挑戦

 アランが住む街は大きな湖の傍にある。


 微生物の多い生物にとって住みやすい湖である。そのため多くの魚類や海藻類が生息している。街が発展したのは湖のおかげである。人口はおよそ七万人。四つの大通りと八つの街区。住宅は密集し、数多の小道が迷路のように繋がっている。そんな窮屈な街。


 大通りはどこも市場になっており、様々な屋台が並ぶ。屋台では今朝湖で獲れたばかりの魚や貝、別の街の特産品、燻製肉などが売られている。


 アランの家は大通りから離れた第七句の路地裏にある。縦に細がない、真っ白な壁と茶色の屋根が特徴の一般的な建物である。


 アランは祖母と二人暮らしだ。生活は祖母がため込んでいたお金と、父が戦死したために国から定期的に支給される補助金でまかなわれている。



「また明日。さようなら。アラン君」



 女神は最後にそう言い残した。


 だからまた会えると思った。


 でも次の日、女神と出会った場所に行っても、女神はいなかった。その次の日も、そのまた次の日も。気づけば五日が経とうとしていた。


 アランの部屋は祖母の家の四階にある。小さな部屋にはベッドと机と椅子とクローゼット。最低限の内装。床は洋服と本で散らかっている。


 そんな部屋でアランはベッドの上で、傷ついた肌に薬を塗っていた。


 そこはスライムの死骸がへばりついた箇所である。スライムの体は弱い毒を持つ。それがアランの肌を傷つけていた。若干赤色に変わった肌を見てアランはため息を漏らす。


 どうして女神は来てくれないのか、アランはずっと考えていた。



「僕が弱いからかな」



 きっと弱いから現れないのだ。


 きっと弱いから呆れたのだ。


 強くなろう。強くなれば、また出会えるはずだ。


 そう思って、アランは壁にかけていた木の剣を手に取った。幾つかの薬と乾燥肉を袋に入れて、部屋の外に出た。


 行動はすぐにしないといけない。そうしないと、その行動の意味は徐々に消えていく。


 祖母が眠っているのを確認してこっそりと家を出て、人通りの少ない道を選び、外へ通じる穴を目指す。



「アラン君。どこに行くの?」



 ふいに聞きなれた声で呼び止められた。



「お姉さん。こんにちは」


「こんにちは、アラン君」



 アランはその声の主へ目を向けると、見慣れた女性が立っていた。


 アリシアという名の魔法使いの女性。魔法使い特有の紺色の三角帽子とコートを来て、両手にアリシアの身長以上の杖を握っている。髪は茶色でどこかくせっけが見える。真っ赤な瞳がアランを愛おしそうに見ていた。


 アリシアはアランにとって実の姉に等しい存在だ。自然と本音をぶつけることができる相手である。


 アリシアはアランの腰にぶら下がった木の剣に目が行く。



「また特訓?」


「うん。早く強くならないといけないから」


「そう、頑張ってね」



 そして、アリシアはアランの穢れた肌に気づく。


 その視線に気づいたアランは冷や汗をかく。


 見る人が見ればそれがスライムの毒が原因であると分かることだろう。しかし、思い込みというのは強いもので、誰もアランが街の外に出たと思う人はいない。外に出れるはずがないのだから。



「その怪我、どうしたの?」



 アリシアはアランの顔に触れた。顔元の赤く染まった傷跡に目を向ける。触れられた時の痛みをアランはぐっと我慢する。



「特訓している時に転んじゃって」



 なるべく心を隠すように、アランは笑顔でそう言った。



「転んで、そんな傷付かないと思うけども」



 アリシアは不信の目をアランに向けた。アランの顔から手を放して、その手に薬が塗ってあることに気づく。マントの端で、手を拭いた。



「もしかして、アラン君、街の外に出てない?」



 手を拭きながら、アランは慌てたように首を横に振った。



「そんなことしないよ。それにどうやって外に出るの?」



 アリシアは首を傾げる。



「秘密の抜け穴とか? 壁のどこかに外と通じる穴があったりするんじゃないかな?」



 まるでアランの心の中を探るように、アリシアはアランに近づいた。


 アランは決して顔に出さないように歯をかみしめた。


 アリシアはそんなアランに対して、ふいに微笑みを浮かべた。



「冗談だよ。そんなのあるわけないよね。あったら、絶対気づくもの。街の兵士たちが毎日のように壁の点検をしているのだから」



 アリシアは笑顔をアランに向ける。先ほどの疑いの目は消えていた。助かった、とアランは心の奥底で思った。


 アリシアはアランの頭を数回撫でる。



「特訓、頑張ってね」


「うん。ありがとう、お姉さん」



 アランはアリシアにそうお礼を言って、走って逃げた。


 まだ大丈夫。そんな曖昧な考えは危険だ。戦いにおいても、人間関係においても。まだ半信半疑程度なのかもしれない。


 それはいづれ、真実へつながるものだ。


 大人たちにばれる前に、早く強くなろう。もうこんなことをしなくて済むように。その決心がさらに強くなったアランはスライムを相手にして、劇的に強くなれるか疑問に感じた。その先へ進んでみるべきではないだろうかと。


