第1話−4




 線路の下に敷かれた丸石は、避難者の歩みを鈍足なものにした。建設開始から年数が浅い都市のコンクリート、アスファルトは滑らかに整備され、足下を汚す泥などは、工事現場を別にすれば眼にすることもない。




 そうした現代人が足場の悪い砂利道を避難するのだ、足取りに重りを課しているようなものである。




 避難する際、ファン・ロッペンが自然と会話の中心となり、ホームに避難した20名近い老若男女、国籍、肌の色、顔立ちの違う人々を避難へと誘導した。




 十人十色とは人間を的確に形容しているもので、避難を主張する人々は素直に長身の男が促す通り、スマートフォンを取り出して、ライトを確認するものもいれば、トンネルの先の闇を、ホーム端から覗き、唇を青ざめる者もいた。




 ホームで避難の際、もめたのはホームで救助を待つことを選択した人々との対立である。




 状況が分からないのに無闇に動くことはリスクが大きい、と訴える人々はファンを見上げ、首を横に振った。




「隕石が街に落ちたんです。救助はいつになるかわかりせんから、ここは生き延びる努力をすべきです」


 メシアの言葉に避難を支持する人々は賛同した。




 しかし、ここまで説明しても自らの意思を曲げない者はいるもので、最終的にはホームに残ることを選択した。




 そうした数名の人間たちを残し、後味の悪い脱出を彼らは試みているのである。




 メシア・クライストはホームに残った人間たいが妙に気になっていた。中には脚の悪い老人の、老衰した姿も見られ、彼の気持ちを後ろに引き戻そうとしていた。




 けれども彼には守る者がいる。右手に握ったその震える小さい手を、離すことも、この場からマリア・プリースを置いて離れることもできはしない。




 だから自分に言い聞かせていた。守るべきものは、彼女であって、見知らぬ他人ではない、と。




 何度かメシアは後ろを振り返った。やはり心中の濁りを清水にすることなど彼にできはしない。




「急げ、メシア。もうすぐのはずだ」




 ファンの声が聞こえ、前方へ視線を羅針盤のように戻した時、友が当てるスマホのライトで眼が焼かれ、一瞬目の前が真っ白の闇と化した。




 瞼を上げた時、メシアは自分の眼前で繰り広げられる光景に、唖然とするしかなかった。




 荘厳と厳粛の支配下にあるその場所をメシアは経験した覚えはない。が、一目でそこの場所が意味する状況を察知した。




「静粛に。被告人、なにか言い残すことはあるかね」




 高い位置から裁判長が正面の被告人を睨み付けるように、地を這う声色で語りかけている。




 裁判所の法廷。




 メシアは迫力のある顔の丸い裁判長の視線の先に、弁護士と共の立つ少女に視線を吸われた。




 髪の長い少女は白人である。国籍は彼の眼からは容易にするすべは皆無だ。




「裁判長、少し結論が性急過ぎるのでは。陪審員の皆さんも冷静に判断していただきたい」




 少女の横には、顔が小さく、手足の長い弁護士が、部屋の壁を埋め尽くす陪審員たいへ、身振り手振りで訴えていた。依頼人を保守するための戦いは彼を雄弁にしているのだ。




「現実を見てください。この事件はアンネリーゼ・ミシェル事件とは違うのです。悪魔つきも悪魔払いも


現実を逸脱しています。わたしの依頼人は正当防衛で殺人を犯した事実は認めているのですから、酌量の余地はあるはずです。彼女は自らの生存本能に従った。そうでなければ、皆さんの前にこうして今も居られるはずがないのです、あのままでは被害者に殺害されていたのですから」




 対立する検察側は弁護士が言い終わるか終わらないかの瀬戸際に凜然と立つなり、木製テーブルの前に進み出ると、陪審員にアピールする腕を、嫌味なほどに広げ、この裁判の異常性を訴えかけた。




「被告人は自ら悪魔が憑依したと訴え、心神喪失による情状酌量を訴えているのです。恋人を殺害した凶悪犯が、精神の異常だと判明した途端に、無罪となる。それが果たして正義だと言えるでしょうか。




 殺人犯が自らの精神状態を偽り、現実社会へ復帰しようとしているのです。想像してみてください。貴方の隣人がもし、彼女のような殺人犯であったとしたら」




 即座に弁護しはテーブルを平手で1つ叩き、跳ね上がるように立った。




「異議あり!




