第1話−2




 マリアがこういう時に行くところはいつも決まっている。街の海岸線にある堤防だ。そこが彼女が唯一、人通りがなく人目を避けて泣ける場所だからだ。




 海岸線へ教会からは500メートルもないのだが、そこへ向かう途中、財布の小銭を盛大にアスファルトへまき散らしてしまった老婆に会ってしまい、無視してもよかったのだが、放っておいては後で脳裏のどこかで気にしてしまうたちの若者は、小銭を拾うのを手伝い、老婆に頭を下げられると、ようやく海岸線へ迎えると思った矢先、今度は浮浪者らしき男が朝から酒を飲んで仲間と喧嘩を始めるところへ遭遇してしまった。




 こんなのは放っておくものであるが、やはし性分なのだろう、メシアは浮浪者たちの間に入り、せっかくのレザージャケットを泥で汚してまで、仲裁した。結果的に酒を喰らって口が回らなくなっていた男を仲間たちと一緒になだめて、ようやく海岸線へと向かうことができた。




 開発段階の都市は、鉄筋に覆われている。工事の音があちこちから海へ流れてきていた。




 堤防に腰掛けるマリア・プリースは潮風にたなびく前髪の下で涙を拭いていた。




「泣き虫は相変わらずだな」




 しわくちゃのポケットティッシュが彼女の前に現れた。町中で配られている消費者金融のティッシュだが、だいぶ前のものらしく、このタイミングでこれを渡すメシアの不器用さがおかしくて、涙目に笑みがこぼれた。




 ティッシュを受け取り、鼻に当てすするマリア。




 その横にメシアも腰掛けた。潮風にまだアルコールの匂いが混じっているのを自身でも理解できた。




「珍しいじゃないか、神父と喧嘩するなんて」




「・・・・・・」




 涙を拭う仕草を繰り返す彼女は、口を開こうとしない。




 彼はそれ以上、質問はしなかった。ただ彼女のほしく白い手を握り、静かに白く砕ける波を見下ろした。




 マリア・プリースと神父の関係は親子という形にはなっているものの、実際は親子ではない。彼女は教会の前に捨てられていたのである。神父がその娘を自らの子として育てた。それがマリア。




 そのせいだろうか、彼女は小さい頃からわがままを言わない娘であった。例えほしいものがあったとしても、悩み事にさいなまれたとしても、けして神父に相談をすることも、愚痴をいうことも、ましてや喧嘩などすることもなくこれまで育てられてきた。




「お父さんがね――」




 涙を拭い、マリアが震える声を絞るように出した。




「――教会を出ろっていうの、突然」




 また涙で視界がにじんだ。




「わたしのこと、要らなくなったのかな・・・・・・」




 彼女は来年には大学を卒業する。生物学を専修し成績も悪くなく隣町に設立されたばかりの博物館への就職が無難ではないかと神父と彼女の間ではすでに決定事項としてあった。




 メシアもその話を聞いていた。




「必要とか要らないとかの話じゃないと思うよ。神父はマリアに自立してもらいたいんだろ」




「だったら今まで通りでもいいじゃない! 家から博物館までなんてたいした距離じゃない」




 興奮する彼女の、線の細い肩を抱き寄せた。夏場の日差しは2人の額に汗の粒をすでに作っていたが、気にしなかった。




「マリアも本当は分かってるんだろ? この場所に来たってことは、悩みを海に捨てるってことだ」




 小さい頃から彼女は悩み事があるとここに来ていた。




 その時、隣にはいつも彼が寄り添っていた。悩みも苦しみも彼女の生きてきた道を、彼は常に見ていたのである。




 幼い頃、メシアが家に帰ると、そこにいるはずの両親がいなかった。彼もまた彼女のように捨てられた。しかしメシアは神父のような優しさのある人物とは出会わず、施設で規則正しい生活を行い、施設が定期的に行う教会でのミサに参加した時、初めて2人は神父の娘、施設の少年としてであった。




 この時、メシアはきっと一目ぼれだったのだろう。外出してはマリアに会いに教会へ通い、一緒に時を過ごしてきた。




 一緒に育ち、人を放っておけない優しさに気づけばマリアは惹かれ、メシアはそんなマリアの片親という境遇で差別されてきた人生を見つめ、守りたいと思い、自然とお互いは彼氏彼女の関係へと発展した。




 奨学金で学校を出て建築家の試験を受け、小さいが人に恵まれた建築会社に入社した彼を、彼女は支えた。




 逆にメシアも学校に通う彼女の孤独に寄り添い、彼なりに支えてきた。




 彼女の小さく震える手をメシアは強く握った。




 潮風が2人の頬を撫でる。朝の匂いは次第に消えていき、都市は喧噪へと溺れていく。




 と、その時である。メシア・クライストは視線の端に飛び込む黒い物体に気づいた。ふと横に視線の矢を向ける。すると蒼天をひっかいたような白い跡が空にくっきりと浮かんでいるではないか。




