現代人に関する一省察と、ドッカーン!!
きりん後
第1話
ガタンゴトンと鳴りながら、「現実」は走っている。
「現実」内の熱気によって曇っている窓の表面には、脂汗の粒がじっとりと浮かんでいる。窓の向こうでは、ぼんやりと濡れた光の線が一定の長さを保ちつつ、またそれぞれの間に一定の間隔を開けながら、端から表れては端に消えて行く。そのリズムは「現実」の放つガタンゴトンという機械音と同じである。
「現実」の内側から見た際、それ以外に、「現実」の外に関して分かることは何一つない。窓の向こうは光の線を除いた全てが闇に沈んでいる。思索しようと思っても、そのきっかけが一つも見当たらないため、理解の術は全くなく、闇は闇のまま、明らかになることはない。
「現実」の内側には人間たちがいる。彼らのそれぞれの心臓はほとんど等しく、「現実」と同じリズムで動いている。「現実」が走行する際の、機械音と光の線の律動は、「現実」内にいる人間たちの脈動の波と重なり合うようなリズムの波線を描いているが、重なり合うことはあっても、二本が混じり合うことは決してない。心音がやって来る死の足音の役を演じ、命のカウントダウンとして現在の生を濃厚にする役割を果たすのに対し、「現実」が走行する際のリズムが「現実」の中で生活している人間たちの心を停滞させるという点で二本は対極的である。少し視点を上下にずらせば、二本の大きな開きがあることが分かる。「現実」の発するリズムはその中の人間たちに生を誤認させようとさえ思われるほど鼓動と酷似しているが、光の線と機械音は、その一つ一つが積み重なることなく別々に存在しており、未来に向かって一メートル、さらには一センチメートル、たったの一ミリメートルでさえも距離を延ばすことなく、停滞している。二本の波線には差異はある。しかし視点をさらに上下に大きくにずらし、二本を俯瞰してみると、脈動の波が若干「現実」のリズムに寄りつつあることが分かる。そして「現実」の中の人間たちの心音は、その停滞しているリズムに同調するように、ただその場で音を発し続けるだけである。生は失われつつある。
高調して赤く汗ばんだ頬と頬が擦り合っている。二人の目はその接触面に向かって寄っており、また肌色は裂け、その赤色の中に歯が並んでいる。くっついている二人の顔は余りにも近いので、一人の人間の顔のように見えるものの、接触面を境に口も目も不自然にずれ、奇妙な顔になっている。そのような一人のような二者、あるいは三者四者、さらにそれ以上の人間たちの関係性は「現実」内のありとあらゆる場所で見られる。人間たちは密集しているのである。数が多いわけではない。溢れる程「現実」に沢山居るわけではない。しかし、互いを強く圧迫し合っている。
窮屈さは人口の増加によるものではなく、狭まった四方の壁によるものである。いかに「現実」が狭小な場所かということを、「現実」内の光景は物語っている。
肌と肌が触れている面に溜まっていく汗は、人間たちが離れようと身を捩るために摩擦熱によって益々暑さを増してゆく。接触部分には、体毛やホクロや傷跡等による痒みをもたらすような微妙な凹凸の感触が、常にその存在を人間たちに知らしめている。一体化し切れない肉体たちの、閉じようという必死な努力の甲斐なく、隙間の面に悠然と不快感は居座っている。そこに加わる他者の皮膚から分泌される体液の、特有の暑苦しさと臭いに、人間たちは躊躇なく眉間に皺を寄せながら歯を剥き出している。それが密着している相手へのあからさまな忌避の気持ちの表れであることを分かっていながらも、当人はそれを止めることはない。また嫌がられている相手も気にすることなく、自分からも敵意を表している。どちらもはっきりと互いに聞こえるように舌打ちを鳴らしながら、その原因となる密着を行い続け、そして不快な物質を体から分泌させている。「現実」内にいる人間たちは被害者と加害者の両方を常に演じながら、同居人である互いを煙たがっている。
「煙たがっている」といっても発火するわけではない。熱気と溜息が混じっている空気は、そのような爽やかな情熱的な暑さを有していない。空気は全体的に湿っていて、変化なくずっと現状が続いていくような、「現実」の動きと同じような停滞的な雰囲気を有している。また人間たちから発生されるその空気が、鼓動と「現実」のリズムを近付けている要因のようにも思われる。というのも、人間たちが生み出したその空気は吸い込んだ人間たち自身の脳の底に沈殿し、頭を重くし、そのせいで疲弊し切った体が少しでも楽になる様にと、足の踏み場や姿勢を工夫しながら、住人たちが「現実」の中で暮らしている様子が、実に停滞的であるからである。
不思議なことに、「現実」内の空気は一種の快楽をもたらしている。互いの肉の布団で包まれているので、「現実」は温室、炬燵、サウナに例えられそうである。止まない発汗が空気中に散布し続けているこの空間は、だるさと同時に、眠気による快楽を「現実」内の人間たちにもたらしている。惰性の底にゆっくりと心中してゆく喜びが人間たちを四六時中襲っている。
幾人かが密着してできている一つの顔は、常に揺蕩いながら表情を変えている。笑っているようにも泣いているようにも、いかようにも解釈が効きそうな複雑性がそこにはある。しかしそれらは流動的な表情であるものの多様性はない。
そのような「現実」内に無数に存在する中の、とある人間の束の一片に、化粧気のない血色の悪い顔をした人間が今にも倒れそうな様子でいる。汗で重くなりそのまま落下しそうに垂れながら額に張り付いている髪は、ゴムのような不格好な風合いになっているが、幸か不幸かその女性には自らの姿が見えていない。
「現実」の中にある彼女の体の位置を具体的にいうと、勤め先のビル街から数駅離れたアパートの一室、彼女の自宅の、折り畳み式の低いテーブルの前にある。
・・・ガタンゴトンガタンゴトン・・・
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