 依頼人を殺人者と断定し、陪審員を誘導しています」




「意義を認めます。弁護人は誘導するような言動を慎んでください」




 裁判長は凜然と弁護士をたしなめた。




 明白な苦渋の色が弁護士の顔色を泥のような色に染めた。事実、見た目からもこの弁護士はプライドが天井を知らず、以前の裁判に敗訴した時などは、知人たちが連絡がとれないほどの落ち込みをみせ、数日間、行方をくらましたほどである。




 そうした弁護士だからこそ、この敗色濃厚な法廷を認めるわけにはいかなかった。




 饒舌な唇はしかし、敗訴を許すまじと走る。




「見てください。このように身体が小さく痩せた依頼人が、大男である彼を果たして殺害できるでしょうか? できたとしてもそれは錯乱状態からなる驚くべき行動であり、彼女は精神の病気なのです。陪審員の皆様、これだけはご理解いただきたい」




 弁護人が舞台俳優のように熱弁するのを、呆然ただ見つめる彼。と、そこでようやく自らが身を置いているのが傍聴席だと気づいた。木製の固定された傍聴席には、多くの傍聴人がいる。その半分が興味本位の野次馬、もう半分がメディアの取材だ。




 メシアの眼にも、殺害されたという男性の家族らしき人たちが検察が並ぶ席の後ろ、木製柵のすぐ手前に座っているのが分かった。




 事態の把握が難解なメシアは、眉間の皺が深々と切り込みのように刻まれた。




 と、メシアの眼前で弁護人の雄弁を遮るように、鏡を釘で引っ掻くような悲鳴が法廷のみならず、裁判所全体を貫いた。




 傍聴席では耳をふさぐ者、あまりの騒音に廊下へ逃げ出る者、悲鳴の元凶を凝視して堪えることができず、無意識への境目を越えて気絶するものなど、法廷は混乱の極みに陥った。




 逃げる人々に押し倒されるように、大理石風の石床に手をついたメシア・クライストは、地面の白と灰色のコントラストを目の当たりにしつつ、自らの矢の視線で射る感覚で、背筋に凍りが通った。




 顔をあげ、身体を反らせるように飛び上がると、殺人事件の被告人たる少女が、茫乎とメシアの方を向いていた。が、その不自然さに誰もが眼を剥き、戦慄で顔は引きつった。




 少女の首は180度ねじれ、後頭部が本来はある部分に鼻がきていた。そればかりか、腕、脚もねじれてまるで雑巾のようになり、この世の光景、人間の姿とは思えない、異常さがそこにはあった。




 ねじれた顔のその表情はまた、地獄から這い上がった死者の如き青白さと、顎が外れ、口が常人には考えられないほど広がり、そこから悲鳴が反響していた。




 しかしメシアが少女の顔でもっとも視線を奪われたのは、眼である。彼女の眼は人間ではなくなっていた。強いて形容するならば、黒いドロドロとした液体が流れ出るような、黒く淀んだもので覆われ、穴のようになっている。




 依頼人の現状にいち早く逃げる弁護士と、テーブルの下に避難する検察陣。裁判官、陪審員も警備員に誘導されて避難する。




 その警備員たちは拳銃をホルスターから抜いて両手で構えてはいるが、あまりの現実にそこから行動へは移せない。




 少女はメシアを見つめ、そしてねじれて人間の腕とは思えない形状となったそれを持ち上げるなり、彼を指さした。




「・・・・・・待って・・・・・・ま、待って、い、い、いる・・・・・・」




 悲鳴の中から辛うじてメシアの耳が拾い上げたその言葉は、どういう意味合いを所持するかも皆無のメ


シアは、ただおののきに脂汗を額に浮かべるばかりだった。




「メシア、メシア。どうしたの?」




 マリアの心地よい声色が現実に彼を引き戻した。




「少しぼーっとしてたけど、どうかしたの」




 下から見上げる潤った視線がスマホのライトに濡れ光る。




 頬を濡れた目線で撫でられたメシアは、自分が白昼夢を見ていた事実を悟った。




「僕は・・・・・・、ここに本当にいるのか・・・・・・」




 握ったマリア・プリースの小さく細い手に力が入った。




 彼氏のその異変に敏感に反応したマリアもまた、メシア・クライストの手を握り返した。




「少し休まない」




 先を急ぐ避難者たちの袖口をマリアの小さめの声がしかし、トンネルに反響して引っ張った。




「駅はすぐよ、急がないと」




 多少強く、棘のある口ぶりでエリザベス・ガハノフが振り向き、マリアの小さい顔へスマホのライトを当てた。が、その丸い、濡れた眼が不安の霞で歪んでいるのを見て取るなり、横のメシアへライトを向けた。