「なんだろう」




 抱いたマリアの肩に入れる力を緩めて、彼女へも認識させようとした。




 涙と汗をテッシュで拭い、彼女も小首を上げた。確かに彼女の水晶玉のように丸い眼にも一筋の白いラインが見えた。




「飛行機雲かな」




 まだ泣いたばかりだからか、声が少し枯れてくぐもっている。




 晴天に一筋の雲が北側から西側の空へと続いているように見える。が、飛行機雲の定規で引いたような雲とは明白な異なりがあった。




 一筋の雲というよりは、煙を横にしたような大きな膨らみが幾つもある。




 1万から1万5千メートルが飛行高度なのに対し、明らかに雲は高度が低い。




「飛行機じゃないぞ、あれ」




 すぐさま彼の脳裡に、チェリャビンスクの隕石騒動を思い浮かべた。




 現にを引くその何かは西の空で閃光をひらめかせた。




 堤防の上に立ち上がる彼は、涙がまだ頬で乾かないマリアの腕を引き上げ、多少強引に立たせた。




「逃げよう。ここは危険だ。もし隕石だったら衝撃波がくるぞ」




 報道、放送、ネットで何度と繰り返されてきた衝撃の光景がメシアの脳裡に強く粘り着き、この状況で彼女を守る方法は逃げることだ、と結論づけた。




 堤防から乾いたアスファルトへ着地した2人は、町の方へとかけだしていく。




 海辺から町へは幾つかの道が通っているが、彼らはその中でも歩道に近い、車一台がやっと通る幅の、海岸への一方通行の道を選択して駆けた。




 自然の2人は手を繋いでいるが、お互いに汗が噴き出ていた。




 メシアは彼女の小さく柔らかで、今にも消えてしまいそうな手を、多少強引に引いて駆けながら、後ろを振り返った。自分の焦る姿に不安を抱く彼女の表情を和ませるべく、笑顔を見せるが、自分でも顔の筋肉が硬直しているのは把握できた。




 ぎこちない笑顔を不安の影に包まれた顔に戻し、空を見上げる。海岸線には高い建物がないせいもあり晴天を見上げるのは容易だった。が、見上げて彼はその愕然たる光景に脚を止めてしまった。




 意思疎通ができるほど個人が他者と交わる時代ではない。彼が停止すれば彼女は予想通り彼の身体に細身をぶつける。




 小さく悲鳴を上げ立ち止まるマリア。どうしたのよ、と彼を見上げるとその瞳は天空に引き寄せられているのが分かった。




 それをみた彼女もまた空を見上げる。そして息を引いた。




 青い空に無数の雲が煙りのように八方へ筋を引いている。まるで巨大な柱を空に組み立てたようだ。




「・・・・・・これは、ただごとじゃないぞ」




 呆然の中にも驚愕をはき出すメシアは、さらにマリアの手を強く握り、さっきよりも駆け出す速度を加速させる。




「とにかく頑丈な建物の中に逃げるんだ。地下でもなんでもいい」




 興奮の口調は半分ききとれない奇声にも似ていた。




握られた手に痛みをマリアは感じた。と、痛みを感じたのと同時に、メシアが凄い力で引かれ、自然と走り出した。




 逃げることに必死で、彼女を気遣う余裕もなく、メシアは逃げ込む場所を探す。と、渇いたアスファルトを蹴りあげ、首を振っている眼に、ぽっかりと口を開けた地下鉄の入り口が飛び込んできた。




あれだ。と、口の中で叫びメシアは彼女を半ば放り込むようにして地下鉄の入り口を降りていった。




 階段を駆け下り、ホームまでの長い距離を進もうと2人が脚を踏み出そうと瞬間、地面から突き上げる衝撃で、2人は思わず鉄板を貼った壁へてをついた。その手のひらからも、振動が微弱ではあるが伝わってきた。




 同時に、今降りてきた階段から砂塵が吹き降りた。




「隕石が落ちた」




愕然と落とすようにメシアは呟く。そこには恐怖に震える感情しかなかった。




 マリアは力の限り彼の上着を掴んだ。




その手をメシアも包むように掴むと、地面を跳ねるようにマリアを引いて通路を進んだ。できるだけ地下へ、できるだけ安全な場所へ。口の中にはそうした意図の言葉はかいむだったが、心中には思いが大きく、マリアを助けたい、救いたいというのが、自然と速度を加速させた。




脚が絡まりつんのめりそうになりつつも、彼の手にしがみつき、彼女もその言葉の通り、必ず生き残るために必死だった。




 開けたホームの入り口に、吹き出される水のごとく飛び出した2つの影は、矢継ぎ早に改札機械を乗り越え、高さのない薄く、数段の階段を飛ぶと、複数のホームへ伸びる、いく本の通路から、一番右側を選択すると、胸の苦しさなど放置し、脚が持つ限り、全速力で走った。