 街の外近くをうろつく化け物はスライムしかいない。でもその奥、森の方角へ進めば別の化け物も生息している。



「誰だったかな。洞窟があるって」



 そんな話を誰から聞いたことをアランは思い出す。


 例えその話が真実だろうと嘘だろうと、奥へ進めばさらなる強敵と出会えるかもしれない。


 中には、アランにとってスライム以上に戦いやすい相手がいるかもしれない。


 本当に危険な状況に陥れば、人は急激に強くなれるかもしれない。


 そんな好奇心がアランを刺激した。


 目的の場所に到着すると、アランは周囲を見渡した。周囲に人の姿はない。壁近くの小さな公園。あるのは古びた井戸ぐらいなもの。周囲の背の高い草がアランを隠してくれる。


 この井戸はまだ現役であるが、綺麗な水と言い難い。日常的には使われていない。使うとしてもレンガや金物を急激に冷やすためである。


 井戸の上に作られた屋根から降りる紐を伝い、アランは井戸の中に入る。井戸の底には地下水が貯まっており、土のにおいがする。


 その底すぐ傍に小さな横穴が開いており、アランはその穴に足を置いた。体を捻らせて穴の中に体を収める。アランぐらい小さな子供であれば通れる横穴。真っ暗なその道を手探りで進む。


 この横穴の数メートル上には建物が並ぶ。その建物の重さに耐えられるほど固い岩盤が横穴の上にあるために、保っていられる。



 秘密の抜け道は、こんなところにある。



 だから誰からも気づかれない、アランだけの秘密である。


 先へ進むと眩しい光が見えてくる。横穴の出口は街の壁から少し離れた場所に繋がる。出口は少し盛り上がっている。よっぽどの物好きでなければ、調べようとは思わない。動物が掘った穴として処理される。


 アランはそんな穴から抜け出した。周囲を見るも、人の姿はない。


 唯一気を付けないといけないのは壁の上を歩く兵士であるが、よっぽど視力が良くて、それでいてこの穴付近を見ている時ぐらいである。


 壁から離れるように森の方角へ進む。木の陰に隠れて、アランは自身の服やズボンに着いた土を払った。


 そして奥へ視線を向ける。


 木が徐々に密集し、やがて森へと変わる。その境界線は曖昧であるが、アランはその曖昧な境界線にも近づかないことにしていた。



「スライムは近くにいないかな」



 耳を澄ます。スライム特有の音は聞こえない。


 アランは勇気を胸に、木の剣を構えて、奥へ進んだ。


 十歩、二十歩。少しずつゆっくりと街から離れる。


 たったそれだけでアランは自身が強くなったような気になれた。その行動力を自分自身で褒め称えた。今日の自分は昨日の自分と大きく変われると、アランは確信する。


 周囲への警戒も怠らない。耳は常に意識している。


 どれだけ歩いただろうか。遠くに見えた壁はもう見えない。


 鳥のさえずり。草木が風で揺れる音。土の踏む足音。普通の変わらない音の中に、ふいに不快な音が混ざった。


 今まで聞いたこともない、不快な音。


 アランは立ち止まる。周囲を見渡した。



「イケナイ、イケナイ。コドモガヒトリ」



 その不快な音を発する生物は一言で言えば羽の生えた小人であった。


 六枚の虫のような羽。真っ白な肌に真みどりの髪。目は赤く、服は白い。そんな見たこともない生物。


 あるいは化け物。


 アランは剣を構える。まだスライムと比べて非力そうであると、アランは思った。小さな虫に剣を当てることは難しいが、反撃されても痛くもかゆくもない。


 目の前の化け物は不適な笑みを浮かべる。


 敵意がないことを伝えたいのか両手を上げた。



「アラソイハ、キライ」



 その言葉を鵜呑みにして良いか、アランは考えた。


 もしかしたら油断させるためにそう主張しているのかもしれない。人形のように変わらない表情から、アランはその化け物が何を考えているかなど分かるはずもない。


 悩みに悩んだ末、アランは信じることにした。


 構えていた剣を降ろす。



「ヨカッタ」


「君は何なの?」


「ワタシハ、ワタシモ、ワカラナイ。ヒトカラハ、シルフ、トヨバレテイル」



 シルフ。その名前をアランは聞いたことがあった。森に住む精霊であり、決して化け物ではない。絵で見たことはあったが、実物はなく、少し感動を覚えた。



「そっか、君がシルフなんだ」


「ソレヨリモ、ハヤクニゲタホウガイイ」


「どうして?」


「キケンガセマッテイルカラ」


「危険? なんのこと?」



 アランが聞くと、シルフは森の奥に視線を向けた。


 何かが歩く音。草木が倒れる音。巨大な何かが動く音。アランは目を細めて、遠くを見ようとする。


 異形の化け物。


 それがアランの方へと進む。


 アランはまだ何も知らないのだと思い知らされた。小さな世界しか知らなかった。広い世界には様々な化け物がいて、中には人なんか簡単に殺せるほど強い化け物もいる。


 外が危険であると再認識する。



「何あれ」



 アランの質問にシルフは小さく呟くように答えた。



「ジャバウォック」

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