 再び白いライトに視野を奪われたメシアは、瞼を閉じた。




 メシア・クライストの瞼が次ぎに開いた時、そこに広がるのは廃墟と荒廃に満ちた、見慣れた都市の腐敗した姿であった。




 彼が立っていたのは街の中心部、オフィス街にその巨体を直立させたオフィスビルの屋上である。ヘリポートとなっているそこもしかし、雑草がポートを形成する鉄板の隙間から頭を出し、うっそうと草原を構築しようとしている様子である。




 冗談じゃない、と錆びた鉄板を鳴らしてビルのフェンスへ近づき、見慣れた生まれ故郷を眼下に望んだ。が、そこが本当に自分の住処、居住していた街なのかすらうたがいたくなる姿しか彼の前には表さない。




 通りにはコンクリートと鉄柱の瓦礫が散乱し、アスファルトには穴が空き、道路の役目を果たしていない。建物の窓ガラスは砕け、砂埃が風に運ばれ椅子やテーブルに蓄積している。




 瓦解したビルの隙間から望む河の色は泥水の黄ばみを帯び、掛けられた吊り橋構造の橋は途中から崩れてなくなり、ワイヤーだけが宙ぶらりんと風にあおられている。




 そうした崩壊した街を包み込むように、苔、つた、雑草、木々類が人間の文明などなかったかのように、なにもそこには存在していなかったかのように、自然が何もかもを呑み込んでいくが如く、都市に根を下ろしていた。




 とにかく入り口を探そう。ここにいても意味が分からない。まるでこの世界の出口を探すように、メシアはフェンスから離れ、入り口を探す。




 ペリポートの端に階段を見つけ、急ぎ足で駆け下りた。さび付いて、ネジが外れているのが見えてもかまわず、危険におののく心などは微塵もなく、白昼夢から逃げたい。ただその一心で脚を前へ押し出していた。




 階段を降りた先にはエレベーターのドアが見えた。これでなんとか、とエレベーターへ近づく間に、自分が屋上に閉じ込められたことを悟った。見るからに銀色のエレベータードアは錆び、開閉した形跡がなかった。案の定、エレベーターへぶつかる勢いで駆け寄った時、エレベータースイッチは破損すて押すことすら困難になっており、何とか指で押し込んではみたが、電気の鼓動は感じられない。




 ドアを拳で叩き、苦いものを奥歯で噛んだ顔をするメシア。と、足下に風で運ばれてきた影を認識して、視線を落とした。新聞である。街で一番大きな新聞社が毎日発行している。その歴史は街と一緒に始まったと学生時代に授業で耳にした覚えメシアにはある。




 茶色く変色し、砂が皺に入っているそれを手に取った。




 が、1面のトップ記事を眼にした瞬間、彼の心臓は一瞬停止した。




『世界規模のパンデミック』




 物騒なタイトルにつられ、記事を読み進めると、この世界の現状が見えてきた。




『中東でウィルス感染拡大』


『死者数が5000を突破』


『WHOが対策を急ぐ』


『ウィルスが全大陸で感染確認』


『死者が蘇る』


『噛まれたら感染』


『国連が全世界へ非常事態宣言』


『常任理事国、戦術核兵器の使用を容認』


『感染者との戦争か?』


『核戦争の時代到来』




 新聞を握りしめたメシアの顔は土色に変色していた。降りたばかりの階段を駆け足で上り、再びヘリポートの中心にたった。壊れた世界をもう一度、肉眼で再認識したかったのだ。




 と、そこであることに彼は気づいた。植物が生した瓦礫の街。そこにあるものが一切ない。生命体の姿が皆無なのである。人間の姿はもちろんのこと、鳥が羽ばたくことも、犬や猫、ネズミが掛けることもない。虫の姿すらも見られず、まるで生命が絶滅してしまったかのような、静寂の世界なのだ。