 そして気づいたとき、これまでになく呼吸の粗い2人の疲労した身体の前に、複数の人影があった。




 そこは地下鉄のホームであり、電車がホームヘ滑り込んだまま、機能している様子は感じられなかった。




 それどころか、ホームへの電気供給も絶たれたらしく、非常灯が非力な光を放つばかりである。




 2人の他にも幾人もの人がまた、彼らと同じ考えで地下へと避難していた。




 自分たちだけじゃなかった、と安心の吐息をメシアが漏らした時、またしても地響きと、這うような地鳴りが地下空間を揺さぶった。しかも複数回。誰が感じたとしても、腹のそこから響くそれは、いくつもの隕石が落下した衝撃なのは日を見るよりも明らかだった。




 誰からともなく、耳をつんざいた、異変へ対する悲鳴は、ひび割れた鉄筋コンクリートへ反響した。




稲妻と肩を並べる地響きは、天井付近の柱に蓄積したほこりと砂塵と虫の死骸が、雪のように、降ってくる。その中にあって、美しい花のような、唯一の支えであるマリアを、メシアは抱き締めた。




 そこへ聞きなれた声が2人の肩を叩いた。




「無事だったか」




 顔を上げた2人の前に黒いシルエットが、ぼんやりと湖面へ落ち葉が浮き上がって来るように、揺らめきながら現れた。非常灯のせいもあるのだろうがどこか、蜃気楼にも見えた。




「俺だよ、ファンだ」




 と、咳き込んでいう男の顔が2人の視野を支配した。




 メシアが喜びで高揚した顔で立った。




 つられてマリアも立ち上がったが、メシアの顔にあるような高揚は皆無だ。




「生きていたんだな」




 ファンと名乗る長身の男の肩を力強くメシアは掴み、生ある現状を喜んだ。




 と、メシアは服の裾を外側に引っ張られる感覚に気づいた。そこでマリアが自らの友であるファン・ロッペンと初対面である事実を呑み込んだ。




「そっか、初めてか」




 改めてメシアは彼女へ友を紹介した。




「ファン・ロッペン。大学に入学した日だったかな――」




 ファンの顔を見上げ、出会いの日を頭の中で追憶した。




 ファンはメシアと同じ25歳の面長の面長の男である。




 が、状況は自己紹介すらも許してはくれなかった。雷鳴のような割れる轟音が地下鉄構内を駆け抜けた。




「何やってんだ。死んじまうぜ、ここにいたら」




 少年を連想させる、悪戯っぽさのあるころころとした声は、3人の張りつめた緊張の糸を緩くした。




 メシアとマリアは声色に聞き覚えがあった。




 振り向くとやはり、身長が低い、少年というよりも小僧の風貌をした、タンクトップにハーフパンツの男が、けだるげに3人を見ていた。




「お前はやっぱりしぶといよな」




 自然とメシアの口が緩み、心が和んだ。




 イラート・ガハノフ。高校がメシアと一緒であり、メシアは同じ年齢でありながら、弟のように扱っていることもあって、幾度かマリアとも会ったことがある。




 が、2人が懐かしむ余裕も事態は与えてはくれない。再び落雷が噛め際を走り抜け、地響きが地面から人間たちを突き上げた。構内のタイルを悲鳴が撫でてパニックが花びらを開いた。




「外に出た方が生き残れるかもしれない」




 話はすでに生死の分かれ道まで進んでいることを、淡々とファンは口にした。




「駄目だ。階段は瓦礫で塞がれた。外には出られない」




 状況をファンに説明するメシアの肩を、ファンは叩いた。そして構内の全員を誘導するように発声した。




「トンネルだ。もうトンネルを通って次ぎの駅から外にでるしかない」




 これを聞いたイラートは、先頭に立ちたがる園児のように真っ先に、トンネルへと駆け下り、掛けだそうと砂埃が蓄積したコンクリートを蹴り、煙を上げた。




「明かりもないのに1人で行く気? ほっと馬鹿なんだから」




 と、スマートフォンをシーンズのポケットから取り出し、ライトを点灯させ、ピチャリとイラートを叱る声を出す女性が、ファンと横に歩みよった。




「スマホを所持してるなら、全員にライトを点灯させるべきね」




 エリザベス・ガハノフ。イラートの姉で、メシアたち同年齢の男たちよりも2つ年は上である。




 黒髪が美しい長身の女性は、Tシャツにジーンズというラフな格好ながら、不思議な色気のある女性である。




 イラートと仲の良いメシアは、昔からの顔なじみである。




 またファン・ロッペンとも同大学でメシアとの親交があったことから、エリザベスとファンも知り合いである。




「いいや、駄目だ。全員がスマホを使用したら、すぐに電池が切れて電源がなくなる。半分の人間が点灯して、もう半分は電池を温存すべきだろう」




 小声でファンとエリザベスは会話した。




 この時、初めてエリザベスと顔を会わせたマリアは、なんて美しい顔をしているのかと思った。鼻筋は通り、眼は大きく、黒く長い髪は薄暗い構内ですら濡れたように光っていた。




 話を終えたエリザベスがマリアの視線に気づき視線を合わせてた。マリアは思わず視線を下に落とし、顔を背けてしまった。




「皆さん、聞いてください。ここから出るために、皆さんで協力しましょう」




 長身の男が話し出したことは、構内の注目を吸い取るには丁度と良かった。




第1話―3へ続く


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