第2話
須藤恵美は、「現実」内の人間たちの例に漏れることなく、現状に苦痛を感じていた。「なんでかなあ。なんでこんなんなんだろう」という疑問を、日々のゆとりのない生活の僅かな合間ごとに挟んでいた。絶えることのない苦痛によっていくら浮かべても飽きることのないその疑問は、いつも解決されることなく次の業務に押し潰され、声になることもなかった。
鼓膜や目玉が朽ちて空洞になったのだろうか、頭蓋骨の中にあるはずの脳味噌の質量が感じられず、貝の中に暗い風が吹きすさんでいるかのようだ。パソコンの画面は、薄いカーテンを掛けられたかのように白んでいる。キーボードを打つ音は体から随分遠くのところで鳴っており、両手は主人の意思とは関係なく勝手にキーボードの上で踊っている。思考が停止している証拠だ。このままでは絶対にミスが発生するだろうからと、須藤恵美は首を振って意識のぼやけを取っ払おうとしたが、依然として業務は意識の遠くで進行し続けている。両瞼を、剥くように開いても、また拳を尖らせこめかみに痛みを与え、そのまま圧力をかけて充血させても結果は同じだった。辛いガムを一つ、唇のとても細い無数の縦皺に沿うように巻き込ませながら口に入れる。凶暴そうなブルドックのイラストが描かれたパッケージが折れ曲がり、平面さが露呈してしまっている。ギザギザの口からの吹き出しに書かれた「GREAT!!」という稲妻のような文字も空虚に見える。一カ所を見ていると、そこに意識が頭ごと吸い込まれ、次いで体が横になってしまうので、反射的に遠くへラメが施された包装を弾き飛ばす。パソコンに向き直る。一拍の休憩を挟んでも指の隙間から見える画面には、相変わらず白い御簾が下りている。血管が浮き出るほどきつく瞼を閉じ、口内のガムにギザギザの咀嚼で八つ当たりする際の音が、秒針の音をかき消してくれる。しかし「現実」の動く際のものと同じこのリズムは、咀嚼と重なり、同じ間隔で点を打ち続けるので、秒針の音は隠せても着実に進行している三時間分のカウントダウンの存在を露わしている。瞼の裏の暗闇に置かれた二の腕に、夜の冷たい風が当たる。窓も、そしてカーテンも閉め忘れていたとその時になって気付いたが、冷気を遮るための時間さえも迫り来る刻限に押し潰されようとしている。
目を開けた瞬間、そうしまいと思っていたのにも関わらず時計を見てしまった。漏れ出た彼女の溜息が、「現実」の空気を一層重くする。
須藤恵美の居る場所についてさらに具体化させると、彼女の体は現在午前三時にあり、帰宅した午前一時と出勤する予定の午前六時の間に位置されていた。そして彼女はその残り数時間を用いた不眠での、残業と認められない残業の真っただ中に居るのであった。ガタンゴトンという「現実」の機械音。秒針と分針と時針に挟まれた胃が汗を出しながら絞め上がる。内蔵に食い込む無機質な時計は、容赦なく彼女を追い込んでゆく。業務を再開した須藤恵美は、自分を時計と、そして「現実」と同じような機械にしようとしている。なぜならそれが「なんでこんな目に」という悲観を和らげる唯一の方法であり、諦めて切り替えて仕事に励むことこそが締め切りに間に合わせるための残された最後の手段であると感じられるからである。しかし理屈ではなく、感覚的に編み出され実行される意識改革は、彼女を完全に機械化させることはない。それは須藤恵美を追い詰める時計の針の切っ先の反対側、彼女を追い詰める槍の取手を持つ者の顔が浮かび上がって来るからである。機械の一部になる前に、人間の存在を見てしまうのである。だから彼女は、彼女を含めた人間たちの束の中で、自分に圧し掛かる何人かの相手を時折睨む。いびきをかきながら涎を垂らしている畑山、斎藤、小林が、時計の針を杖にして、その切っ先にいる彼女に圧し掛かっている。皆一様に目を虚空に漂わせ、重心を体から失わせている。
そのような上司や後輩たち姿が目に浮かぶ時点で、須藤恵美は彼らの怠惰を確信していた。上の機嫌をその御立派な嗅覚で推理する上司や先輩から任される、作業中に要望が二転三転した揚げ句、任されたという事実ごとなくなる業務は、同僚や後輩には「自分でやった方が早い」と彼女に判断されるため須藤恵美に集積する。仕事場での仕事は均されることなく、責任感の強い彼女に皺寄せし、特に彼女の眉間に克明に刻まれる。幾重にも重なった気持ち良さそうないびきが彼女の機械化を妨げている。
取り入れるべき情報を吸収しようとせず、勝手な妄想で腹を膨らませて要らぬ業務ばかり次から次へとデスクの上に排泄してゆくあいつらの席に将来、仮にもし自分が座らず、あの耳に口を付け、直接頭の中にきっとよく響くことであろう暴言を叫んでやりたいあの呆れるほどの阿保共が座っているとしたら。いやありえない。そんなこと絶対にありえない。もしそうなったらその時は、許してはならない。が、今はそれどころではない。
咀嚼音が、大胆な大きさになると共に、乱調になり、さらにその合間に声にならない苛立ちの鋭い吐息が挟み込まれ、そして咀嚼音と混ざり、須藤恵美の発する誰にも届かないストレスの吐き出しは、彼女を機械化からさらに遠ざけてゆく。そしてそれと同時に、怒りを吐き捨てるように頭を掻き毟った、貝殻に金平糖をつけたような華やかなネイルが彩っている指を内に秘めるように周りには毛髪が巻き付いている。
染めた若干茶色の毛が巻き付いた指は、それでも一瞬も止まることなくまたキーボートを打ち、マウスを操作する。
「ストレスのせいでしょう。良く寝て、余り頭皮に触れないように心掛けて下さい。」
思い出すまいとするが、そう興味なさそうに言った分厚い眼鏡の中年医者
の顔が浮び、彼女に圧し掛かる者たちの一員に数えられる。
雑念をかき消そうという思惑もあって行った咆哮は、怒りを身近な人間から、さらに遠くの会社全体にまで及ばせ、関係ない者も巻き込みながら、怒りをさらに増大させた。しかしやがて飽きと疲労によって須藤恵美は叫ぶのをやめた。部屋には自分一人。秒針は簡素な部屋で変わりなく鳴っている。
茶色い髪を虚ろに指から解く。乾いた目に、「現実」の外の暗闇から吹きすさむ心停止した風が当たる。須藤恵美の目の中には最早彼女自身もいない。そこには業務があるだけである。窓の向こうには何もない。ただ暗い夜があるだけである。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
人の行く道は
今や土の奥深く
遥か昔の地層に埋もれ
天に近付きし人類の
姿は今や
先人の薄い影
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
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