 世界になにが起こった。胸の奥が鳥肌たつのを、平静で蓋をしようと、肩で息をして、胸の鼓動を平常にしようとした。




 が、白紙を破るように静寂は、1つの反響音で失われた。




 フェンスへ駆けていき、外界を覗いた。するとオフィス街の、日常はスーツ姿の人間たちが行き交う、今はしだ植物が配線のように這う通り。そこを黒い影が走っていた。




 高層ビルの屋上からだと、粒のようにしか見えないが、茶色い布で体を覆っているようにメシアには見えた。




 現に地上を死に物狂いで走る人物は、洗い布で身体を覆い、その手にはH&K HK21が装備されていた。身体が小柄だがその機関銃をしっかりと構えて走っている。




 男は立ち止まると腰を落とし、背後から迫る者へ銃口を向け、火花の花を咲かせ、そしてまた走り出す。




 上から見下ろすメシアは次ぎの刹那、男が何に向けて、何を思い、どんな状況下で機関銃を乱射するのかを咀嚼した。豆粒のような男が逃げる背後から一粒の影がメシアには迫って見えていた。が、その速度がおそろしく俊敏であり、形は人のはずなのに、獣の如き動きで逃げる者を追跡していた。しかしメシアはその動きに眼を剥くよりも、後から現出した者たちへ驚愕した。まるで蟻が角砂糖に群がるように、蟻塚を破壊したかの如く、瓦解したビルから、崩れた道路の下から、窓ガラスが砕けた建物の上から、それらはマグマが溢れるように噴き出すと、瞬く間に通りを埋め尽くし、濁流と化して逃亡者を襲撃したのだ。




 駄目だ、喰われる。と、口の中で呟いた時、逃げる人影は溢れ出た人影の濁流に呑まれた。




 何なんだ、何が起こってる。僕は何処に来てしまったんだ。混乱の極みに達したメシアが頭を両手で抱え込む。視覚、聴覚を遮断することで、冷静を蘇らせようとした。




 自らの鼓動が鼓膜を振るわせる。と、その時、メシアは腕を捕まれる感覚に襲われ、思わずその腕をふりほどいた。




「大丈夫なの? 気分でも悪いの」




 蒼白に塗られたメシアの顔をのぞきこむエリザベス・ガハノフは驚いた表情で眼を見開いていた。




「もうすぐだ、次ぎのホームに到着すれば、休める。電気は来てるみたいだから」




 ファン・ロッペンが弓矢のように柔らかく長い腕を上げ、指し示した先には地下鉄ホームの明かりが、安心感を避難者全員へ提供していた。




「出口だぁ」誰からともなく喜びの声が渦巻き、砂利と砂埃の中を皆が走り出す。救われた、誰もがそう信じた瞬間だ。




「メシア、行きましょう」




 手を引いてマリアが促す。




 今、自分に何が起こり、何を見ているのか。そもそも本当に自分はこの現実に存在しているのか。もしかするとこれは現実でなく、夢なのではないか。夢の中を永遠にさまよっているだけなのではないだろうか。そんな不安感を抱え、マリアに腕を引かれてホームへの階段を一段上がった。




 金属音が反響して、メシアの耳を抜けた。




 また彼は違う場所に立っていた。




 そこは立方体の、味気のない白で色が統一された、鼻に絡み付く独特の臭気が漂う場所である。病室だ。メシアは直感的に感じた。消毒液の独特の匂い。彼はそれを苦手としていた。




 正方形の室内にはベッドが複数並び、カーテンで仕切られていた。角の取れた窓らしき


口がぽっかりと空いているが、そこにはめ込まれた分厚い辞書ほどもあるガラスの向こう側は、漆黒で視界が効かった。




 今度は蛇が出るか魔が出るかなどと、メシアは身体の筋肉に力が入り、身体が固くなっていた。




「新米か、あんた」




 ベッドを囲んだビニールカーテンの向こうから、しゃがれた声が耳を掴んだ。




 全身を泡立たせ、メシアはカーテンの方を振り向く。




 と、それまでベッドを囲んでいたカーテンが手品のように消失したかと思うと、ベッドに横たわって葉巻をふかす、大柄の、筋肉が鎧のごとき無精髭の男が、ぶぜんとした顔でメシアを見ていた。




