第1話

第1話−1

昨晩のアルコールがまだ残っていた。安いウィスキーを飲んだのがまずかったのか、BARを出てから5時間、何をしていたのかまったく覚えていないメシア・クライストは、朝日がビルの隙間から梯子のように伸びる先の5メートルほどしかない短い橋の上に立ち、眼の奥にしみる朝日を眺めていた。首の後ろから後頭部にかけて上がる気分の悪さと、重心の傾きを抑えられない倦怠感が肉体を支配しているのが分かった。




 意識が戻り始めて、そこが知っている場所なのに初めて気づいた。スマートフォンで時間を確認すると、6時を過ぎたばかりだった。




 とりあえず知っている場所で休みたいと考えたメシアは、ふらつく足取りで、身体を休める場所を目指した。




 街の朝は人の気配に満ちていた。彼が立っていた橋は少し路地に入ったところにあるためか、人の気配がまばらだったがそこより、少し通りの大きいところへ歩を進めるだけで、ラッシュアワーの大河へとぶつかった。この日は平日ともあって朝の人混みは喧噪を極めていた。路地から顔を出す彼の表情は明白な二日酔いが目の下に現れ、通り過ぎる人々の瞳には、怪訝のもやがかかっている。




 腹部から刺激の強いものが上がるのを喉に刺さるトゲで把握しつつも、吐くまではいかず、ひたすらに人の波の中をめまいを伴いながら歩く。




 するとそこをスクールバスが過ぎていき、子供たちが彼に手を振る。彼もけだるい腕を必死に上げて手を振り返した。




 先日、彼が働く建築会社の仕事で、学校へ補修工事の打ち合わせに出かけた時、子供たちとバスケットをしてついつい仕事を忘れて遊んでしまってから、この辺の子供と仲良くなっていた。




 人混みから逃げるように離れた先に、角が欠けたコンクリートの階段が現れ、彼は這うようにその三段を上がると、いつも以上に重く感じる渋い木のドアに、もたれかかるようにして開き、釣り上げられた魚のごとくすぐ目の前の長椅子に座った。




 朝とあって人の姿はないが、古い教会の天井付近にあるステンドグラスから朝日が中央付近へ降り、神々しい朝の空気が張り詰めている。




 彼はこの時、人がいないと思っていたが、横に朝のお祈りに訪れた、ラテン系の80代と思われる老婆が座っており、膝の前を通り過ぎようとして立ったが、老婆の膝が力が入らないのか、態勢を崩してしまい、彼にもたれかかってきた。




 とっさに彼は老婆の頭に手をやり頭を打たないようにして抱えると、倒れることだけは何とか避けられた。




 老婆は25歳の青年の身体に触ったせいか、少し楽し気に笑いながら頭を下げ、教会から出ていくのだった。




 メシアは自分が場違いなのを理解しながらも、そこで時間にして20分、全身の力を抜き、ぐったりと横になっていた。




 奥の色あせた木製の分厚い扉が開き、1人の男が礼拝堂に入ってきた。中年の男である。




 丸い眼鏡をかけた男の姿は誰が見たとしても、神父とすぐに分かる黒い衣服を着用して、手には分厚く、古びた聖書を持参していた。白髪交じりで50代前半の神父は、笑顔皺が目じりに刻まれていた。




 マックス・ディンガー神父は丸めがねから礼拝堂の一番奥の椅子に立ち膝をして横たわっている男の姿をすぐに見て、軽く微笑した。




「また朝まで呑んでいたのですか?」




 神父の声は溜息であった。これで何度目か、という溜息である。




「とりあえず水を」




 力のない腕が椅子の奥から天井に上げられ、神父に助けを求めていた。




 やれやれと首を振る神父は、聖書を横の台に置き、一度おくへと引き返し、3分ほどで戻ると、打ち上げられたワカメのようなメシアへ水の入ったグラスを差し出す。




 身体のバランスがとれない彼がようやく身体を起こし、ステンドグラスの光が乱反射するグラスを握りしめ、一気に水を喉の奥に流し込み、顔の中心に皺を寄せ、自分のふがいなさと多少はスッキリした気分を、大きな呼吸で表した。




