠いのか、豚はいつまで待ってもここに近付いて来ない。こちらから見えているものの、その距離を縮めることなく蜃気楼のように遠方にあり続けている。
夏の盛り。入道雲を背にこちらに向かって来る陸上競技選手となった豚。赤茶色のグラウンドを踏みつけながらやって来るその様子が変化してゆく。
本人のし得る全速力で走って来る豚。ナメクジのように体液を後方へ流しながら、しかし目を見張るほどのスピードでやって来る。そしてまだ距離が残っているのにも関わらず既に、俺を捉えてからはバトンの先を俺に向けている。前のめりになった体勢は非常に不格好であるが同時に、風に煽られて脂肪を波立たせる豚の勇姿を美しく演出している。
高田悟志はこれほど「勇退」の二文字が似合う光景はないと思った。距離が縮まらないことに変わりないが、それが豚本人の最大限の努力の上での現実であるなら、豚と自分の間の距離が遠く、すなわち豚の体力がまだまだ現役でいられるほど余っており、また不摂生によって豚のスピードが遅くなっていたとしても、現時点で豚がし得る最大限の努力を表してくれるならば、高田悟志にとってそれは暫定的な理想であった。
しかし徐々にスピードを落としてゆく豚。やがて体の動かし方は、走行と歩行の境を決定的に超え、だらだらとしたものになってゆく。さらに進行方向も俺と豚を繋ぐ真っ直ぐな線から逸れ始め、ジグザグになってゆく。さらにその振り幅はこちらに近付くほど大胆になってゆき、やがて僅かな日陰を選ぶに至る。
慌てて彼方に飛んでいた意識を、彼は主人に向ける。首元の汚れたナプキンがテーブルの端にかかっている。豚はワインをボトルからグラスに移しながら、前傾しつつ、もうグラスに口を付けている。わざわざグラスを挟む理由が解らないという風に、ボトルからグラスに流し入れ、グラスの底に当たって跳ね返って来たワインを、窄めたナマコのような唇で待ち構えている。
卑しい奴だ。陸上競技選手の豚も日陰を歩きながら、いつの間にか、どこからか、ワインを持ち出して給水している。疲労している感じは変わらないが、全力疾走をしていた先程の豚とは別人である。汗にまみれているもののこちらと目を合わさずにいる様子には、隠し持つ余力が伺える。限界値には達していない。
豚は、とうとう歩くことすらやめて、レーンの内側、競技場お中央にある芝に、倒れるように移動し、そのまま横になってしまった。でっぷりとした腹が激しく上下している。遂にバトンを渡したくないという気持を完全に吐露してしまっている。いずれはそこに向かうが、向かわざるをえないが、その義務が己の意にそぐわないものであることは如実である。
現実の豚は酔いが回り始めたからか、空腹が満たされたからか、あるいはそのどちらもが原因となって寝息を立て始めている。無防備な寝姿や、丸々とした顔が赤子のように見えることが、余計に憎たらしさを際立たせている。
高田悟志は仕えるものとしての表情を解いた。そこには無機物を見るような相手への無関心さが表れていた。彼はポケット内の肉片を摘まみ上げ、一歩一歩主人に近付いた。高田悟志の体で、シャンデリアの光が遮られ、縁を要らぬ装飾で輝かせた巨大な椅子の上で眠る主人は、見下ろす従者の影に椅子と共に覆われた。
「そこを退け。」
高田悟志は、主人にそう言い放った。心の底から沸き上がった言葉は、理性的な脳を折り返すことなく、直接口から放たれた。
最早これ以上待っていたくはなかった。このような日々が続いてゆくくらいなら、破壊してでも、この部屋から出てゆきたかった。
豚が、吃驚している。芝の上で悠々と過ごしていた時に起こらないと思っていた爆発が起こったのである。安泰を留めていた日常が崩壊してゆくのを、小さい目を最大限にしながら豚は感じている。「ざまあ見ろ」と続けて高田悟志は言った。そして次から次へと、自分だけで留めていた言葉を吐き出しながら、本来し得ない行動を行った。
待っていることしか出来なかったバトンを、自ら奪い取りにゆく。初めからこうすれば良かったのだ。レーンを越え、芝を踏み始める。爽やかな夏の風が入道雲から吹いて来て汗を飛ばす。豚は、抜けた腰を引きずりながら、今までで最も酷い形相で逃げようとしている。しかし長年の不摂生のせいで重くなった体では叶わない願いであるため、悠然と追い着くことができる。蜃気楼かと思われた目的地点は、シミにまみれた贅肉の塊として確実に眼前に存在している。
高田悟志は、主人の首元に手を伸ばした瞬間、自らの行いに気付いて我に返った。主人は豪勢な椅子の上で、相変わらず赤子の様に安らかに眠っている。自分がバトンを奪い取ろうとする行為が妄想世界の出来事であったことに気付き、高田悟志は安心した。喉の奥には、「そこを退け」という言葉の振動は確かに残っていたが、その発声が未遂に終わったことに、胸を撫で下ろさないではいられなかった。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
宿主の下腹部を裂きながら、不思議田なん太郎は再び表に出て来た。重なった意識のピントは再び二重になり、そして個体数は元の二つに戻った。不思議田ナゼなん太郎と高田悟志の二つの視野には、どちらにも椅子に座る老獪の姿があるが、従者には主人の後ろに下品な内装が見えているのに対し、異世界から来た者には、「現実」の窓が見えている。四角に切り取られた、表面を脂汗で白く濁らせている暗闇の下の縁に老獪の首がかかっており、首から下の脱力した胴体と四肢を、「現実」の外にある暗闇が頭を持ち、引っ張り上げているように見える。
不意に「現実」が揺れた。その衝撃で過去の遺物の錆びた骨が開き、中の科学的な色をした汚水が辺りに飛び散った。思わず仰け反った、憎き置き土産の被害者に、迷惑そうに非難の目を向ける人々に対し、被害者は苦々しい顔をしながら遺物の処理に当たった。
機械音を背後に、不思議田ナゼなん太郎は「現実」の内側に次の寄生先を探す。強烈な傷を負い、人体の内部の影から、膨らみながら細くなりながらねじれながら流れ落ちる大量の血液によって、白い肌に青みと汗を帯び始めた高田悟志を先頭に人間たちがこちらを向いている。広がりながら伸びる行列は延々と続いている。距離のせいであろうか、遠くの人間たちは高田悟志と同じかそれ以上に青白く、また無個性に連なっている。これから先に予感されるいくつもの寄生作業に、不思議田ナゼなん太郎は短い溜息を鼻から漏らしたが、その吐息が「現実」内の空気をより重くすることはなかった。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
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