「ずいぶんとラフな格好だな。そんなんじゃ、上官にガミガミ言われちまうぜ。早くきがえな」




 着替えろと言われても、服などをもってはいないし、状況が喉を通っていかない。




 その時だ、真四角の病室が上下左右に、まるで湖面に浮かんだ灯籠のように不安定に揺れ、分厚い窓の外からサーチライトの如き、険しい表情が顔にへばりつく明かりが入射した。




 思わず眼を背けようとしたメシアだったが、窓が瞬間的に黒く濁った。光を遮断するシステムが自動で入射を調節した。それでメシアはそいつを肉眼で把握することができた。マンタのようでもありクラゲのような形でもある、半透明の物体が暗闇を、海中のように進んでは、浮力で揺らめき、また先に進むを繰り返した。




「すげぇよな。あれで生命体だっていうんだからな」




 無精髭から流れるしゃがれ声を上の空で聞くメシアの前をさらに、複数の同種族が抜けていく。縦横1メートルたらずの窓だから小さく見えたが、彼自身、実物の大きさを把握できないほどに、漆黒に七色の光を放つそれらの生命体は、巨大なのだ。まるで山が動いているようなのだ。




「まだまだくるぜ」




と、男の声が合図にしたように、漆黒に無数の光の粒が一気に沸騰するように沸きだした。そこは瞬間的に星空とかしたのである。




「小物連中が集まってきたみてぇだな。だったらそろそろデカイのが登場ってわけだな」




 予言する男の木枯らしにまる枯れ葉の如き声色が音をすぼめると同時に、また室内が湖面の波に揺らされた。




 そしてこれまでになく大きな光が外界から窓へ光を入射される。窓の遮蔽装置もこれほどの光源を遮断するのは、流石に無理であった。




 顔を思わず背けたメシア。




 そこへ「俺も騙されたくちよぉ。恒星系の辺境で起こったクーデターの鎮圧だっていうから志願してみれば、この有様だ。新米、よく見とけ。あれが異次元からきた敵だ。といってもこの規模だと分隊クラスでもねぇがな」




 男の声だけが七色に光る世界での道しるべだった。分隊クラスと男はいうが、メシアには無限に広がる星々にしか見えない。あれでも小さい規模だというのだろうか?




 この時、光に遮られメシアは状況把握を困難としていたが、実際は彼の想像を絶する光景が窓の外には壮絶に繰り広げられていた。




 葉巻をふかす男の言葉端にあった通り、ここは宇宙である。兵士は恒星系の辺境惑星で発生したクーデターの鎮圧、と聞かされる。これは後に判明した事実だが志願兵を募る際、軍は兵士に偽りをのべ、現に戦後処理でこうした行為が犯罪として法廷で裁かれている。




 現時点でメシアが次元を越えて現出した病室が設置された宇宙軍艦は、人類が未だ知識の本に記載していない銀河の中心部、巨大ブラックホールがジェットを噴射する光景が彼方に望める場所に停泊していた。戦場での被弾状況を確認し、被害を把握と負傷者処置、破損箇所修理に時間を費やす停泊だった。




 が、そこに敵の小規模隊が攻め込んできた。超空間を数秒で越え、数億、数百億光年離れた宙域から、まるで隣人のお宅へ訪問するように。




 メシアが目撃した事実は正確なものであって、分隊構成にも到らないと言いながらも、その数量は人間の数字概念を壊滅させる、銀河の恒星を中心とする星間物質の数をも小さくしてしまう、銀河の上に巨大な銀河が重なったような風景を宇宙空間に描いたのだ。