 神父は人差し指の第一関節の甲をくるりと丸めて眼鏡の縁を押し上げる。大きさが合わないのか、定期的に眼鏡を押し上げなければ、鼻の下まですぐにさがってくる。




「気分が良くなるまでここで休むといい。まあ、君のことだ、そうするだろうがね」




 嫌味のない笑みを浮かべ、メシアの肩に手を置いてから、革靴を古いコンクリートの床で鳴らしながら、奥へと戻って行った。




「いつも、すまない。ありがとうございます」




 一応の挨拶はするものの、毎回のことだけに悪びれる様子のないメシア・クライスト。




 奥の木戸が閉じるのを見届けてからふと壁際の置き時計へ眼をやる。赤ちゃんの様相をした2人の天使が時計を掲げているデザインの時計。その針は6時半を過ぎたことを彼に提示している。




 仕事に行く準備をしないと。いったん、家に帰るか。心中で呟き、さっきよりは姿勢を保てる身体を起こす。と、手にグラスを掴んでいることに気づいた。




 家の次ぎに親しみのある建物だから、教会の内部構造は完璧に頭にあり、自然と神父が戻った木戸を開け、小さい中庭を抜ける廊下通った。




 中にはには一匹の猫がちょこんと座っていた。いつもこの辺をうろついている野良猫である。彼ももちろん知っていたから、声をかけた。




「おはようさん。お前はのんきな朝かい?」




 猫は大きな悪意をするだけで、サバ柄の毛並みを舐めて整えると、歩いて中庭から出て行った。




 これを見たメシアも自分の黒髪を撫で、初めて髪の毛が乱れていることに気付き、なおした。




 それから神父の母屋へと脚を踏み入れた。




「コップ返しにきたよ」




 水分を摂取したそばから乾く、二日酔い症状がある舌先で神父を呼ぶ。




 奥から聞こえてきたのは、言い争いをする声であった。




「どうしてよ、なんでわかってくれないの」




 若い、少女の幼さが残る声色が激しく何かを拒否する声だ。




「君こそ何故わからない、マリア。もうここは君の居る場所ではない。独り立ちの時だ」




「分からない。お父さんはわたし追い出したいの?」




 長い黒髪の背が低く、細い身体をしたもうすぐ二十歳の少女の丸い眼から滴が今にもこぼれおちそうだ。彼女は神父を睨むように見つめている。




「マリア・・・・・・」




 神父の分厚く、太い指が彼女の小さい頭に触れた。




 彼女は神父の腕を振り払い、駆けて部屋を出て行く。




 部屋の出入り口でグラスを手にしていた彼の横を、細身の彼女が通る。彼女の顔には気まずさがにじんでいた。




 突然の事にグラスを持った手を上げたまま呆然とするメシアを神父はみやった。丸い眼鏡の奥の眼はペンで書いたように細くなってはいるが、目尻の皺には苦いものが浮かんでいる。




「追いかけてくれますか」




 まだこめかみの辺りに締め付けるものがあるメシアは、グラスを出入り口近くの棚に置き、足早に踵を返した。




 丸めがねを人差し指で押し上げ、後ろで腕を組むと1つ溜息を吐いた神父は、数歩先の淡い赤色のクロスがかかったテーブルの上に、テレビのリモコンと無造作に置かれた携帯電話を見つめた。




 型番が古くなった携帯電話を開くと、神父はかけなれている番号を素早く親指で押し、耳に着けた。




 「まだ準備はできていないが、行動を起こす時だ。いつ、奴らが動きだしても不思議ではない。過去の時間誤差がどれだけずれているか判断できないが、そろそろであることには違いない。メシア、マリアともに身柄を確保しなければならない」




 言葉を終えた神父の目じりには、それまでにあった優しさはなく、険しい顔つきになっていた。






第1話―2へ続く

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