 事態が把握できないまま、腕で視線をふさぐ。




 身体を揺さぶられて意識を回復したメシアは、ホームのベンチに横にされていた。




 タイル張りの天井から埃が降ってきているのが目覚めたばかりの彼にも理解できた。




「急に倒れるから・・・・・・」




 不安げに丸い眼に涙をためたマリア・プリースが不安げにメシアの上着の裾を握っていた。




「倒れたのか」




 呆然と横になったまま、言葉を落とすメシア。




 起き上がろうとベンチの背もたれへ手を掛けた。




「まだ起きちゃ――」




 彼の肩に細く小さい手を置き、マリアはメシアへ心配の声を掛ける。




 けれども、事態は横になることすら許さなかった。ベンチの後ろ、階段とエスカレーターの先で女性の悲鳴が複数、駆け下りてきたのだ。




 メシアは首から後頭部に掛けての気分の悪さをも捨て、彼は身体を起こすと、ファン・ロッペンとエリザベス・ガハノフと階段を駆け抜けていった。




 その背中を眺め、マリアは自らの肩を力強く抱いた。自らの無力、最愛の人間を食い止める力すらない自分を、ふがいなく、無力が悔しかった。




 階段を抜けた時すでに、異常事態を3人は嗅覚で理解した。焦げた臭いが鼻腔を突いていた。




 階段を蹴って地上へ出た時、そこに居るはずの避難者たち、さっきまでトンネルを進んでいた人々の姿が霞と消えてしまい、ただその場には生臭い臭気が漂っていた。魚、あるいは肉へ包丁を入れた時のような、動物的な独特の臭いがあった。




 が、彼らが臭気に意識を奪われたのは1秒もなく、すぐさま意識は足下のアスファルトに染みついた赤い液体の水たまりと、そこから伸びていく赤い帯につられて視線を上げた先の凄惨なる光景に意識が吸引された。人間がマネキンのように、あるいはソーセージが引きちぎれたように、人間の四肢が道端に散乱していた。




 これを目撃したエリザベスは口を押さえ顔を現実から背け、弟のイラートは遠慮なくその場で嘔吐をし、ファンは眉間に嫌悪感を浮上させた。




 メシアもこれが現実なのか、もしかすると夢ではないのか、むしろ夢であってほしいと心中で願いながら、瞳が潤んでいた。




 と、そこへマリアが遅れて上がってきたが、メシアがその小さい身体を抱きしめて、




「見るな」




 そう叫んだ。けれども現実の波を止めることは誰にもできない。マリアはメシアの腕の隙間から現実に呑み込まれた。




 その時、血なまぐさい臭気と街から上がる炎で焼けた臭いの間を押しのけ、腹の底に響く唸り声が一行の前に立ちふさがった。そして瓦解したばかりのオフィスビルの裏から、真っ黒い塊が、巨体に相応しくもない俊敏さで血だまりの中に現れた。




 形容しがたい醜い獣だった。肥大した紫がかった肉のヒダが全身に生え、内蔵を裏返したような表皮が黒煙の間から指す陽光に濡れて、腐敗した光を放っていた。肉の塊の中に辛うじて分かる口らしき割れ目が左右に開くと、緑色の粘液が糸を引き、周辺は瞬間的にヘドロ臭で充満した。




全員が顔をそむけ、口臭を嫌がった。




「なにを食ったらそこまで臭くなるんだよ」




イラートは地面に転がっている、ソフトボールほどのアスファルトの塊を拾い上げると、姉が止めなさい、と言うまもなく化け物へ投げつけていた。




弧を描き肥大したヌラヌラの肉のかかたまりに見事命中した。




 化け物は肉ヒダをプルプルと震わせ、立てに裂けた口を左右へ開くと、粘度の高い液体をほとばしらせながら、耳をつんざく低温の雄叫びを上げ、彼らの行動へ憤怒した様相でヌラヌラと迫ってきた。




「あんた、行動の意味をもっと考えなさいよ!」




 姉が弟の頬をひっぱたき、ロープの上を歩くような性格の弟に憤慨した。




「姉弟喧嘩は後回しだ」




 もめる2人を横目に、マリアの手を再び握るメシアは、いち早くその場から、街の中央方面へつながる細い道路へ脚を伸ばしていた。もはや焦げた瓦礫のせいで、何処が道路なのかも分別はつかない。




「俺もメシアに賛成だ」




 言い終わる前にファン・ロッペンは走り出していた。




 イラートもじんじんと痛む頬を抑えていたが、その手を姉の腕へやると、憤慨の納めるところがない姉を引っ張った。




 エリザベス・ガハノフは不安だった。もし自分が居なくなった時、この子供の部分で構築された弟が1人で生き、目の前に立ちはだかる壁を越えてきえるのか、と。




 そんな気分を引きづったまま、彼女を含む一行は、道を閉ざした瓦礫の山に道をふさがれた。這い上がるにも女性を連れては危険すぎるし、メシアが周囲を見回しても、潜り込める入り口はない。さらに背後からはヌラヌラと不気味な獣が這い寄ってくる。




「登るしかねぇだろ」




 と、姉の腕をほどき、瓦礫へ押し上げるイラート・ガハノフが叫んだ。




 同じくメシアもマリアを瓦礫の上へのせ、小さなお尻に手を当てて、必死に上へと押した。




 単身、瓦礫を跳ねるように登り、先の見通しをつけようとするファン・ロッペンだったが、瓦礫の頂上に立ったとき、その口からは沈黙が溢れた。




 自らが先に登り、マリアを上から引き上げようと試みたメシアも、眼前の光景に口をつぐんだ。




 そこにはビル群があるはずだった。オフィスビルが街の開発を担い、物流と金の流れが集約された街の中心部であった。人が溢れ、仕事が溢れていた。そのはずなのに、現実には皆無であった。隕石が落下したまさに中心部のそこには、巨大クレーターが土を巻き、ビル群は跡形もなく埃となり、人の痕跡は、クレーターにゴキブリのように群がる化け物の群れが喰い散らかす、人肉の破片と鮮血の海、鼻を突く異臭だけだ。




 直径3キロ、街の中心部を丁度破壊したクレーターの中にひしめく怪物の数はこの時、20万をこえていた。まさしく雲霞の数である。しかもクレーターの中で平静にしているわけではなく、次々と水がコップからあふれ出すように瓦解した都市へ流入し続けていた。




 後から瓦礫に登ったマリア、エリザベス、イラートたちも、声にならないものを口の中で呑み、現実離れした形容しがたい様子をただ、視線を奪われるがままに呆然とするばかりだった。




 一行は瞬間的にだが、ここに集約された化け物たちが、自分たちの後ろから這い寄る化け物と外見が異なり、1つとして同種が存在しない事実を否応なしに認識させられた。




「なんなんだ、どこから来たんだ・・・・・・」




 メシアが茫乎と落す。




 それをイラートが悪戯っぽくすくい上げた。




「宇宙生物だろ。地球は完全い侵略を受けてるのさ」




 姉がふざけるな、と言いたげに弟の肩を強く叩いた。




だがこの発言を如実に飲み込んだ顔をしたのは、ファンであった。




「あながちいい加減でもないだろう。隕石郡が落下したのを俺は目撃した。そしてこの理解を越えた生物郡。整合性のある説明は、いささか認めるのはしゃくにさわるが、イラートの言い分だ」




その妙に説得力のあるファンの声色は、反論を口にすら出させなかった。




 メシアたちの大学には設立当初、学生たちがくだらないことをテーマに弁論大会を行ったことから、毎年の恒例行事となった弁論大会がある。ファン・ロッペンがそれへ出場した時、メシアはもちろん彼を知っているものは、彼が優勝する確信めいたものを抱いていた。それは彼が生まれついての説得力の持ち主だからである。案の定、弁論大会は《コミックの主人公が現実世界で活躍するための、生活方法》という荒唐無稽な大学生が論ずることではないテーマを選択したにも拘わらず、見事、現実味のある弁論を繰り広げ、優勝した。




 ファン・ロッペン。彼の印象は誰もそろえて、説得力のある人物ということだろう。




 隕石の来襲と宇宙生物の襲撃。




 この時、メシアは反論こそ口に出すことはなかったが、心中の、奥の方でこれは感覚としか言いようのないものが、眼前の血しぶきをすする獣どもがファンの言うような存在ではけしてなく、もっと禍々しいものだと思っていた。




 だからメシアはそれを呑み、気のせいだと自分へ言い聞かせた。




 眼前の肉ヒダの塊のような波に意識を奪われていた一行を、背後からの唸りが四面楚歌なのを呼び起こし、一行をパニック状態にした。




「これじゃあ、喰われるのを待つばかりじゃねぇか。何か打開策はないのかよ」




 騒ぐだけで意見を誰ともなく求めるイラート。




「壁をよじ登るのは?」




 道の左右はコンクリートの壁面である。エリザベスは自らが踏む瓦礫が元あった壁を登ることを提案したが、崖すらも登ったことのない一行が登るには直角過ぎた。




 まさに心身とも四面楚歌であった。




第1話―5へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る